ほころび滅び 第二章 滅びの街を救え 第十話 ジャンジャの森
第十話 ジャンジャの森
「お前は誰だ?」
街の中心部にあるビルから飛び出した閻魔王は、空中に浮いたまま地上を満足そうに眺めていたところを、突然呼びかけられて、驚いて振り返った。
「俺は金田太郎。お前と話をしに来た」
「話だと? なぜお前のような人間と話さなきゃぁならないのだ? 俺様を誰だと思っておるのだ」
「お前は、閻魔王だろう? お前の望みを聞いてやろうと言っているのだ」
「わしはいま忙しい。後にしろ」
「じゃぁ、一時間後にジャンジャの森に来い」
「ジャンジャの森だと? ふぅーむ。よかろう、行ってやる」
「待っているぞ」
ジャンジャの森とは、この街の北端にある山系の麓にある森だ。隣街との境界にあり、東を山、西を海で囲まれたこの街から東京や九州方面に抜け出るには、必ずこの森を抜けなければならない。もちろん、鉄道や高速道路もこの中を抜けて行くことになっている。
その頃、オフィスを抜け出した溝川は車に乗ってこの森に差し掛かっていた。だが、普段から車の整備点検を怠っている溝川は、ガソリンが残り少ないことに気がついていなかった。森の中でいきなりガス欠になってしまい、そのへんに給油所がないかと困り果てて探していた。給油所が見つからないままに、ぷすんと車は停車してしまった。
「くっそぉ! よりによってなんでこんな森のど真ん中で止まってしまうんだ! このポンコツがぁ!」
ポンコツは自分自身なのだが、溝川はなんでも人や物のせいにして当り散らすのである。溝川は、仕方なく車を路肩に乗り捨て、どこかに人がいないかとよたよた歩き始めた。こんなことなら、高速代をケチって森の中を抜ける道など選ぶんじゃなかった。そう思うが、もはや後の祭り。とにかくなんとかしなければ。そんなもの車に置いておけばいいのに、両手にボストンバッグを下げて、右へよろよろ、左へよたよた、溝川の歩調はあまりにも遅い。
「太郎、知っとるか? この森にはな、実は地獄への抜け道があるんじゃ」
「お父さん、もちろん、知ってますよ。だからぼくはここを選んだんじゃないですか」
「おお、そうか。すまん、すまん、そうじゃったな」
ジャンジャの森は、日本の中心がこの街にあった太古の頃から、この世と地獄を結ぶいわば結界としての機能を持っていた。だが、文明の発達と共に、地獄という存在が人類から忘れられるようになるのと平行して、この結界の存在も忘れ去られてしまった。結界の役割を果たしていた社も、いまはごく小さな祠として森の中に存在しているだけである。金田太郎たちは、その祠の前で閻魔王を待ち受けていた。金田太郎たちと言ったのは、太郎が自分に力を貸してくれそうな仲間たちを助っ人として招集したのだ。
「まぁ、なんだか霊気を感じる場所ね、ここは」
そう言ったのは砂影バーバラだ。もうそろそろ落ち着いた生活をするべき年齢なのに、十代のアイドルのようなミニスカートを履き、思いのほか豊かな胸が溢れそうなブラウスが悩ましい姿のバーバラには、何か秘めた力があるようにはとても思えないのだが、霊気に敏感なことだけは確かなようだ。
「俺たち、なんで呼ばれたんだ? こんな森の中に」
バーバラの言葉に反応して言ったのは、木綿一太というひょろっとした美形の男だ。贅沢にたっぷりと布を消費した衣装は、見ようによってはインドの高僧のようではあるが、それがいまどきのお洒落なのだろう。ニッカポッカのようなシルエットの黒いパンツの上には男性用のスカートを巻いているという洒落者だが、こんな優男に何か特別な力があるとはとても思えない。
「まぁまぁ、いいじゃないか。ハイキングだと思えば」
