書籍化&通算100話記念SS 看板娘の一日
100話記念&書籍化記念SSの第一弾です。
銀の羽亭のタニアさんの一日です。
本当は幕間に入れたかったのですが、100話記念でもあるので100話につなげました。ご了承ください。
まだ夜明けには遠く、空と陸の境目が徐々に白んできた頃、宿屋【銀の羽亭】の看板娘タニアの朝は始まる。厨房の横に作られた小部屋が彼女の居住空間だ。部屋の大部分を占めるベッドから起き上がると、明るいブラウンの長い髪を紐で結わえてから、いつも着ている質素なズボンとシャツに着替えて部屋を出る。明るいベージュの仕事着は、褐色の肌をより際立たせている。
厨房の入り口に掛けてある前掛けをすると、入り口のかんぬきを外して奥に戻る。奥には宿の部屋へと続く階段があり、そこには大きな籠が置いてあった。たくさんの衣類の入った大きな籠の一番上に自分の衣類を乗せ、その上に用意しておいた小さな籠を乗せて持ち上げると店を出て隣の建物へと入る。
「おはよう、フラン。いつものやつお願いできる? あ、これ朝食ね」
「おはよう、タニア。そこに置いといて、すぐに済ませるから」
受付カウンターの奥から顔を出したフランは入ってきたタニアに驚くこともなく、ソファのほうを指差した。タニアは欠伸を噛み殺しながら、大きな籠をソファに置き、小さな籠をフランに手渡す。
「珍しいじゃない、フランが夜番なんて」
「ちょっと書類整理が長引いてね、ついでだから夜番も代わったのよ。リルもたまにはしっかりと休まないとね」
受け取った籠の中からサンドイッチを取り出して齧りながら、背筋を伸ばして体をほぐすフラン。一切れ食べ終えると、山のような衣類のそばに寄り両手をかざして呪文を唱える。
「洗浄」
手馴れた様子で生活魔法を使うフラン。見る見るうちに綺麗になっていく衣類を見ながら、タニアは申し訳なさそうな表情を見せる。
「いつも悪いわね、私は魔力が少ないからうまく魔法制御できなくて」
「そのかわりうちのメンバーの食事は無料でしょ? そういうところはすごく有難いわ」
「まぁそのくらいしか出来ないからね」
照れくさそうに頭を掻くタニア。彼女は宿の宿泊客の衣類の洗浄を有料で受けている。それをメルディアの誰かに魔法で綺麗にしてもらっているのだが、その礼としていつでも食事を無料で提供している。
「そろそろね、いつもありがと」
礼を言って籠を持つと、受付を出て店に戻る。事前につけておいた目印を頼りに衣類を部屋ごとに分けて、扉の前に置いておくとタニアは厨房へと入る。これから朝食の準備だ。
迷宮都市プルカの朝は早い。探索者の使う乗り合い馬車の始発は日の出とともに出発する。ダンジョン探索の時間を無駄にしないために始発馬車を使う探索者のために早い時間から朝食を用意しなければならない。また、人によっては食料として軽食を希望する者もいるので、この時間はかなり忙しいのだ。
「おはよう、タニアちゃん」
「相変わらず美味そうだ」
「持っていく食料、できてるよ」
口々にそんなことを言いながら、皆食事を摂って宿を出て行く。それを厨房から笑顔で見送るタニア。宿を始めて数年、タニアは常に笑顔で見送る。また戻ってきてくれると信じて。だが現実は厳しく、ダンジョン内で命を落とす者は必ず存在するのだ。
「タニアちゃん、あたしらはこれで……」
「あ……元気でね」
今日もまたメンバーを失ったパーティを見送る。このパーティは探索ガイドをつけずにダンジョンに挑戦し、前衛の剣士を失った。これから剣士の故郷に遺品を届けにいくのだという。
「心配しないで、また戻ってくるからさ」
「うん、待ってるよ」
魔道士の女性が笑顔で再会を誓うと、タニアも笑顔でそれに応じる。当初はタニアも驚いたのだが、結局のところダンジョン探索に挑戦する者は皆こうなのだ。命を落とすことになってもそれは本人の力不足、あるいは運が悪かった。そう割り切ることができる特殊な人間なのだ。
様々な境遇の探索者達を見送ると、宿はようやくひと段落を迎える。元々この世界では昼食という概念が希薄だ。もちろん朝食を食べ損なった者が食べにくることもあるが、それも極僅かだ。そんなこともあって、タニアはこの時間を休憩と仕入れに使っている。
宿泊客の朝食用の食材の残りで簡単なものを作って遅めの朝食を摂ると、仕入れに向かう。野菜は馴染みの商人が数日おきに卸してくれるので心配はいらない。タニアがこれから向かうのは肉と酒の仕入れだ。
