Cats and Dogs
「ああ、ついてないなあ」
ぽつぽつと雨粒が落ち始めた空を見上げて、私は思わずつぶやいてしまった。正に今家を出ようかというタイミングで神様の機嫌が悪くなってしまったのは……まあ考えようによってはついていたのかもしれない。
例えば、あと五分降り出すのが遅ければ、私は当然傘など持たずに外出し、ずぶぬれになっていたのは間違いないからだ。とはいえ、雨が降ってきたことについてはやはり運が悪いと言わざるを得ないので、本日の運勢、五段階評価で星二つ、と結論づけることにした。
ちなみに、現在夕方の六時前。
「自業自得、といえば自業自得なんだけどね……」
お気に入りの、白地に赤の蛇の目傘を勢いよく広げ、雨の中へと踏み出していく。
つい数分前までクラスメイトと電話で楽しくおしゃべりをしていたはずなのに、何の因果かこんな冷たい雨の中を出かけるハメになってしまった。……まあ、そのクラスメイトの『英語の宿題やった? 提出、明日だったよね』の一言がなければ、明日間違いなく冷や汗をかいていたはずなので、奴には感謝せねばなるまい。
学校まで約三十分の道のり、そんなくだらないことを考えながらのんびりと歩いた。
学校に着くと、幸いなことに私の教室はまだ施錠されていなかった。だいたい六時半から七時の間に用務員さんが各教室の鍵をかけて回るので、施錠後なら少し面倒なことになってしまう。
といっても、あまり遅くまで教室に残っていると怒られてしまうのは一緒なので、さっさと自分の机に向かい、中から英語のノートを引っ張り出した。ついでに、心の中で『ミッションコンプリート』と馬鹿なことをつぶやきながら廊下に出ようとしたところで――「おっと」
「きゃっ」
ちょうど教室に入るところだった誰かとぶつかってしまった。
バランスを崩して転びそうになったが、寸前で事故相手が支えてくれ、かろうじて事なきを得る。
「大丈夫か? 悪かったな」
ぶつかった相手は、同じクラスの男子だった。あまり話したことはない、というか、彼自身があまりおしゃべりな方ではなかったような……じゃなくて。
「あ、いや、私の方こそごめん」
そうそう、とりあえずこちらの前方不注意でぶつかったわけですよ。まずは謝罪が先じゃないと。
「こんな時間に、教室で何やってるんだ?」
むう、ごもっともな疑問。でもそれはお互い様だよね。
「私は忘れ物取りにだけど……君こそ何やってるの?」
「俺は……俺も似たようなもんだ」
おおっと。
普段寡黙なことから勝手に真面目な人だというイメージを作っていたせいもあり、彼の返事は少々意外だった。
「ふーん、君でも忘れ物とかするんだね」
なので、つい態度どころか言葉にまで出してしまった。
…………私の悪い癖の一つだと思う。
「俺でもって、なんだそりゃ」
彼は苦笑しながら、私の横をすり抜けて教室へと入っていった。
「用事が済んだんなら、早いとこ帰った方が良いぞ。見つかったらどやされるからな」
「うん、君もね。じゃあまた明日」
手を振って、私はエントランスの方へ向けて歩き出す。
靴を履き替えて外に出たところで、視界の端で何かが光ったような気がした。
「あれ?」
辺りを見回してみる。
うろうろキョロキョロしていると、通路脇のあまり手入れされていない花壇の中に、もう一度光が見えた。
近づいてのぞき込む。光の正体は、街灯の明かりを反射する腕時計だった。
銀盤に、黒く縁取りされた銀針。黒革のベルト。少し大人びた、古くさい感じのする腕時計だったが――実際、割と古いものだった――こういうものの価値は全くわからないはずの私の目にも、なぜかすごく良いものだと思えた。
ほとんど葉っぱの下に隠れていたせいか、濡れてもないし汚れもない。おそらく、昨日今日落としたものだろう。
「困ってる……よね」
うん、落とした人は、きっと困ってる。
だってこの時計は、相当使い込まれているのがわかるぐらい古い。にもかかわらず、文字盤のガラスも、黒革のベルトも、バックルだってピカピカに手入れされている。
ベルトはちょっと切れそうになってるけど。
こんなに大切にしているものなら、絶対に返してあげたい。私は時計をハンカチで包み、スカートのポケットに入れた――ところで、ふと思い出す。
さっき教室で出会った彼の腕。
あの左手に、時計焼けの跡があった……ような気がする。
一度気になり出すともう止まらなかった。慌てて教室までの道のりを、私は駆け戻っていった。
「どうしたの? 忘れ物かい?」
教室に戻ると、ちょうど用務員さんが扉を施錠し終えるところだった。
「鍵、開ける?」
用務員さんは気さくにそう問いかけてくる。
「いっ、いえ、あのっ、この教室に、男子が誰かいませんでしたか?」
ぜえはあと息を上げながらまくし立てる私に少々眉をひそめながらも、彼は答えてくれた。
「いや、僕が来たときには、誰もいなかったよ。君も早く帰りなさい」
…………もう帰っちゃったのかなあ。
「あ、はい。すみません。さようなら」
お辞儀をすると、はい、さようなら、と返事が返ってくる。
仕方なく私は、結局そのまま再度エントランスへと向かった。
校門を出たところで、少し雨足が強くなってきた。傘の柄をしっかりと握り直して、歩く速度を落とす。散歩は嫌いじゃないけど、雨の中はちょっとなあ……。
行きと同じようにぼーっと歩いていたら、突然雨の勢いが増した。バケツをひっくり返したようなその威力に対して、傘は全く役に立たなくなり、仕方なく私は近くのコンビニに飛び込んだ。
…………うわー、すごいなこりゃ。
