ほころび滅び 第二章 滅びの街を救え 第五話 呪い水
ネットで購入した赤い水の瓶を、誤って落として割ってしまったというユーザーから、「水が動く」とクレームが入ったのは昨日のことだった。eコマースの責任者から報告を受けた溝川は、何を寝ぼけたことを言っているのだ、あれはただの水だ。赤い色に惑わされているだけだ。溝川は、そう言って部下を叱りつけたのだが、その部下が赤い水の瓶を持ってきて、トレイの上に瓶の中身を少しだけこぼして見せた。トレイに注がれた少しばかりの赤い水は、トレイの真ん中からつつーっと動いて端に行き、今度はそこから反対側の端までつるつるーっと動いた。両方が行き止まりだとわかったからか、今度は重力に逆らうように、まるで蛇が鎌首を持ち上げるかのように、雫の端を上方に持ち上げ、芋虫が脱皮するときの如く動き始めた。怪しくのたくっている赤い水を見せられて、溝川は青白い顔をいっそう青くして部下に言った。
「な、なんだそれは! 誰がそんなものをネットで売れと言ったんだ! だから俺は、そんな気持ち悪いものを売るのはよせと言ったんだ」
典型的な嫌われ上司だ。赤い水の販売を言いだしたのは溝川自身だったのだから。
「と、ともかく、販売を中止しろ!」
溝川は部下に向かって怒鳴った。
「社長、とっくに在庫はなくなっています。すべて売り切れました」
まだトレイを恐ろしげに持っている部下が答えた。こうなったら、今後は何も起こらないことを祈って売り逃げるか、大赤字覚悟で回収して回るかのどちらかだ。当然、溝川は前者の売り逃げして、後は素知らぬ顔で通す作戦を選択した。
しかし、この赤い水は、なんで動くんだ? 瓶に詰めていたときにはまったく気がつかなかったが。これは生き物なのか? 俺はこの水には触ってないよな。あの時も濡れなかったよな。ああ、気色悪い。溝川は社員たちの心配よりも、自分のことばかりを心配するのだった。
地上における赤い雨は、かつてインドのケーララ地方に降り注いだことがある。二千一年七月のことだ。赤い雨は二ヶ月に渡って断続的に降り続け、ときには衣服をピンクに染めるほどの色だったという。その雨水を分析すると、生物に似た複雑な構造をもった細胞が含まれていた。当時は宇宙から微生物が飛んで来たのではないかと騒がれたのだが、結局、その成分の中に含まれていたのは地元に生える気生微細藻類であるということで決着がついている。原因として、ケーララ地方に降った大量の雨が、杉の木などにつく気生微細藻を繁殖させ、大量の胞子が空気中に放出されたためではないかと考えられた。だが、それが正しかったのかどうかは、いまもって特定されていない。しかし、少なくとも、そのケーララ地方の赤い雨水が動いたとか、人体に影響を引き起こしたという報告は一度もされていない。
溝川は、赤い雨について調べさせた部下から、このような報告を受けて、ほっと胸をなでおろした。
「ふふん、これなら大丈夫だ。きっと何も起こらない。俺は強運の持ち主だ。必ず逃げ切れる、こおんなことで大損はしない。俺はヘマなんてしたことがないのだ」
ひとり自分に安堵を言い聞かせているところに、金田太郎が飛び込んできた。
「おい、ドブ鼠! その後、赤い水はどうなった? まだ売ってるのか? 売っているのなら、早々に販売は中止しろ!」
「おいおい、なんなんだよ金太郎。それに俺のことをドブ鼠というな」
「お前こそ、金太郎と呼ぶな、俺は金田太郎だ」
「で、なんなのだ? 販売中止にしろとは?」
溝川は内心ではドキドキしながら、平静を装って事務所の社長椅子にふんぞり返って金田に訊ねた。
「あの水、購入者から、何かクレームはなかったのか? 何かおかしな問題が起きたりはしていないのか?」