「うーん、ロックの持ってくるお酒は他の人に飲ませたくないのよね」
酒を扱う商店に向かう道すがら、そんなことを考える。タニアも日本酒の味に魅了された一人であるのだが、その入手方法が難しいことは理解していた。あえて口には出さないが、ロックの出身のこともある人物から知らされていた。
「仕方ない、普通の客にはいつもの葡萄酒でいいか」
さすがにあんな上質の酒を出せばどんなところで嗅ぎ付かれるかわからない。まさか自分の店のせいでロックを危険な目に遭わせる訳にはいかない。
「こんにちは、おじさん。またいつもの葡萄酒を届けておいて」
「おや、タニアちゃん、いらっしゃい。いつものだね、日没までには届けるよ」
商店に入るなり、店の主人に声をかけるタニア。実はあまり積極的に絡みたい相手ではなかった。
「そういえばタニアちゃんのとこで遠方の美味い酒を仕入れたって聞いたけど?」
「……あれは偶然よ。酒と交換で料理出しただけだから」
(やばいなぁ、前にうっかり一口飲ませた客が口を滑らせたみたい……注意しなくちゃ)
タニアが以前、一度だけこっそり一口飲んだのを客に見つかってしまい、仕方なく飲ませたのがここまで伝わってしまったようだ。タニアは自分を叱責しながら商店を出て次の場所へと向かう。
タニアが次に向かうのは冒険者ギルドだ。といっても依頼を請けるのではない。そこで手に入る【ある物】を購入するために来たのだ。
「こんにちは、今日も買いにきたわ」
「こんにちは、タニアさん。今日はバッファローが入ってますよ?」
「バッファローか……でも値段がね。いつものボア肉でいいわ。量もいつも通りで」
「わかりました、後で職員に届けさせます」
ボアは冒険者ギルドで売られている肉で、害獣のためにいつも誰かしらが討伐してくる。強さもそこそこで頻繁に現れるので品切れになることもないのでタニアもよく仕入れている。
「でも、よくボア肉ばかり仕入れますね。臭みもあるし硬いでしょう?」
「そこは色々とね」
「まぁこちらとしてはボア肉が捌けるんで大歓迎ですけどね」
そんなやりとりをしながら、冒険者ギルドを後にする。事実、この街でもボア肉を仕入れている店はそう多くない。かくいうタニアの店でも、かつては干し肉にするくらいしかなかったのだが、ロックの調味料のおかげで美味しく食べられるようになった。
(味を教えろって連中も多いから、こっちも秘密にしておかないとね)
自分に言い聞かせるようにしながら、店に戻ったタニアは夜のための仕込みに入る。
これからの時間が一番忙しい時間だ。料理の仕込みに空室の掃除、トイレ掃除に酒場の掃除、宿帳のチェックなどを一通り終える頃には日没も近い。ちょうど一息ついたところに客が入ってくる。
「おーい、こっちに酒とボア肉追加!」
「こっちにも酒だ」
「はーい、ちょっと待っててね。ジーナ、食器下げてきて」
日没とともに満席になる酒場。無事に探索を終えたパーティの祝宴や、仲間を失ったパーティの追悼の酒、これからダンジョンに挑むパーティの決起の酒宴、客が途絶えることはない。さすがにタニア一人では回せないのでメルディアからジーナを借りている。
元々、タニアもこの店がここまで繁盛するとは思ってもいなかった。本来の仕事もあるのだが、そちらのほうは未だに活動の機会はない。おそらくその機会が来ることは誰も望んでいない。このまま宿屋の女将兼看板娘として過ごせればいいと思っている。
「さて、今日の営業もおしまいね。ありがと、ジーナ」
「タニアさんも無理しないでね」
ジーナをメルディアに戻して、厨房の片付けに入る。竈の火を落とし、食器を洗い、翌朝のための仕込み、宿帳のチェックを終えた頃には宿泊客も皆、自室に帰っている。タニアは入り口にかんぬきをかけて自分の部屋に入る。
「今日も忙しかったわね。明日も頑張らなくちゃ」
洗浄の魔道具を使い、体の汚れを落とすと寝間着に着替えてベッドに入る。ここに来るまで殺伐とした仕事しかしてこなかった彼女にとって、この心地よい疲れは味わったことのないものだった。
叶うことのない夢だった商売の道、それがここでは実現している。出来ることならこの幸せがずっと続いてほしい。そんな願いを神々への祈りに込めながら、タニアは眠りに落ちていくのだった。
明日も19時前後の投稿となります。