①章 裏野ハイツで君を待つ
コンクリートジャングルの都会から最小限の荷物を手に私、御神 望はここ愛思県 闇深市 波野ヶ裏にある裏野ハイツ203号室へと引っ越してきた。
生まれも育ちも東京の私が、仕事もなにも全て捨ててまで一人でなんでこんな田舎へと引っ越したかというと――この場所にある海に……大事な人を連れ去られたからだ。
私の愛しい彼女である君野あゆみを取り返しに来たのである。
裏野ハイツを生で見たのは今日が始めてだった。会社を退職するにあたって引き継ぎなどでバタバタだったので、東京の不動産を経由して部屋を契約してもらい、部屋の内見は一切していない。
愛思県 闇深市 波野ヶ裏に来たのはこれで二度目だ。
一度目は今年の四月に私はあゆみと波野ヶ裏に旅行に出かけた。
あゆみが「泳がないでいいから綺麗な海が観たい」と、言ったので私たちは波野ヶ裏を旅行先に選んだ。
波野ヶ裏の海は綺麗で、二人で景色と買い話を楽しみながら海岸を散歩した。あゆみは付き合い始めた中学生の頃から全く変わらない無邪気な笑顔でいつも私のそばにいてくれた。私はあゆみが大好きで幸せだった。滞在予定五日間の旅行の一日目、二日目は楽しい時間を過ごしていた。
だが、三日目になんと波野ヶ裏に大嵐がやってきて私達は旅館の中から出られないでいた――そしてこの日、あゆみは海に攫われた。
あゆみはその日、旅館の窓からずっと外を見ていた。
「ねぇ、望。外、なんか綺麗」
ニコニコとした顔で私に嬉しそうにあゆみはそう言った。
あゆみも私同様に都会っ子であるがゆえに、こんな田舎のガチな嵐は初めてみるので妙なテンションに彼女はなっているなぁ……と私は思い、ハハハハハと笑ってあゆみを撫でた。
この日は旅館内のレトロゲーム中心のゲームセンターで遊んだり、私もあゆみもアナログゲームが趣味だったので、こんなこともあろうと持ってきていたゲームを部屋でやった。
部屋に食事を運んできてくれた旅館の女将が、明日の朝には嵐が過ぎ去り良い天気になると言うので、私達は明日おもいっきり外で遊ぶ為、早めに休むことにした。
あゆみを抱き、心地よい眠気が襲ってきた私はいつの間にか眠りに就いていた。
そして私は不気味な夢を見た――知らない部屋の窓を一枚一枚開けていく夢だ。
ベランダの窓だったのだろうか、そこを開けるとあゆみがいた。
オーシャンビューでベランダからは海が見えたが、夜だったからか海は真黒だった。
あゆみはベランダに立っていたのでもなく、その真黒な海に浮かんでいた。
よく見ると四肢がなく海に溶け込み一体化しているようであった。
そして、そのあゆみと私は目が合い、あゆみは……口を動かして、何か私に伝えようとした。声は聞こえない……否、届かないのであったのだろう。私は口の動きであゆみが何を訴えているのか、理解することにした。
「 む・か・え・に・き・て 」
「うわあ!?」
私は夢から覚めた。汗で体中がべとべとだった。急いで隣で寝ている筈のあゆみの見ると、そこにはあゆみはいなく……メモが置いてあった。そのメモを読むと、私は全身が凍りついた。
『 望へ どうしても嵐の夜の海が観たいので観てきます。覚悟はできてます。 』
嵐の夜にあゆみは私が寝ている隙に海を観に行き、そのまま二度と帰ってこなかった。
****
パニックで真っ白になっていた頭の中に、唐突に高校時代に私にあゆみが哲学的な事を言い出した記憶が蘇えった。
「ねぇ、たまに大嵐の日に嵐の海を観に行って行方不明になる人がいるよね?」
カフェで宿題をやりながらあゆみは私にそう言った。
「ん? いきなり藪から棒になんだよ、まぁ……いるよね、そういう人」
