ほころび滅び 第一章 妖気な人々 其の九 予知する男
ノリコのベーカリーには、カフェスペースがある。焼きたてのパンをその場で楽しんでもらうためだ。パン職人だった爺さんが亡くなったあと、五年のブランクを経て、藤原爺さんの孫であるノリコが店を改装してオープンさせた。ノリコのベーカリーは、かつての爺さんの店を愛していた町内の人々の支持を得て、オープン後も順調に営んでいる。大盛況とまではいかないが、それなりにやっていける程度には繁盛し、開店後一年を過ぎたいまは、むしろカフェコーナーの方が人気だったりもするようになった。夜にはワインも飲める店になり、昼夜を問わず、客が焼きたてのパンと優雅な時間を楽しんでいる。
そのカフェスペースの片隅に、いつも一人の男が陣取っている。近隣に住む濡良優介という寡黙な男だ。いつも同じような黒っぽいジャケット姿で、ファッションモデルでもやっているのかしら、というくらいのルックスだ。だが、いつこの店にやって来たのか、いつ帰っていったのか、そんなことにも周囲が気づかないような不思議な男である。実はこの男、ずいぶん昔からこの町に住んでいるような気もするのだが、彼がいつこの町にやって来たのか、何をしている男なのか、そういうことも謎な男である。
しかし、だからといって町内の住民から疎まれているかといえば、そういうことでもなく、話しかけると笑顔が戻ってくるし、暗い影を宿しているわけでもない。何よりもその風貌はきりりとしてなおかつ優しさを湛えているので、女性陣からはむしろ好ましく思われているくらいだ。そこまでいい男ぶりなのに、何故かいつ店に来たのか、いついなくなったのか、誰も気がつかないという不思議な存在だった。
ノリコは最初、コーヒー一杯で店の一角を占領してしまう濡良をちょっと迷惑な存在だと思ったが、店の片隅に男が座している姿がカフェスペースの雰囲気に案外マッチしていて絵になるので、店のインテリアだと思うようになってからは、気にならなくなっていた。
その日も、濡羅が店の隅に座っていた。夕刻である。いつもと同じように、いつやって来たのか、ノリコにはわからない。ノリコが応対してコーヒーも出しているはずなのだが、どういうわけかいつの間にか知らないうちに座っているという印象なのだ。
ある日、濡良のテーブルの、空になったグラスに水を注ぎに行ったところ、濡良がにこりともしない無表情な口を、珍しく開いた。
「揺れる」
「え?」
「明日の朝、揺れる」
「なんですって?」
この人、何を言っているのかしらと思って、ノリコは思わず聞き返した。
「大きく揺れるから、気をつけた方がいい」
濡良はそう言って、また黙ってしまった。それまで読みふけっていた本の世界に戻ってしまった濡良は、もうノリコが呆然として突っ立っていることなど、気にもとめていない様子だった。
なあに、この男。揺れる? 地震が起きるということ? まさか。地震なんて科学者でも予知出来ないというのに。ノリコはしばらく考え込んでいたが、タチの悪い濡良のいたずらだろうと思って雑用に追われる中で忘れていた。気がつくと、濡良はいつものように姿を消していた。テーブルの上にはコーヒー代金のコインが丁寧に積み重ねられていた。
ノリコはその日、店の看板を中に入れる時に、ふと夜空を見上げて妙な気持ちになった。星を隠すように夜空を汚している雲が出ている。その合間に顔を覗かせる月は、ほぼ満月に近い形なのだが、雲のフレーミングのせいか、なんとはなしにおどろおどろしい朧月に見えたのだ。その月を見てしまったノリコは、ふと濡良の言葉を思い出していた。「揺れる」濡良は確かにそう言った。ノリコは店を閉めてから、店中の食器を箱にしまい込み、倒れそうな食器棚を紐で括り付けた。冗談なら冗談でもいい。また明日元通りにすればいいだけだから。でも万が一、ほんとうに濡良の言うとおりになったとして、後で後悔するのは嫌だ。簡単なことだ。地震に備えるだけなんだから。予行演習のつもりでやっておこう。おかげで店の灯りを落とすのはいつもより小一時間ほど遅くなった。
朝方、ノリコは異変を感じて目を覚ました。地震だった。こういうときは、どういうわけだか、何かが起きる直前に目が覚めるものだ。人間も、動物と同じような直感力を持っているのだろう。ノリコが目覚めた一瞬後に揺れだした。いつにない大きな揺れで、しばらく横揺れした後、何事もなかったかのように日常が戻った。キッチンではいくつかの食器が砕け落ちる音がした。
ノリコはまた濡良の言葉を思い出した。「大きく揺れる」あの男が言ったことが本当になった。いったいあの人は何者なのだろう? 偶然か? それとも予知能力? すべては謎だが、濡良の奇妙な存在感に、いっそう不思議さが加わった。
濡良優介、そういえばあの人はどこかの国から帰化した人だと聞いたことがあるけど、どこから来た人なのかしら。中国? それとも韓国? それ以上のことをノリコは知っちゃあいないのだが、濡良優介の帰化前の名前は、利玄と言った。ヌラ・リヒョン。実に不可思議な男である。




