止まることなく
岩石を断ち切る音が、岩塊を砕く音が、魔法の爆音が、不思議なほど遠くに聞こえる。仲間たちの声も、モンスターの動く音も、どこか遠くの世界の出来事のような、不思議な感覚。隔離されたかのような、何もない世界に小さくダイヤルが刻む音だけが響く。
ダイヤルを回す右手の動きは数えきれないほど練習した。精密機械のように正確無比に、目盛りを飛ばすことなく一つずつ合わせる作業は常人ならば苦痛でしかないだろう。事実俺も師匠に教え込まれている時何度となく逃げ出そうと思っていたからな。
だがこの動きの先に大事なものがある。それを無傷で手にすることが出来るのは、その苦しい鍛錬を経て会得した技術を持つ者だけだ。そして今、この扉を開けることだけがアイラとセラを助ける手がかりであり、この場において俺が最もこの扉を開ける可能性を持つ。
周囲の敵は仲間に任せた。不安が全く無いかと聞かれれば否と応えるしかないが、俺の知る限り最高の仲間たちだ。こいつらでダメなら、他の誰がいても意味がないだろう。
「……ようやく半分あたりか? 少しペースを上げるか?」
音だけで判断するのは危険かもしれないが、振り向いて背後を確認する一瞬の時間すら惜しい。だがいつまでもこのままではいずれ仲間たちの体力も限界が来る。その前に俺がこの扉を開けることが、この絶望的な状況を打破する方法だ。
俺の腕を信じて、この危険な状況に飛び込んでくれた仲間たち。おそらく通常の探索なら、こんな罠しかない部屋は誰もが素通りするだろう。勝機のない罠に挑む必要などどこにもない。しかし俺がいれば対処できると信じてくれたから、未だに戦い続けている。
出来るだけ早く皆を楽にしてやりたい、そんな思いが去来して、つい手の動きを速めようとして……止めた。確かに動きを速めれば早く終わるかもしれない。だが反面、そういう判断の裏にはミスが隠れている。今まで順調だったはずが、何気ないケアレスミスが発端で大きな失敗へとつながっていく。
ダメだ、今はダメだ。何のためにあのモンスターが現れた? それはこの扉を突破しようとする者を排除する為だろう。殺さなくてもいい、傷つけなくてもいい、この扉の解除を失敗させればそれで目的は達成される。それを知りながら、自分のリズムを崩すような選択肢は、それこそ罠だ。
『いいか甚六、鍵開けを錠との闘いだなんて考えてるうちは半人前だ。突き詰めれば鍵開けは自分との闘いでしかねぇ。早く終わらせたい、早く楽になりたい、そんな気持ちが生まれた時、敢えて苦しい道を進めるかどうかで真価が決まるんだよ』
いつも同じところで失敗していた時、師匠はいつもそう俺に言い聞かせていた。今思えば、師匠はこの世界で何度も仲間たちの命を預かる仕事をしてきたから、より慎重になるように俺に教えていたんだろう。日本で鍵開けをしていても、誰かの命がかかるような状況などドラマか映画、それこそマンガの範疇で実際に遭遇することはない。
こうして仲間の危機に直面することを確信していたとしても不思議じゃない。師匠は魔王としてのリーゼロッテのことも熟知している。彼女ならこのくらい平気で仕掛けてくると予見したのであれば、きっとさらなる邪魔をしかけてくるだろう。
「……そう来たか」
扉に擦りつけている肌から伝わる感触が突然変わる。まるで小さな虫が這いずり回るような不快感、いや、事実小さな虫が扉の表面に小さな穴をあけてぞろぞろと這い出てきた。女の子なら悲鳴をあげて放り出して逃げるところだろう。
だがそれでもなお、俺は手を止めない。止めてはいけない、止めるはずがない。こんな嫌がらせのような手段を取る理由は何かと考えれば、自然と笑みすら浮かんでくる。理由は至極簡単、扉の解除が近いからだ。モンスターでの直接的な妨害も、ダイヤルによる複雑な構造も意味を為さず、今にも解除されそうな扉を護るための苦肉の策。精神的な動揺を誘ってミスさせようという魂胆が透けて見える。
悪いがこういう状況での仕事も経験済みだ。数えきれないほどのドブネズミやゴキブリに纏わりつかれながらの鍵開けもしたことがある。真夏のごみ置き場の鍵開けなんてウジがはい回るなどよくあること。虫にたかられたとてどうだというのか。後でミューリィの水魔法で洗い流してもらえばいい。