突然の話題に私は戸惑いながらも、話を合わせた。
「当然非難注意報や、外出禁止令が出ている筈なのに……それでも! 観に行く人がいるんだよ! 命を賭けてまで観たい美しい景色がそこにはあるんじゃないかな! 」
あゆみは興奮気味で私にそう言う。私は確か、苦笑いで返した。
「私ね、覚悟はできていたと、思うんだ! それぐらい価値がある景色なんだよ」と、最後にウキウキとあゆみはそう言ったのであった。
あゆみは大嵐の海に昔から興味があったのだ……。私ならそれに気づけて阻止できた筈なのに、何もしないで昨日を過してしまい、彼女に嵐の海に行くチャンスを与えてしまった……。悔やんでも悔やみきれない後悔だ。
私は、警察や地元の住人の人たちとあゆみを捜索したが――あゆみは見つからず、海に呑みこまれ死亡したことになり……捜索は中止となった。
あゆみを失って東京に戻った私は、絶望の渦中にいた。旅行の残りの二日間で私は実はあゆみにプロポーズをしようと考えていて、指輪を持ってきていた。
その指輪を部屋で眺めていると、あの旅行で泊まった旅館の女将から手紙が来た。
その手紙にはあゆみを外に出してしまった謝罪などが書いてあったが、あゆみが旅館の非常出口を壊して外に出たらしいと警察の方に伺ったので、私は旅館に責任があると思っていない。
責任があるのは――私だけだ……。
手紙には他に噂話が書かれていた。なんでも波野ヶ裏の海で行方不明になった人達が帰ってくるとの噂がある『裏野ハイツ』という賃貸物件があるらしく、そこの203号室が現在空室となっているとの情報が書かれていた。その胡散臭い情報でも私には涙が出るほどの吉報だった。
その部屋に海で行方不明になった人の大切な人が住むとその行方不明者が戻ってくる例が何軒もあるという。私は知り合いの不動産に頼み、すぐにその部屋を確保してもらった。
東京のタワーマンションに住んでいた私だったが、その部屋は借りっぱなしにして引っ越しすることにした。私の親は経営者をしていて、いずれ私に会社を継がせる為か、少々この齢になっても過保護であった。心配をかけると本当にまずい、引っ越しを反対される確率が非常に高いし、会社も退職しなければならないので反対は必至でそれも明かす事はできない。
なので、帰るところだけは残し、親には内緒で私は東京を後にした。
そして、今日――私は二度目の愛思県 闇深市 波野ヶ裏に来た。そして今日からここが私の居場所になる。『裏野ハイツ』の中に入ると、七月の熱いこの時期の筈なのに私は全身に寒気を感じた……。
部屋の中は――あゆみが消えた嵐の夜に私が見た不気味な夢にでてきた部屋そのものだったからだ。
こうして私は『裏野ハイツ』へと引っ越しを終え、ここの住人となった。
****
とりあえず、あの夢と同じく空気を入れ替える為、窓を全部開けることにした。
夢であゆみを見たベランダの窓を、あゆみがいるのではないかと期待して一番に開けたが、あゆみはいなかった。
その代り、綺麗な海がベランダから一望できた。なんだか先程感じた寒気もなくなり、心が澄む感じがした。こんな穏やかな感覚はあゆみがいなくなってから初めてだ。あゆみが近くにいるそんな気さえしてきた。
最後に玄関通路の窓を開けると――今にも飛び出しそうな大きな目玉をきょろきょろと動かす老婆が、口を大きく開けこっちを見ていた。
「うわあ!!」
私が老婆に驚くと、老婆は不気味にほほ笑んだ……。
「よろしく、何でも私に聞きなさい」と、老婆は驚く私に言うと、すぐに去り201号室へと入った。
201号室に入るのが窓から見えたのでどうやらこのハイツの住人さんみたいだ……。なんだか失礼な態度をとってしまったので、明日謝りに行こう。
