ほころび滅び プロローグ
中盤のところでややスプラッター表現があります。
草木も眠る丑三つ時。隣町で行われていた集会が予想外に盛り上がり、帰りがすっかり遅くなってしまった。真っ暗な道を、提灯の灯りだけを頼りに歩いていますと、間もなく住吉川の橋にさしかかろうかという頃。
「しくしく、しくしく……」
どこからともなく、うら若き女性の声が聞こえてくる。はて? なんじゃろうなと思って提灯を前に突き出して女の泣き声のする方に目を凝らしてみますと、橋のたもとにうずくまって泣いている女の背中が目に入った。
「もうし、お嬢さん、どうされたのですか? こんな夜更けに……もぉし、大丈夫ですか? どこか……お腹の具合でも悪くされましたか?」
何度訊ねても、女は泣き続けるばかりで、顔を上げようともしない。男はたまりかねて、うずくまった女の肩に手をやる。
「もぅし! お嬢さん、大丈夫ですか? どうしたのです?」
するとようやく女がゆーっくりと動く。しゃがんだままで振り向きながら
「私……顔を失くしたの……」
提灯の灯で照らし出された女には、顔が無かった。
「う、うぁー! の、のっぺらだぁ~!」
腰を抜かさんばかりに驚いた男だったが、なんとか尻餅をつかずにそのまま家に向かって走り出す。恐怖に追いかけられながら走って逃げる男はそのうち、道の先にぽっとついた灯を見つける。うどんの屋台だ。おおーっ、助かったぁ。男は勇んで屋台に駆け寄り、中で仕事をしているうどん屋の親爺の背中に声をかける。
「お、おやっさん、こんな時間まで、ご精が出ますな!」
「へぇ、こんな時間まで働かんと、おまんまを食べていけませんので」
後ろ向きになってネギを刻んでいる屋台の親爺、背中で答える。
「あのなぁ、おやっさん。たったいま、向こうの橋のたもとのところで、おっそろしいもんを見たんだよ!」
「ほぉ。何を見なさったんで?」
「そ、それがおやっさん、女なんだけどね、顔が、顔がないんだよ」
すると、うどん屋の親爺、ゆっくりと振り向きながら、
「それは……こーんな顔ですかい……?」
「うぎゃぁ~!」
って、こんな話はお化け話の定番だが、これは、森の中とか田舎の果てとかじゃなくって、町中での話なのだ。深夜とはいえ、人が多いはずの町中なのにこのようなもののけに会ってしまったというところが、実は恐ろしいような気がする。それも一夜のうちに、一度ならず、二度までも。だが、この男が出会ったのは、ほんとうに化け物なんだろうか? 化け物、つまり妖怪は何故にこの男を怖がらせる必要があったのだろう。のっぺらが、たまたま出会った男を恐怖に陥れなければならない理由など、どこにもない。
だが、もしかしてこれがほかならぬ人間のいたずらだとしたら? そう、世の不可思議な出来事や恐ろしい物語のほとんどは、人間の仕業であるはずだ。しかもそれは昔から、現在に至るまで、この世でいちばん恐ろしいのは、もののけとか地獄の遣いではなく、生身の人間かもしれないではないか。
「あら、いらっしゃい。お一人様かしら?」
「おお、俺一人だ……いつの間にか、こんなところにいい店が出来たんだね」
「あらぁ、お客様。うちはもう、随分と長いんですのよ」
「おや、そうかね。この辺りはちょくちょく通るんだが、気がつかなかったなぁ、こんないい感じのお店」
「じゃぁ、これからはご贔屓にお願いしますわ」
「おお、そうだな。いいお店に美人ママとくりゃぁ、邪魔しないわけにはいかんなぁ。サービスしてくれよ、いっひっひ」
「なにをお飲みになります?」
「そうだな、ハイボール、にしようかな」
「承知いたしました」
それから小一時間。なかなかいい感じの店なのだが、今日の客はバー・カウンターに陣取ったこの男、岸本一人だ。まるで美人のママを一人占めしているような気持ちになるのは当然だ。岸本は、まださほど酔いが回っているわけでもないのに、これぞチャンスとばかりに、ママを口説き始めた。
「ママには、いい男がいるんだろ?」
「うふふ。そんなのいる訳ないじゃない。こんなおブスに」
「まさか。ママほどの美人を見たのは何年ぶりだろう」
「ま、お上手。何も出ないわよ、そんなに褒めても」
「ふふ。俺は出すものあるがね。おっと失礼。この店に下ネタは似合わないな。……ところで、今日はもう、店じまいにして、メシでもいかないか?」
とんとん拍子に話はまとまって、美人ママを連れ出す岸本。少し頑張ってミニ懐石が品書きに書かれているような上品な店での食事もほどほどに、気がつけば、首尾よくホテルのベッドの中。なんだか肌寒く思って夜中に目を覚ました岸本。女に腕枕したまま布団を探すが、布団がない。おかしいな、さっきかぶっていた毛布や布団はどこにいったのだ。じゃぁ、女肌布団で……と思って女を抱き寄せると、これまた堅くて冷たい。なんだ、これは? 見ると、美人ママがいたはずの隣には箒が転がっている。
「ちょっと、兄さん、そんなところで裸になってると、風邪引きまっせ!」
公園に住み着いている浮浪者に声をかけられて、ようやくここがホテルでもなんでもなく、公園のベンチの上であることに、岸本は気づく。
「兄さん、ひょっとして古狸にでも騙されましたかな? この公園には、わる悪い、いたずら狸が住み着いているって噂ですからな」
しかしまぁ、狸に化かされたとはいえ、ずいぶん色っぽい体験だったなぁ。ふぅーむ、これは使えるな。あの店に行って、あの女……いや雌狸に接待させれば、人間の女を雇うよりも金はかからんし、お客も喜ぶってぇもんだ。うししし。今度からあの店を俺の接待コースに入れよう。
金を使わずに化け狸に接待させて顧客を喜ばそうだなんて、ここにもいたんだな、古狸が一匹。恐ろしや、恐ろしや。くわばらくわばら。