顔の位置を変え、鼻を作業着の肩に当てて呼吸を確保しながら、それでもダイヤルを回す手は止めない。顔じゅうに虫がたかり、目を開くこともできない。だがそれがどうした、目盛りの幅は既に覚えた、今更目で確認しなくてもきっちり一目盛り分の動きは出来ている。虫が動き回る音が内部の音を妨害する。だがそれがどうした、虫の動く音と内部機構が動く際に発する無機質な音、それを俺が聞き分けられないとでも思っているのか。
「ロック!」
ミューリィの明らかに焦った声がする。全身に虫を纏わりつかせているのだから当然かもしれないが、言葉を返すことなくさらに作業に没頭する。このくらいのことであいつに動いてもらうつもりはない。ここは俺が任された場所、この程度の妨害は意味を為さない以上、前に進ませてもらおう。
虫の発する雑音に混じり、時折聞こえてくるのはダイヤルが合って内部機構が解除される音。耳障りな雑音の中に混ざる微かな音は、勝利へのカウントダウンを刻み込んでいるようだ。もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐ解除できる……そう安堵した瞬間を見計らっていたのか、扉の表面に滑り落ちてくる液状のもの。そいつは目も鼻もなく、周囲の虫たちを取り込みながら正体を現す。
「マジかよ……」
虫たちの隙間から見えたのは、名前だけはよく聞いているが、こうして間近で見るのは初めてのモンスター、スライム。ゲームなどでは雑魚扱いされるこいつらだが、実際は洒落にならないくらいヤバイ奴だ。何せ液状生物なのでほんのわずかな隙間でも入り込める。予想もできないところから現れるので対処も難しい。そして……付着くらいなら対処できるらしいが、体内に入り込まれた場合は取り除くことがほぼ不可能、後はゆっくりスライムに浸食される死を選ぶか、仲間たちの手で焼き殺してもらうかの二択だという。そいつが今、俺の前に現れた。
虫を喰うことで手一杯なのだろう、俺に気付いた様子はない。幸いに動きは非常に緩慢、まだ俺に接近するには時間がある。
この場を一時離れるか? そんな考えが一瞬脳裏に浮かぶが、すぐにそれを否定した。すぐに作業に戻れるかなんてわからない。時間を無駄に費やすことが出来ないのは当然だが、何よりリズムを狂わしたくない。手に、指に残った感覚、耳に残った内部機構の音、それらが消えてしまったら、最初からやり直しなんて最悪の事態もありうる。
一時の身の安全を優先して、ここまでようやく辿り着いた成果を無駄なものにするのか? そんなこと出来るはずがないだろう。仲間たちは俺に影響を及ぼさないように配慮しながら戦っている。おそらく十全の力を出せていないだろう。命の危険と背中合わせで戦う仲間たちにそこまで甘える訳にはいかない。
なら続けよう。スライムが俺に到達するのが先か、俺がこの扉を突破するのが先か。鍵開けのタイムアタックなどしたことないが、集中力を切らさずに、精密な動きを維持しつつ、出来うる限りの素早さで対処しなければならない。
最後の最後でこんな厄介なものを出してくるとは、流石は魔王というところだろう。そしてここまで俺のことを試す必要があるものと言えば、もちろん大迷宮だ。魔王が大迷宮にどう関わっているのか、果たして何を知っているのか、それは必ずこの扉の奥にある。
虫を取り込みつつ、ゆっくりと近づいてくるスライム。酸を持っていることを伺わせる、鼻をつく刺激臭が心の奥底にしまい込んだはずの恐怖心を引っ張り出そうとしてくる。もう少し、あともう少し、そう自分に言い聞かせながら、気力を振り絞って平常心を保ち続ける。
息が届きそうなくらいに接近してくるスライム。俺の存在に気付いたのか、突如俺に向かって粘性の高い体を変形させて向かってくる。もうここまで来たら止めることはできない。俺が先か、スライムが先か、ただそれだけの単純なチキンレース。お互いにブレーキなどというものは存在しない、ぶっ壊れたレース。
「ロック!」
スライムの半透明な体が目の周りの虫を取り込み、眼前に現れる。半透明の体の中には酸によって溶けた虫が悪臭を放つ。それでもなお俺は手を止めない。
