ほころび滅び 第一章 妖気な人々 其の四 ノリコのベーカリー
街のはずれに人気のベーカリーショップがある。もともとはフランスでパン修行をしてきた藤原ノリコの祖父が始めた小さなパン屋さんだったが、そのクォリティの高さが評判の地域有名店だった。だが、ノリコの父は、パン職人になどなりたくないと言って、祖父の後を継がずに勤め人になってしまった。祖父が六十八歳で亡くなり、後継者不在のこの店舗は、長い間放置されていた。
祖父がまだ元気にパンを焼いている頃、ノリコの口は焼きたてのパンでいつも満たされていた。クロワッサン、シャンピニオン、チーズバンズ、エピ、形も大きさもそれぞれに違う、香ばしく焼きあがったパンは、ノリコの日常には欠かせないものだった。
どうして父は後を継がなかったのか。そう聞くと、食べ物を作る仕事なんてしたくなかった、という単純な答え。そこには葛藤も悩みもなかった。だが父は、どうやら米粒の方が好きだというのがほんとうの大きな理由なのだった。反対にノリコは食べ物が大好きだし、その中でもパンは大好物だ。だからいつも祖父のお店で祖父の仕事を眺めたり、手伝ったりするのが好きだった。大きくなったら祖父にパン焼き技術を教えてもらって、いつか自分もパン焼き職人になる! そう信じていたのに、ノリコが大人になる前に祖父はいなくなってしまったから、ノリコの夢はとうとう実現出来なくなってしまった。
短大を卒業した後、ノリコは普通に中小企業のOLになった。だが、心のどこかでパンを作りたいという気持ちがくすぶっていたのだと思う。二十五歳の時に父が癌になって急逝したのを期に、ノリコはOLを辞めた。それから専門学校に半年通って、パン焼きを覚え、学校から紹介された小さなパン屋で実務経験をしながらパン焼きの腕を磨いた。そして遂に母親の経済的な助けを借りて、パン屋になるという夢を実現させた。自宅の一階部分で眠っていた祖父の店を再開させたのだ。
こうして出来たお店がノリコのパン屋。名前は「ノリコベーカリー」。店舗スペースを以前より広げて改装した店内には、ちょっとしたティースペースもこしらえた。焼きたてのパンを食べながらお茶をしてもらうためだ。山小屋のような生木枠に大きなガラスをはめ込んだ扉には、緑色の文字で「ノリコベーカリー」と記されている。店内は無垢の木を基調としたナチュラル感いっぱいのイメージで、左手前にレジ、その壁側にガラス張りのパンケース、奥にはもう一室あって、パン焼き工房が設えられている。入口から右手が全面ガラス張り窓のティースペースになっていて、窓に沿って十席分のカウンター席、中央には四人掛けテーブル四つと二人掛けテーブル二つが配置されている。合計で三十人ものお客さんが滞留出来るという立派な店構えだ。
ノリコベーカリーの場所は、もともとノリコの地元なので、祖父が生きている時分から知っている幼馴染や、小中学生の頃の同級生なども、ノリコがパン屋を再開させたことを大いに祝福してくれている。
ノリコは、店の再会を町中で祝って欲しいと考え、ささやかながら、オープニングパーティーを開いた。手作りのチラシをつくり、近所中にばらまき、友達みんなにはメールで配信した。その全員が、というわけにはもちろんいかなかったが、多くの友人が遠方からも駆けつけてくれた。
「ノリコ、おめでとう!」
「ノリコ、とうとう夢が叶ったね!」
「ノリコ、おじいさんの味に負けちゃダメだぞ、買ってやらないぞ」
口々にノリコに激を飛ばす友人たち。そしてOL時代にはほとんど顔を合わせる機会もなかった近所のおじちゃんやおばちゃんたちも、お祝いを持って覗きに来てくれた。実は、みんな祖父のパンが大好きだったのだ。
「ノリコは昔からパン好きだったものねぇ」
そう言ったのはポーラだ。彼女とは小学校以来の友達だ。ポーラだなんて、外人みたいな名前だが、ほんとうは歩羅とかいて”あゆら”という名前だ。これでも奇妙な名前だが、父親が、国際時代に向けて“ポーラ”とも読めるようにと考えた名前なのだそうだ。だから友人たちはみんな子供の頃から彼女をポーラと呼んでいた。
「ポーラもよくおじいちゃんのパン、よく食べてたじゃない」
「そうそう、あの餡子の入ったフランスパンとか、大好きだった! あれ、ノリコも作るんでしょ?」
「もちろん! あれは私も大好き!」
「ノリコは食いしん坊だったから、どんどん成長しちゃったのよねぇ」
「もう! ポーラったら、一言多い!」
ポーラは、ノリコの体格のことを言っているのだ。ノリコはそれほど背が高くない。だが、横幅が少しあるのだ。デブといえば少し言い過ぎだが、いわゆるポッチャリ系、いやがっしり系かな? まぁ、そんな感じ。ノリコがもう少し歳を重ねれば、肝っ玉母さんとか言われそうな、そんな体型である。このノリコの体型が醸し出す雰囲気は、とても人に安心感を与える。名は体を表すということわざがあるが、ノリコの場合は、体は心を表すというものだ。
身体のイメージでもって安心感を与えるだけでなく、ノリコはほんとうにあたたかい心の持ち主だし、さらに正義感に溢れている。だから、誰かがひどい目に遭っていたりなどすると、その人の前に壁のように立ちはだかり、いじめている相手から守ろうとする。場合によっては、その相手に立ち向かって行きさえするのだ。こんなノリコの性格を知っている友人たちは、ノリコベーカリーが出来て以来、ノリコのことを、ノリコベーカリーの店名をもじってこう呼ぶようになった。
「塗り壁~かりー」
ノリコベーカリーは、オープン以来たくさんの客の口を楽しませ、一年を過ぎたいまでは、お爺さんの時以上に地域の有名店になりつつある。ノリコベーカリーは、今日も美味しいパンにありつこうと集まってくる常連客で溢れている。