溝川は、どうしようかと迷った。あのことを金田に伝えれば、いっそう大きな騒ぎになるに決まっている。ここはシラを切ったほうがよさそうだ。
「いいや。なあんにも変なことなんか起こっちゃあいないぜ。お前こそ、どうかしたのか? 何をそんなに慌てているんだね? 言ってみ給え」
「溝川、よく聞けよ。最近、ニュースを見たか? あの、街で騒ぎになっている奇病の話を聞いてないのか?」
「奇病? なんだそれは」
「赤い雨が降ったこの街に住んでいるか、この街で働いている人々が、みんな病院に駆け込んでいるんだよ。人によって症状は違うが。共通して言えるのは、みんな身体のどこかが急に異常に発達しているということと、どうやらあの赤い雨に身体を濡らしてしまった人たちらしい」
「ふーん? 赤い雨に? 身体を?」
「そうだ。あの日、天気がよかったから、傘を持っている人など一人もいなかった。そこに急に厚い雨雲が集まってきて、あの赤い雨が降り注いだ。みんな慌てて屋根のあるところに駆け込んだが、多くの人が、逃げそびれて、下着までびしょ濡れになったという人が続出したらしい」
「ほぉお? で、あまり濡れなかった人は?」
「どのくらい濡れたかというよりも、どの部分が濡れたか、そしてその人物がどういう人間だったかが問題なんだと、俺はふんでいる」
「つまり?」
「どうやら、雨に濡れたのに、なんともなかったという人も結構いるんだな。俺もその一
人なんだが。だが、顔しか濡れてないのに、耳や目や口が大変なことになっている人がいれば、尻や性器までがとんでもないことになっている人もいるんだ。俺は、悪霊図書館で読んだことがあるんだけれど、あの雨は、もしや呪い水ではないかと思うんだ」
「呪い水?」
「そうだ。呪い水とは、憤怒の気持ちや恨みを蓄積させた誰かが、その妖しい感情を込めた呪詛を吐くことによって、目の前にある水に呪いの魂が吹き込まれることがあるんだ。もちろん、普通の人間に出来るようなことではないけどな。よほどの強い怨念を溜め込んでいる人間か、もしくはもともと妖力をもった者だけが起こせる奇跡だな」
「奇跡だって? それは神様の能力みたいなものか?」
「うん、それに近いと思うな。イエス・キリストが数々の奇跡を起こしたように、負の奇跡を起こす神だっているかも知れない。たとえば悪魔だな。そんな奴が呪詛を吹き込んだ水が雨となって降って来たのだとすれば……」
「すれば?」
「世界は大変なことになる」
「た、大変な……ことって?」
「人間の世界は終わってしまう……かも知れない」
「終わってしまう……」
「で、その、呪い水って……、どういうものなんだ?」
「呪い水は……血のように赤く……」
「血のように赤く?」
「化学成分としてはただの雨水と変わらないのだが、時が経てば」
「時が……経てば?」
「自由に動き回って」
「う、動き回るぅ?」
「そして、人間を襲う」
「お、お、お、襲う?!」
「そうだ、人間を襲うんだ」
「襲うって……人を食っちゃうのか?」
「いいや、そうじゃない。人間を悪魔に変えてしまうんだ」
「あ、悪魔に? ひぃいいーぃー」
「溝川、お前、なんか様子が変だぞ」
「そ、そそそ、そうか?」
「ほら、いま急に心臓の音が早くなっただろ?」
「そ、そうかかかか? そそんななははずははあわわわわわ」
「溝川、お前、何か隠してるな!」
「な、な何を言う? 隠してなんか」
そこへ、社員が飛び込んできた。
「しゃ、社長、大変です! また一人、水が動いたってクレームが……」
金田は溝川を睨みつけた。溝川はそっぽを向いて金田の視線をかわす。溝川は、そーっと部屋から出ようとする。金田はその首根っこを捕まえる。さあ、これがいつもの二人のパターンなのだった。