ミューリィの声が妙に近くに感じた次の瞬間、今までと明らかに違う一際大きな音が扉の中から聞こえた。それは俺が待ち望んでいた音、仲間たちが俺の腕前を信じて待ち続けた音。そしてスライムは俺の顔めがけてその体をさらに大きく伸ばし、恐怖のあまり目を閉じたその時……
扉が開いたのだろう、突如冷たい何かが俺の頬を掠めていった…・…
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「ロック!」
ゴーレムたちの攻撃が苛烈さを増し、戦況が防戦に傾きかけた。ううん、元々この戦いは防戦のみ、ロックがあの扉を解除すれば私たちの勝ち。そしてロックの様子を伺えば、扉から湧き出した大量の虫にたかられていた。
幸いに毒を持つものはいないけど、体が隠れるくらいに大量の虫は精神を疲弊させる。地味だけどとても有効な罠に、慌ててロックのもとへと向かおうとして、足が止まった。
ロックはそんな状況でも全く手を止めていなかった。その動きはより一層の正確さを見せて、扉の解除を続けている。その背中が私に語り掛けてきている。
『この程度問題ない、だから来るな、任せろ』って。
そうよ、ロックは私が体を捧げてもいいと思えた男、この程度のことで動じるはずがない。決して派手ではないけれど、わかりやすい強さは持っていないけど、誰にも入り込めない領域へと身を投じられる唯一の男。そんな男が信じろって言ってるんだから、信じない訳にはいかないじゃない。
いいわ、任せるわよ。だからあなたの背中は私に任せなさい。終わったらまず何よりも、一番に抱きしめてあげるから。虫がいようがそんなもの関係ない、しっかり背中を護ったって、胸を張って言ってやるんだから。
ロックを護るために再び背を向けようとした時、それに気づいた。最悪の状況で、最悪のやつが現れたことに。そんな気配はどこにもなかった、十分警戒していたはずなのに、やつはゆっくりと全容を見せようとしていた。
スライム。おそらくロックにとって最悪の相性のモンスター。遠くから魔法で攻撃できる私たちなら対処できるけど、扉と至近距離で鍵開けしているロックにはどうすることもできない。
今はロックの周りの虫を喰ってるけど、ロックの存在に気付けば動きを変える。虫なんかよりも大きな獲物がすぐそばにいるんだから。
「ロック!」
私の呼び声はロックに届かない。ううん、届いてる、だけどロックはその手を止めない。スライムよりも早く扉を開けようとしてるんだ。それはきっと、終わりが近いと判断してのことだ。ここで手を止めて時間をかけるより、一気に乗り切ってしまおうというロックの意思が伝わってくる。
スライムに有効なのは火、だけどこの距離で放てばロックも大やけどじゃすまない。最後の望みは、扉を解除することで、全てのモンスターが動作を止めるという可能性。接近するスライムにも動きを止める気配のないロック。
そしてついにその時が来た。扉が少し開き、そこから流れ出る魔力によってゴーレムの魔法が打ち消されて、ただの岩塊、土くれにと返っていく。ロックが扉の解除に成功し、罠に打ち勝った証だ。
大量の虫は霧散し、ゴーレムは一体も残っていない。なのにどうしてスライムだけ残ってるの? しかも奴は解除に成功して脱力してるロックを標的にしてる。今のロックじゃ奴の緩慢な動きにも対処できない。
ロック、ごめん。出来るだけ手加減するから、もし後遺症が残って普段の生活もままならなくなったら、私が手足になるから。どんなことがあっても面倒みるから、だからあなたの命を護るために、魔法を使う。
火の精霊に助力を乞い、スライムを焼き払おうとするべく魔力を高める。どうしてこのスライムだけが消えないのか、それを調べてる余裕なんてない。とにかく今は……ロックを助けるのが先、そう言い聞かせて魔法を放とうとした時……
「これは私の不手際です、手出し無用でお願いしますわ」
凛とした、威厳のある女性の声がした。そして扉の奥から吹き抜けた一陣の風が、スライムだけを完全に凍り付かせていた。
読んでいただいてありがとうございます。