悪いけど、少し雨宿りさせてもらおう。そう思って時間をつぶすべく雑誌コーナーに足を向けると、つい先ほど別れたばかりの相手がそこにいた。
心の運勢表に『待ち人来たる』と書き足す。この場合、待ち人なのかどうかはわからないが。
「あの……」
店内ということもあって、少し控えめに声をかけた。
「ん……? ああ、今日は良く会うな」
「そうだね。そっちも雨宿り?」
わずかに濡れた髪を少し上下させてうなずきながら、彼は視線を外へと送った。つられて私も同じ方を見る。雨は相変わらずだ。
「まあな、さすがにこの中を帰るのはごめんだ」
ですよねー。こんな土砂降り、滅多にないし。
そういえば、日本語では「土」や「砂」が降ってくるほどの雨って書くけど、英語では確か……
「Cats and dogs……だったかな」
「え? なにが?」
おっと、つい声に出しちゃったか。
「あ、いや、土砂降りのことを英語で『Cats and dogs』って言ったかなあ、って」
「犬や猫が降ってくるぐらいすごい雨って事? それとも犬猫が騒いでるようにうるさい、ってことか?」
「んー、諸説あるみたいだけど……犬や猫が大雨や大風を呼ぶと言われてたとか……」
「へえ、おもしろいな。確か、土砂降りも元々は当て字で、『どさっと』雨が降るが語源らしいけど」
ほうほう、そうなのか。勉強になります。
「英語の表現って、なんかコミカルだよね」
「そうだな。暑い、だれるような日は『Dog day』とか言ったりするみたいだし」
犬の日……? よくわかんないな。帰ったらちょっと調べてみよう。
それにしても、意外だ。彼はこんなに話しやすい人だったのか。教室で見る姿とはずいぶん違うから、ちょっと驚く。
これからはもっと話しかけるようにしてみようかな。友達になってみたいし。
「……これだけ降ってちゃ、もうだめかな」
と、彼が悲しそうにぽつりとつぶやいた。
「ダメって、何が?」
「いや、なんでもない。こっちの話」
…………? あ!
すっかり忘れてた! 彼を捜していた理由!
「あのさ、さっき言ってた忘れ物って、もしかしてこれのこと?」
花壇で拾った腕時計をポケットから取り出し、ハンカチを広げてみせる。
その瞬間、彼の表情がぱあっと目に見えるほど輝いた。
「それだ! ……これ、どこで?」
「エントランス出てすぐの花壇。葉っぱの下に隠れてたのを偶然……はい、どうぞ」
差し出された腕時計を彼はとても大事そうに受け取り、鞄の中にきちんとしまってから私に向き直った。
「ありがとう、見つけてくれて。本当に助かったよ」
お礼を言う彼の笑顔はものすごく真っ直ぐで、なんというかその、ちょっとドキっとした。
「そんな、私たまたま見つけただけだし、たいした事したわけじゃないよ」
「俺にとっては、たいしたことなんだよ。どれだけお礼を言っても言い足りないぐらいだ。……でも、なんで俺がこの時計を探してるってわかったんだ?」
そっちもそんなに大げさな話じゃないんだけど、と前置きしてから理由を説明した。
時計に目立った傷や汚れがなく、落としたばかりだと思ったこと。教室で助けてもらったときに、時計焼けの跡が見えたこと。時計の状態から、大切なものだろうと思ったこと。
「ちょっとした接点だったから、本当にもしかしたら、っていうぐらいだったんだけどね」
「そんなことないだろ。たったこれだけの情報でそこまで他人のことを考えられるのは、すごいことだと思う。時計を拾ってくれたのが君で、本当に良かった」
…………いやー、さすがにこれだけ言われると照れるなあ。十七年間の人生で、人からこんなに褒められたことなんてない気がするよ。
「そういえば、どうして時計、落っことしちゃったの?」
たまらずに、話題を別の方向に持って行く。
「ベルトが切れそうだったろ? だから鞄のポケットに入れてたんだよ。修理で時計屋に寄ったところで、なくしたのに気づいて学校まで戻ったんだ」
なるほど、少しおっちょこちょいなところもあると。メモメモ。
「で、結局見つからないし、雨には降られるしでしょぼくれてたところに天使が来てくれた、ってわけだ」
ちょ、天使とか言うな!
「な、な……」
たぶん、私は今、顔真っ赤だ。
とんでもなく恥ずかしいことを言ったクラスメイトは、目の前でこの上ない笑顔を浮かべている。
「まあ、俺にとっちゃそれぐらい嬉しかったってことだよ。変な言い方しちゃったなら、ごめん」
むう……謝られるようなことでもないんだけど……。
「いや、べつにそんな…………あ」
照れ隠しに視線を外した先には、いつの間にか雨が上がった景色があった。薄暗い、夜になりかけの空に、半分の月が浮かんでいる。
「雨、やんだな」
「そうだね。……帰ろっか」
二人で並んで、コンビニを出た。
雨のにおいが残る道を、水たまりを避けながら歩いていく。
彼の家は、なんと我が家の近所だった。ちょうど学区の境目で、小・中学校は一緒じゃなかったらしい。それにしたって通学路で見かけそうなものだが、寝坊がちな私と違って彼は毎朝余裕を持って登校しているとのことだった。
「じゃあ、ここで。今日は助かったよ、ありがとう」
「うん、また明日。学校でね」
帰り道が別れる交差点で手を振ったあと、一人歩きながら考える。
明日教室で会ったら何を話そうかな、とか、早起きすれば一緒に登校できるかも、とか。
ほんの一時間と少し前にこの道を歩いたときとは真逆の気分で、私は鼻歌なんか歌いながら今日の運勢を星五つに上方修正した。
明日も楽しい一日になりますように。