太郎の義理の弟にあたる粉木丈二が言った。丈二は、人から頼まれたら嫌だとは言えない性分で、それをお人良しと言う者もいるが、むしろそれは彼の善人性であり、この性分こそが彼の本質であるというべきだろう。誰かの役に立ちたい、常にそう考えているような人間が、この世に何人いるのだろう。丈二は、人に優しく、善意の心に満ちあふれた、数少ない善人のひとりなのだ。丈二の言葉にすぐさま反応したのは、ノリコベーカリーを経営している藤原ノリコだ。ノリコは、そうよ、そうよ、とうなずいて、持ってきた籠いっぱいのパンを、いま配ろうか後から配ろうか、どうしようかと考えていた。何かが始まるらしいから、その前にみんなに腹ごしらえをしてもらった方がいいのか、それともその何かが始まってからにしたほうがいいのかしら? 助っ人とは聞いているものの、果たして何の助っ人なのか、何が始まろうとしているのか、ノリコに限らず、誰一人としてこれっぽっち聞かされていないのだった。
金田太郎が彼らを集めたのには、特に深い理由はない。ただあの日、濡良利玄が言った予言めいた言葉を一緒に聞いていたのがこの四人であり、また濡良の予言通りに人心が乱れるようなことが起きているわけだから、あながち誤った人選ではないように思っている。
「あっ! あれはなんだ?」
一太が叫んだ。南の空に何かが浮かんでいる。それが次第にこちらに近づいてくる。同時に、いままで晴れ渡っていた空がいきなり厚い雲で覆われ、辺りは夕闇のように薄暗くなった。灰色の分厚い雲の中に浮かんだ紫黒いその姿は、神々しいというべきなのか、禍々しいというべきなのか、いずれにしても尋常ではない物体だ。その姿はみるみる大きくなり、はっきりと彼らの目に映った。みんながゴクリと唾を飲み込む前に、閻魔王は空から目の前の地面にずしんと降り立った。
「金太郎とやら、来てやったぞ!」
「金太郎じゃない! 金田太郎だ!」
「そんなことはどうでもよいわ。それで、わしに何をしてくれるのじゃ?」
「お前の望みを、聞き届けたい」
「わしの望みじゃと?」
「そうだ。お前は、何かを求めて地獄からやって来たのだろう?」
「そうだ。お前になど話さなくとも、わしはいま、望み通りのことをしておるのだ。お前がその邪魔をするつもりなら、容赦はしないぞ」
「望みどおりのことというのは、人間を変身させることなのか?」
「わしが変身させておるわけではない。奴らを本来の姿に戻してやっておるだけだ」
「そんなことをしてなんになる?」
「やつらは、悪しき心を人間という小さな器に閉じ込めて苦しんでおるのだ」
「苦しんでいる?」
「そうだ。苦しんでおるからこそ、それを周りに撒き散らすのだ」
「そうなのか?」
「魔の心、悪しき心は、小さな器には治まっておれんのだ。外へ、遠くへ、もっと広いところへ、もっと大きく! そう望むのが魔の心、悪しき心なのだ」
「外へ、遠くへ……」
「そういう魔の心、悪しき心は解放してやらねばならぬ。解放されたそやつらの行き場は決まっておるのだ」
「地獄か……」
「そうじゃ。わしの世界に連れ帰り、わしの奴隷として死ぬまでこき使ってやるのだ」
「地獄はそんなに人手不足なのか?」
「いいや、人手は不足しておらぬわ。近年稀に見る邪鬼どもの増加ぶりは、この世の人心の乱れと正比例しておるのに違いないわい」
「それなら、これ以上邪鬼を増やしてどうするんだ?」
「どうするもこうするも、そんなことは知らぬわ」
「あんたは地獄の王だろう? その王が地獄の人数をそんなに増やしておいて、後は知らんでいいのか? それはあまりにも無責任ではないのか?」
「う、うるさいわ! 俺様がそうしたいからそうするんじゃ! 邪魔くさいわ! ほおっておけ」
そう言うなり、閻魔王は手にした金棒で殴りかかってきた。寸前のところでかわした金田太郎が叫ぶ。
「やめろ! 俺は争いに来たんじゃない! あんたと話がしたいのだ!」
「喧しい! わしの邪魔をする奴はこうしてくれるわ!」
また振り上げられる金棒。かわす金田太郎。こうなったら仕方がない。あいつを元いた場所に戻すんだ! 金田太郎は、金棒の攻撃をかわしながら、父親から教わった閻魔封じの呪文を唱え始めた。




