帰る陣なし
都は、奇妙なほど静かだった。
保元元年の夏、弓弦の鳴る音より先に、命令だけが人の間を走っていた。
私は平重直、十五。平家の遠縁と呼ばれてはいるが、本家に連なる者たちと顔を合わせたことはない。名を名乗る場で呼ばれるのは、いつも「おい」か「そこの若いの」だった。それでも武具を与えられ、崇徳院方に付けと命じられた。理由は聞かされない。ただ、そう決まったのだと言われただけだ。
手にしているのは、刃こぼれのある槍一本。それだけが、私に与えられたものだった。
歩兵の列に混じり、草履の音をそろえて進むと、鴨川の向こうに陣が見えた。数は、少ない。誰も口にはしないが、皆わかっている。これは、勝ち目の薄い戦だ。
やがて、矢が降った。
叫び声が上がり、列が崩れる。私は槍を構える暇もなく押し出され、前へ前へと流された。
敵か味方か、もはや分からない。
鎧にぶつかり、転び、立ち上がる。突き出した槍が何かに当たり、弾かれ、また突いた。今度は深く入った感触があり、腕の先まで震えが伝わった。
相手が崩れ落ちる。
兜が外れ、土に伏せた顔が見えた。
私と同じくらいの年に見えた。
目が合い、次の瞬間、その目から力が抜けた。
それが、私の初陣だった。
考える余裕はない。ただ、倒れないことだけが、生きる条件だった。
土埃の向こうで、赤い威しが揺れた。
見覚えがある。鎧の癖も、兜の形も知っている。平家の武者だ。かつて屋敷の裏で、薪運びを命じられたときに、気まぐれに声をかけてきた男だった。
「――待ってくれ!」
喉が裂けるほど叫んだ。
男が振り向き、ほんの一瞬、目を細める。
「俺だ。重直だ。平家の――」
言い終える前に、男の視線が周囲を走った。味方が崩れ、敵の声が近づいてくる。
「取次いでくれ。後白河院方へ――」
男の顔から、ためらいが消えた。
「黙れ」
低い声だった。
「お前は源氏だ」
槍の穂先が、こちらへ向けられる。
冗談でも、叱責でもない。ただの断定だった。
「勝ち馬に乗るなら、余計な名は要らん」
男はそう言ってから、ほんの一瞬、私を見なかった。
何か言い足そうとして、唇がわずかに動く。
だが次の瞬間、その視線はすでに前線へ戻っていた。
突進してくる影が見えた。
私は反射的に身を伏せ、土を蹴った。背後で風を裂く音がし、槍が空を切る。振り返ったとき、男はもうこちらを見ていなかった。
その背中に、私は名を呼ばれなかった。
気づけば、私は走っていた。
味方の陣でも、敵の陣でもない方へ。ただ槍を抱え、足の向くままに。
背後で誰かが倒れる音がした。振り返らない。振り返れば、どちらの刃が来るか分からなかった。草履が切れ、裸足になったが止まらない。鴨川の浅瀬を渡り、土手を転げ落ち、息が続く限り進んだ。
やがて音が遠のき、世界が急に広くなった。
それでも都の方角には、まだ煙が立っている。
太鼓の音と、鬨の声が、風に乗ってかすかに届いた。
槍の穂先には血が付いている。
誰のものかは分からない。拭おうとして、やめた。
平家ではない。
源氏でもない。
名を名乗る場所が、どこにもないことだけが、はっきりしていた。
夕暮れの都を見下ろしながら、私は槍を土に突き立てた。
持ち主を失った武具のように、それは傾き、倒れた。
十五の夏は、まだ終わっていなかった。
だが、帰るべき陣は、もうどこにもなかった。




