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ほころび滅び 第二章 滅びの街を救え 第四話 ゆるやかな終わりの始まり

 異変はゆるやかに始まっていた。

 ある日、パートに出かける準備をしていた主婦が、いつものように鏡の前で化粧をしていた。朝は自分のことよりも、夫や子供を送り出すことが先決なので、出かける準備は洗いものが終わってからになる。いつも急いで化粧をするのだ。その日も慌てて日焼け止めの下地クリームを塗っていると、右口角に違和感を感じた。あら? 口角にひび割れが出来ているわ。何なのかしら。嫌だわ、ビタミン不足なのかなあ。そう考えて、ビタミン入りの化粧クリームを塗り、さらにビタミン剤を飲み込む。そうっとリキッド・ファンデーションで口元を押さえて、ひび割れた皮膚を隠す。眉を描いて、アイラインを引いて、シャドウを入れ、最後に唇に紅を差す。この時、もう一度口角のひび割れを確認したが、なんとか隠せたようだ。

同じ日の正午過ぎ、夕べ飲みすぎたアルコールがまだ抜け切らない小太りのサラリーマンが、爪楊枝をくわえてラーメン屋の暖簾をくぐって出る。またいちだんと出っ張ってきた腹に手をやりながら、今日のランチはこれくらいにしとこうと決心する。ぷっくりと出た腹は心なしか昨日よりも大きくなっているような気がする。男は腹をさすりながら、そろそろなんとかしないとな、と小さくつぶやくが、本当は、大盛りラーメン一杯じゃ、後で腹が減りそうだなとも思っている。歩きながらふんっ! と腹を引っ込めてみたら、ブッと大きな音がして、思わず首をすくめて周りを見回した。幸い周囲には誰もいなかったので、はぁっと安堵の息を吐き出したが、吸い込んだ息に異様な臭いがまとわりついてきた。自ら放出した匂いにしては、未だかつて嗅いだことのない強烈な臭いだった。

十三階にあるオフィスで、部長席に若い部下が呼びつけられて頭をうなだれている。大声で叱りつけている営業部長の声が唐突に途切れたので、小さく縮んでいた部下が、おそるおそる部長の顔を見上げたときに、何か違和感を感じてギョッとする。部長、夕べは飲み過ぎたんじゃないのか? 叱責の怒鳴り声も上の空で、そう思う。部長の白目は鬼のように赤く、心なしか唇もひび割れて腫れているように思える。部長は怒鳴りながら目を擦り、喉の奥に引っ掛かりを感じて、かすれた声を取り戻そうと、言葉を切って咳払いをする。えへん、うん、ぐっう、がはん。目尻の端がぷつうんと言う。こりゃいかんな。風邪をひいてしまったらしい。くそっ。この忙しいときに。風邪なんか引いてしまうのは、このだらしない部下たちからうつされたんじゃないのか? どうせこいつらは、ふしだらな生活をしてるに決まっている。そういう自堕落な生活で身体に巣食ってしまった菌を会社に来てばら蒔かれては困るんだよ、ったく! 部長は勝手にそう想像しては、また部下に対して腹が立ってくる。おいおい、お前は叱られているのに、何を不思議そうな顔で俺のことを見ているんだ。バカが。いい加減にしろ!

お昼休みにコンビニランチを食べたあと、会社のトイレで歯を磨き、ついでに髪に櫛を入れていたOLは、いつもと違う櫛の感じに戸惑う。櫛通りが悪い。今朝、髪は洗ったばかりなのに。なんとなく髪がごわついている。あのシャンプー、良くないのかなぁ。しかし、そればかりではない。櫛が髪の真ん中辺りまで来たときに、引っかかる。そう、ちょうど耳の辺りで妙に櫛が引っかかるのだ。嫌だ、何これ? 髪をかき分けて右耳を鏡に映してみる。耳の上が赤く腫れてとんがっている。なぁにこれ、櫛で引っ掻いちゃったの、私? 念のために反対側の耳も調べてみる。こちらはまだ櫛を引っ掛けていないのに、同じように赤く腫れてとんがっている。気味が悪いわ。これって、外耳炎みたいなものなのかしら? 嫌だわ。今夜は合コンがあるのに。こんな耳を男達に見られたら、何を言われることやら。魔女とか、宇宙人とか、またへんなあだ名を付けられちゃうじゃない。早退して合コンの前に病院に行ったほうがいいのかしら?