最低限の家具を配置し、少ない荷物を整理した。あまり時間は掛からなかったが、東京からここに着いたのが昼過ぎだったのであっという間に日が暮れた。
夜になると、昼とは一変し――嵐になった。
嵐がくるなんて天気予報では言ってなかったので予想外だったが、今日は駅の近くのスーパーで夕飯用に買ったお弁当があったので助かった。戸締りをしっかりして、今日は早めに寝て明日からあゆみを探したり、情報を集めようと思う。ハイツの住民の人達に挨拶にも引っ越しの行かないといけない。
ご飯を食べ一段落して思った。この部屋は古い木造だが1LDKと広く、徒歩十分圏内にコンビニ・郵便局・コインランドリーあるので以外にお値打ちで住みよく、良い物件かもしれない。あゆみを待つ環境として悪くない、あゆみも見つかればここで暫く生活できる。そしたら――プロポーズをして東京に戻ろう! 久々にそんな前向きで楽しい未来の事を私は思った。
「さぁ、風呂に入って寝るか」
今日一日の汗を洗い流す為、私は風呂場に向かった。
なぜだろうか、昼に風呂場の窓を開けた時には感じなかった――凄い異臭がする。
下水の甘酸っぱい嫌な温い様な臭いがする……換気をしたいが、嵐で窓が開けられない。
小さな風呂場の換気扇で我慢し、風呂に入った。
今日は湯船を溜めなかった。シャワーを浴びていると……湯船から、異臭が出ていることに気づいた。そして、なぜだか妙な視線を感じた……この家には私以外誰もいないはずなのに……。
臭いがしたのは湯船が溢れそうになるのを防ぐ、湯船の中の上のほうに付いている排水口からだった。
排水口のふたを恐る恐る開けてみると……中からうじゃうじゃとゴキブリが飛び出してきた。
「うげっ!」と、声を漏らした。全身に鳥肌が立った。急いでシャワーを排水口に向けて流すと、ゴキブリ達が湯船の下の排水口から流れて行った……。
シャワーをあてればあてるほど排水口から真黒な水が出てきた。かなりカビていて黒ずみがひどい。そして、何かが大量に排水口に詰まっている……。勇気を出して引っ張ってみると――動物のような毛の塊が沢山出てきた……あまりに不気味で、すぐに嵐などおかまいなく、窓を開け外に投げ捨てた……。
「ハァ……ハァ――」
な、なんなのだ、これは……実に気持ちが悪い……。私は綺麗にしようと続けて排水口にシャワーで水を流した。すると……まだ何かが詰まっていた。もうどうにでもなれと覚悟を決め、私はその詰まっているものをすべて抜いた――それは人間の長い髪の毛の塊だった!
「うぎゃあああああ!」
透かさず、窓からその塊を投げ捨てた。塊は嵐の風に乗ってどこかに吹っ飛んだ。
だが、恐怖はまだ終わらなかった。髪の毛の蓋が取れると、排水溝の中から沢山の虫がカサカサと出できた――シャワーですぐさま抗戦し、下の排水溝へと全て流した……。
「も、もう……勘弁してくれよ……なんだ、この風呂は……あんまりだ」
そう私が嘆くと、最後に排水溝から大きなムカデがでてきた――ムカデにはヌメッとした小動物の目玉らしきものが沢山付着していた。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
恐怖のあまり叫び、シャワーをムカデに向けて投げつけると――ムカデはスピーディにそれを避けて、窓へと登り、窓から外に飛び出し、嵐に乗って去っていった。
あゆみ消失の原因となった嵐にこれほど感謝をする日が来ると私は思わなかった……あのムカデを連れ去ってくれて本当にありがとう……。
だが、嵐に吹き飛ばされる衝撃で無数にムカデに付着していた目が一つとれ――風呂場に残った。
その目玉は、怯える私をじっと見ていた――。