ほころび滅び 第一章 妖気な人々 其の十 脱皮する男
昨日買ったばかりの靴が、いささか窮屈で、今朝おろしたてで会社に履いてきたら、もう靴擦れが出来て痛い。もうワンサイズ大きいのにしとけばよかったかなとも思うが、靴というものは大き過ぎると、それはそれで踵が擦れてしまって痛くなる。靴というものは、足にぴったりのサイズを見つけて、少し履き慣らして使うというのがベストなのだ。
しかし、今日は履き慣らさずにいきなり履いてしまったのだから仕方がない。しばらく痛むが我慢しよう。そう思って、事務所のデスクにいる時は、ときどき靴を脱いで足を休ませていた。ところが、靴の中で窮屈に縮こまっていた足先は、靴を脱いでもまだおかしい。痺れているのかな? そう思ったがそんな感じでもない。靴を脱いでいるのにまだ窮屈な皮の中に押し込められているような感じなのだ。おかしいなと思いながら足先を持ち上げて手で揉んでやると、掌の中で何かが破れた。
「ぐしゃ」
新聞紙でくるんだ生卵が割れた感じ。いや、もう少し華奢な手応えだな。玉ねぎの茶色くなった外皮が剥けた感じ。あれぇ? なんだこれは? 慌てて靴下を脱いで確かめると、踵とつま先の皮がほころびのように大きく外れている。
「え?」
水虫というには、皮の取れ方が尋常ではない。こわごわ指で外れた皮を引っ張ってみると、ズルリと取れてしまった。皮がめくれたその下には、これが俺の足か? と思えるほどえぐい紫の皮膚が見えている。しかも、指で触れた感じでは結構硬いのだ。大変だ。何かエラいことが、俺の身体に起きている。
円マサオは第三セクター系の電力会社に勤めるエリートだ。まだ入社して数年しか経たないが、こういう仕事は世の中のためになると信じて入社した。だが、数年前に起きた天災で、関東の発電所で大事故が起きて以来、自分の仕事に疑問を持ち始めていた。それで、エネルギー会社に勤めていながら、国が行うエネルギー政策に対するデモに参加したり、原子力反対者の集会に出たりしていた。
ある日、上司から呼ばれて大叱責を受けた。
「円くん、どういうことかね。君が原熱発電反対デモに参加しているのをたくさんの人が目撃しているんだよ。ウチの社員でありながら、国のエネルギー政策に反対する集会に出るというのは、困るんだよ」
マサオは反論することが出来なかった。部長の言う通りだからだ。自分たちの会社が行なっている事業に反対するなら、会社を辞めるべきだ。だが、辞めてしまっては、外から非力に闘うしかないではないか。内部にいるからこそ、裏で行われていることもわかるし、国民が何をするべきかが見えるんだ。だが、マサオがやっていることは、ほとんどスパイみたいなものだ。
天災で事故が引き起こされた発電所は、原子力発電によって電力供給をしていた。そのとき初めて原子力発電の危険性がクローズアップされ、国民の多くが猛反対したために、全国の原子力発電所では、継続した運転が困難になった。しかし、原子力発電に代わる強力なエネルギーが存在せず、国内の経済活動への影響が問題視された。そのときに、ある研究者から技術提案がなされて、それに国が乗ったのが、原子熱発電だった。
原始力発電では、核融合によって排出されたエネルギーで蒸気を発生させ、蒸気が生み出す圧力によってタービンを動かして電気に変換するのだが、原子熱発電では、核融合で生まれた熱を直接エネルギーに変換するというものだった。この方法だと、仕組みがシンプルで大きな設備は必要なく、そのためにリスクが少ない、しかも効率良く電力を発電出来るのだと政府は発表した。だが、ほんとうのところは、直接エネルギーに置き換えるという手法は危険極まりないやり方だったのだ。一部の研究者は反対したが、切迫するエネルギー問題を目前にした政府高官は、提案してきた科学者の論理に気圧されて、安全であると信じ込んでしまった。また一度そのような安全イメージが構築されてしまった以上、周囲の関係者の多くも、右へ倣えをしてしまった。
こうしたことの成り行きを知った良識派の学者とその取り巻きが、反対運動を行なっていたのだが、マサオもこの運動に参加していたのであった。
「そろそろ君も、大人のビジネスマンとして脱皮したらどうだ? 脱皮だ!」
大声で叱責する部長は、脱却という言葉の代わりに”脱皮”と言った。そしてこの言葉がマサオの体内に眠る何者かを発動させてしまったのだ。
ブルブルッ。
マサオは背筋に悪寒を感じた。
ブルッ。
なんだか寒気がするのに、身体の中心では説明できない熱い何かが渦巻いている。寒いのか、暑いのか、マサオにはわからなくなった。これは、病気か? 風邪でもひいたんだろうか。熱が出始めているから寒気がするのかな?
マサオは、身体の異変に驚いて、すぐに病院へ向かうことにした。事務所のあるビルを出て、大通りを歩き、街の中央を流れる大きな川に差し掛かる。そのとき、異変が一気にマサオに押し寄せた。どうしよう。こんな所で倒れてしまったら大変だ。マサオはなぜだか自分でもわからないのだが、どこかに隠れなければと思った。マサオは人目を忍ぶために橋桁の下に駆け込み、燃えるように熱くなっている身体を調べた。熱い。身体が燃える。「ぅぅぅぅぅ」
シャツのボタンを外し、前をはだけた。それでも熱さは収まらない。下着を破り捨て、ズボンも脱ぎ捨てた。衣服を脱いだ後の白い皮膚にヒビが入り、蝉が脱皮するようにピリピリっと表皮が破けていく。そしてその下から現れたマサオの新たな身体は黒紫の光を放った。天空にはどす黒い雲が集まり始め、太陽の光を遮った。
俄かに街は薄暗くなり、橋の上には雨粒がこぼれ始めた。次第に激しく降りだした雨粒に、人々は軒下を求めて右往左往した。
「うぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおぉぉおお!」
橋の下で、人知れず唸り声をあげる者がいる。それはもはや人とは言えない何者か。マサオの意識はまだ少し残されていたが、それ以上に、世の中の悪意を憎む憎悪の念に満ち満ちた雄叫びが響き渡る。
「ぐぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお! 頭の悪い部長め。馬鹿な人間どもめ。今に大変なことが起きると思い知らせてやるわ」
黒紫の獣は、もともとはマドカマサオだった。正義の人間であってほしいと願って父親が名づけた円正王という名前は、皮肉にも、エンマオウ、閻魔王とも読めてしまう。そして今、彼はその名の通り、地獄の神と呼ばれる、閻魔王に姿を変えて、背中から伸び開いた黒い翼で何処かへ飛び去っていった。




