ほころび滅び 第二章 滅びの街を救え 第八話 罪なき人々
山本家の寝室。ベッドの上で、父親の孝彦は、まだ小さい二人の子供たちをかばうように両手で抱きしめて小さく身を縮めていた。
「お父さん、怪物はやって来るの?」
小学二年生の山本弘理は、心配そうに父親の顔を覗き込んで聞いた。
「大丈夫だよ、ヒロくん。ウチには誰ひとり悪い人間はいないからね」
「ほんとう? 悪い人がいない家には、怪物は来ないの?」
「ああ、ニュースでは、そう言ってたからね」
「悪い人って、泥棒さんとか、そういうの?」
今度は小学四年生になる姉の季世子が聞いた。
「そうだね、キヨ。でも泥棒以外にもね、嘘つきとか、誰かを妬んだりとか、人を貶めたりとか、そういう人も良くない人間として怪物にされてしまうそうなんだよ」
「お父さんやお母さんは、大丈夫なの?」
「もちろんさ。私たちは、みんな正直に、清く正しく生きて来たからねえ」
孝彦も、妻の加代子も、子供たちも、あの赤い雨を避けて、濡れることを免れた。ところが、近隣の人々の中には、赤い雨に身体を濡らしてしまい、ひとり、またひとりと、あの悍ましい姿に変身して、いまでは恐ろしい姿になって街中で暴れ回っている。混乱した街はその機能を失いかけているが、一部の報道陣はかろうじて難を逃れ、細々と報道を続けている。さらに、この街以外ではまだ騒ぎは広がっていないので、首都圏にある放送局では、この街で何が起きているのか、その原因は何なのかなど、究明されつつある謎に迫ろうとしていた。
山本家のリビングにあるテレビは点いたままになっていて、妻の加代子が震えながら画面を見入っている。放送されているニュース特番では、衛星カメラによって撮影されたこの街の惨状画像をはさみつつ、学者たちがその見解を披露していた。
「この恐ろしい怪物は、どこからやってきたのでしょうか?」
「いや、これは、他所から来たのではないと考えられています。この怪物は、この街の住人が変貌してしまった姿であるというのが、地元の報道家から報告されていますからね。その報道家自身も、いまではあの怪物のひとつとなって暴れ回っているようです」
「ほぉ! なんということでしょうか。それで、なぜ、そのようなことが起きているのですか?」
「それは、いままだ調査中なんですが、一部の民族学者や宗教家によれば、先週この街に降り注いだ赤い雨が関係していると主張しています」
「赤い雨、ですか?」
「そうです。民俗学者が言うには、あれは“呪い水”と言って、その水に触れた人間は心の奥に潜む悪しき存在を呼び起こし、全身が悪しき存在に支配されてしまうのだと言っています」
「悪しき存在……それはいったい?」
「ええ、それは、たとえば悪魔と呼ばれているものとか、ですね」
「悪魔……」
「そうです。悪魔です。心の中に巣食う悪魔が目覚めて、身体を支配する。支配されると、その身体に変化が始まり、ついには悪魔のような姿に変わるというものですね」
「しかし、あれは我々が知っている悪魔の姿とは違うような……」
「ええ、悪魔そのものではありませんよ。悪魔によって支配されて変身するわけですから、それぞれの悪しき心の持ちようによって、姿は違うようですね」
「じゃぁ、逆に言えば、悪しき心を持っていない人間は変身しませんね」
「その通りです。世の中には数は少ないですが、全く邪悪な心を持っていない純真な人間も存在しています」
「ほぉ。では、赤い雨に濡れても変身しない人もいると?」
「います。現実に、いま、地元の放送局で頑張っているみなさんのご友人の方は、赤い雨の取材中に濡れてしまったが、なんの変異も起きていないのではないですかな?」
「ああ、そうです、その通りです。あの人は、ほんとうにまっすぐで、正義と闘っている人ですからね」
