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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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帰る陣なし

作者: 北寄 貝
掲載日:2026/01/12

都は、奇妙なほど静かだった。

保元元年の夏、弓弦の鳴る音より先に、命令だけが人の間を走っていた。


私は平重直、十五。平家の遠縁と呼ばれてはいるが、本家に連なる者たちと顔を合わせたことはない。名を名乗る場で呼ばれるのは、いつも「おい」か「そこの若いの」だった。それでも武具を与えられ、崇徳院方に付けと命じられた。理由は聞かされない。ただ、そう決まったのだと言われただけだ。


手にしているのは、刃こぼれのある槍一本。それだけが、私に与えられたものだった。

歩兵の列に混じり、草履の音をそろえて進むと、鴨川の向こうに陣が見えた。数は、少ない。誰も口にはしないが、皆わかっている。これは、勝ち目の薄い戦だ。


やがて、矢が降った。

叫び声が上がり、列が崩れる。私は槍を構える暇もなく押し出され、前へ前へと流された。


敵か味方か、もはや分からない。

鎧にぶつかり、転び、立ち上がる。突き出した槍が何かに当たり、弾かれ、また突いた。今度は深く入った感触があり、腕の先まで震えが伝わった。


相手が崩れ落ちる。

兜が外れ、土に伏せた顔が見えた。


私と同じくらいの年に見えた。

目が合い、次の瞬間、その目から力が抜けた。


それが、私の初陣だった。


考える余裕はない。ただ、倒れないことだけが、生きる条件だった。


土埃の向こうで、赤い威しが揺れた。

見覚えがある。鎧の癖も、兜の形も知っている。平家の武者だ。かつて屋敷の裏で、薪運びを命じられたときに、気まぐれに声をかけてきた男だった。


「――待ってくれ!」


喉が裂けるほど叫んだ。

男が振り向き、ほんの一瞬、目を細める。


「俺だ。重直だ。平家の――」


言い終える前に、男の視線が周囲を走った。味方が崩れ、敵の声が近づいてくる。


「取次いでくれ。後白河院方へ――」


男の顔から、ためらいが消えた。


「黙れ」


低い声だった。


「お前は源氏だ」


槍の穂先が、こちらへ向けられる。

冗談でも、叱責でもない。ただの断定だった。


「勝ち馬に乗るなら、余計な名は要らん」


男はそう言ってから、ほんの一瞬、私を見なかった。

何か言い足そうとして、唇がわずかに動く。

だが次の瞬間、その視線はすでに前線へ戻っていた。


突進してくる影が見えた。

私は反射的に身を伏せ、土を蹴った。背後で風を裂く音がし、槍が空を切る。振り返ったとき、男はもうこちらを見ていなかった。


その背中に、私は名を呼ばれなかった。


気づけば、私は走っていた。

味方の陣でも、敵の陣でもない方へ。ただ槍を抱え、足の向くままに。


背後で誰かが倒れる音がした。振り返らない。振り返れば、どちらの刃が来るか分からなかった。草履が切れ、裸足になったが止まらない。鴨川の浅瀬を渡り、土手を転げ落ち、息が続く限り進んだ。


やがて音が遠のき、世界が急に広くなった。

それでも都の方角には、まだ煙が立っている。

太鼓の音と、鬨の声が、風に乗ってかすかに届いた。


槍の穂先には血が付いている。

誰のものかは分からない。拭おうとして、やめた。


平家ではない。

源氏でもない。


名を名乗る場所が、どこにもないことだけが、はっきりしていた。


夕暮れの都を見下ろしながら、私は槍を土に突き立てた。

持ち主を失った武具のように、それは傾き、倒れた。


十五の夏は、まだ終わっていなかった。

だが、帰るべき陣は、もうどこにもなかった。

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