 誰も、最初はそれを異変とは思わなかった。少なくともそのときはまだ。だが、一週間もしないうちに、彼らは自分が何かおかしな病気にかかったのではないかと思って、病院の扉を開く。すると、待合室にはすでに大勢の同じような患者たちがひしめいていて、お互いの身に起きていることを話し、問題の患部を見せ合い、確認し合っている。

 口が耳まで裂けそうになってマスクで隠してやって来ている主婦。隠しきれないほどに腫れ上がった妊婦のような腹を抱えてやって来た男。鬼のように真っ赤になって飛び出している目をサングラスでなんとか隠している中年の男。何かの冗談のような耳の先がロングヘアの左右に飛び上がっているOL。歯科、内科、眼科、耳鼻科、泌尿器科、ありとあらゆる病院のどこを見ても、異形の存在に変わりつつある人々の姿があった。

「あれえ? 部長、あんなに怒っていたのに、どこに行っちゃったんでしょうね?」

 円マサオは先ほどまで部長から怒鳴られていた同僚に訊ねるが、その同僚の様子も何かがおかしい。事務椅子から尻の肉がはみ出して、身動きがとれなくなっているらしい。尻が椅子から外れずに難儀しながらもがいているので、マサオの問いなど、耳に入らないようだ。マサオが周りを見回すと、空席が目立つ上に、席にいる人間も、何かしら異常な動きをしているのだ。いったいどうしたっていうんだ、この会社の人たちは?

 マサオ自身、十日ほど前に自分の身に起きたことなど、何一つ覚えていない。あの日、靴がきつくて靴擦れを作ってしまい、靴擦れで出来た豆が破れて皮がめくれたと思ったら、いきなり自分のすべての皮がめくれ、虫が脱皮するかのように、自分が何かに変わってしまったことなどマサオは知らないのだ。あのとき、橋桁の下で変身したマサオは、鬼のような姿になって空高く舞い上がった。そこで自らが集めた雨雲に呪詛の言葉を投げかけ、高笑いながらいつまでも天をぐるぐる回っていた。しかし、いまのマサオはそんな恐ろしい出来事など、何一つ記憶していない。あの後、気が付けば自室のベッドの中にいたのだ。赤い雨が降ったことさえ、後からニュースで見、翌日同僚から聞かされて驚いていたのだ。

 あの赤い雨は、全国的なものではなく、俄かに雨雲を集めたこの街だけで発生していた。この局地的な天変地異を、当日は大騒ぎで報道していたマスコミも、翌日には話題にすら上げなかった。赤い雨が普通の雨に変わり、赤く染まった街はきれいに洗い流されて、ほとんど元通りに復帰してしまったからだ。元に戻ったことになど、もうマスコミは興味を持たない。そしてテレビで流されない事柄など、みんなすぐに忘れてしまう。街の人々も、あの赤い雨のことなど、いまではすっかり忘れてしまっていた。

 結局、その日、マサオの上司である部長は会社に戻って来なかった。その日だけでなく、翌日も、そのまた翌日も、部長はもはや会社には来なくなった。


「おい、金太郎! なんか妙な記事が出ているぞ、この新聞」

 ソファとソファの谷間に寝っ転がって新聞を呼んでいた禿親父が叫んだ。金太郎と呼ばれて、嫌な顔をしながら、金田太郎が答えた。

「妙なって、どんなことですか、禿親父さん」

「お前も禿親父というな。ほれ、ここじゃ」

 新聞のローカル欄に、増加する奇病というタイトルがつけられた小さな記事があった。それはこの街にだけ起きている現象で、目や耳や口、尻、腹、手、そして性器に異常を引き起こした患者が病院に殺到しているというものだった。原因は不明だが、ある種の風土病であろうという推測も記述されていた。だが、一部の学者は、同じ地域で起きた赤い雨の天変地異との関連性を示唆していた。

「これはもしかしたら、あの濡良が言っていたことと関係するかもしれないぞ」

 先日、ノリコベーカリーの周年パーティで起きた、ちょっとした騒ぎ。常連客の一人である濡良利玄が「人心が狂う」と予言めいたことを言って姿を消したのだ。もし、何か関連があるのならば、いま身体に変調を来して病院に駆け込んでいる人々は、さらに心まで変質していく怖れがあった。また、金田太郎は、赤い雨との関連性も気になった。もしそうであれば、溝川があの赤い雨を瓶に詰めて売ってしまったことが、何か大変なことに結びついているのかもしれない。

「父さん、ぼくはちょっと出かけてくる」

 金田太郎は、そう言って派手な蛍光色イエローのトレッキングジャンバーを羽織って、玄関に出しっぱなしになっているナイキに足を突っ込んだ。


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