「そういう人は他にもいて、あの街のどこかでおびえながら暮らしています」
「で、怪物が排出する液体もまた、呪い水であると?」
「そうなんです。怪物が吐き出す赤や緑や黒い液体は、あの赤い雨の数倍もの力を持っているらしく、あれを浴びた人間は、即刻変身してしまったという報告がありますね」
「邪悪じゃない人間は、それを浴びても大丈夫なので?」
「もちろん、そうです。邪悪性を持たない人は、怪物に殺されでもしない限りは、なんの心配もないと言えるでしょうね」
「そうなんですか。この放送をご覧のみなさん、即刻邪悪な心を捨て、純真な人間になるように心がけましょう」
「うーん、それはちょっと難しいでしょうね。邪悪な心は人間の個性そのものであったりするわけですから、こういうことが起きたからと言って、俄に捨て去ることは不可能でしょう。私はそう思いますよ」
テレビに見入っていた加代子は震えながら、家族のいる寝室に戻った。
「あなた……」
「加代子、大丈夫か。ニュースを見ていたのか」
加代子はいまテレビで報道されていた内容を夫の孝彦に伝えた。
「ねぇ、あなた。早く逃げましょう。子供たちを連れてこの街を離れなければ」
「それは無茶だ。外に出ると、あの怪物たちに教われてしまう。私たち家族は、みんな正直に生きてきた。だから、何の心配もいらない。ここに静かに隠れているのが一番安全だと思うぞ」
「でも、いまにもあの怪物がこの家にもやって来て、恐ろしい液体を吐きかけるんじゃないかと、心配でたまらないわ」
「仮にそうなったとしても、私たちは大丈夫だ、変身したりはしない。テレビでもそう言っていたんだろう?」
「そうなんだけど……」
「私、心配だから、ちょっとその辺を見てくるわ」
「おい、よせ。ここにいるんだ、加代子!」
加代子は、夫の言葉を最後まで聞かずに、玄関に走った。ゆっくりとドアを開いて、外の様子を覗き見る。のどかだ。この街で起きていることなど関係ないようないつも通りの住宅街の町並みが目に入った。うん、安全そうだ。そう考えた加代子は、静かに外に踏み出した。お隣の一家はどうなったんだろう。安全に隠れているのだろうか。とりわけ、隣人のご主人である潔のことが気になっていた。潔の奥さんはもしかしたら邪悪な心を持っているかも知れないが、潔さんはそうではないはずだ。もしや、変身した奥さんに襲われてしまったのではないかしら?加代子はそう思うといても立ってもいられなくなり、隣の敷地に脚を向けた。隣家の庭も平和に見えた。ギギィとフェンスを開いて、隣家の庭に踏み込む。なにもいない。家の中も覗いてみよう。加代子がそう思って隣家の玄関に手を掛けようとしたそのとき、いきなり扉が開いた。
「うぴぴぴぴぃぃぃぃぃぃいいい!」
扉が開いた隣家の玄関からクチビルが飛び出して来た。のけぞりながらその場に崩れ落ちる加代子。
「あ! ぁぁぁああ!」
加代子が叫ぶのと、クチビルが赤い液体を吐き出すのはほとんど同時だった。頭から赤い液体をかぶってしまった加代子は、瞬時に後悔した。やはり、夫の傍を離れるべきではなかった。子供たちと一緒に平和な家庭を守っているべきだった。だが、もはや手遅れだ。私は、私は呪い水をかぶってしまった。どうなるの? 私は……大丈夫なの?
加代子の意識が薄れ始めた。下半身が煮えたぎるように熱い。どうなるの? どうなるの? ど……う…………な………………。
「うぃーっぴっぴぴっぴっぴぴぃぃぃぃぃぃいいいい!」
加代子はあっという間に姿を変えてしまった。下半身の性器を露わにしたマンゴウがそこに出現した。加代子もまた、善人ではなかったようだ。加代子は、夫に隠れて、隣のご主人である潔と密通していたのだ。
山本家の寝室では、加代子の帰りを待ちながら、父子が小さく身を縮めて震えていた。




