第14節:旅立ちの朝
あの日、星の門が脈打った夜から、季節は二度巡った。
海風に塩の匂いが混じるこの村にも、わずかに不穏な変化が忍び寄っていた。
森の葉は早く色づき、畑の果実は実る前に小さくしぼみ、潮の流れが例年よりも重くなっている。
「門が眠りから覚めようとしている」と、古老たちは口をそろえた。
だが、誰も確かなことは知らない。
ライルは、家の奥にある小さな作業台で荷物を整えていた。
粗く織られた麻袋の底に乾燥肉と干した果実を詰め、母アリアナが夜通し繕ってくれた外套を上に重ねる。
革紐で結んだ袋の中には、雷石と、エルシュにもらった共鳴石。
どちらも不思議な光を宿しているが、触れるたび心の奥が静かに整う気がした。
――この二年で、たくさんのことを覚えた。
雷の流れを読むこと。感情が暴れる時に、呼吸を通して力を沈めること。
そして、己の中にある“恐れ”を受け入れること。
エルシュが去ったあとも、森は変わらずそこにあった。
ただ、あの夜を境に彼女の姿は見えなくなった。
時折、森の奥で光が瞬くことがあり、その度にライルは息を呑んだが、
それが彼女の気配なのか、ただの稲光なのか、確かめる勇気は持てなかった。
それでも――。
いつまでもこの村にとどまってはいられない。
星の門が再び動き出そうとしている。
雷の素養を持つ自分が、それをただ見送るだけでいいのか。
心の奥で、ずっと問い続けてきた。
父カイロスに相談した夜のことを思い出す。
「門の異変を確かめたい」と告げた時、父はすぐには答えなかった。
しばらく薪を見つめ、火のはぜる音の中でようやく言った。
「……ならば、行くがいい。だが一人では危うい。西に向かう商人の一行がある。
村の外れのラゴンという男に話をしておいた。彼らは西の大陸まで行く。」
その言葉に、ライルの胸が高鳴った。
西の大陸。リュミナリアの門があるという土地。
いつか地平の向こうに見た夕陽の方向だ。
準備は慎重に進めた。
旅の経験がない彼には、何を持っていけばいいか分からなかった。
母は保存食と乾いた薬草を包み、妹ミラエルは小さな貝殻の飾りをそっと差し出した。
「おまもり。お兄ちゃんが帰ってこられるように。」
彼女の瞳には不安が滲んでいたが、それでも笑顔を作ろうとしている。
夜更け。
家の明かりがすべて消えたあと、ライルはひとり家の裏手に立った。
潮風が頬を撫で、遠くで波が砕ける音がする。
空には雲が流れ、星々がかすかにまたたいていた。
その光を見上げるたび、胸の中にざらついた不安と期待が入り混じる。
エルシュの言葉がよみがえった。
──「門は祈りに応える。けれど、正しい願いでなければ開かない。」
何が“正しい”のか、自分にはまだ分からない。
だが確かなのは、世界が何かを訴えようとしているということ。
雷石の脈動が、夜風の音と重なって胸を打った。
「……もうすぐだ。」
ライルは小さく呟き、袋を肩に担いだ。
出発は明朝。
霧が晴れる頃、ラゴンのキャラバンが村を発つという。
長い夜の向こうに、まだ見ぬ世界が待っている。
そしてその世界のどこかで、再びエルシュに会える気がしてならなかった。
朝霧がまだ村を包んでいる頃、ライルは父カイロスの作業小屋を訪ねた。
木と鉄の匂いが混ざるその空間で、父はいつもと変わらぬ手つきで鍛造台を叩いていた。
金属を打つ音が、しばらくのあいだふたりの間の言葉を遮っていた。
「父さん……少し、話したいことがある。」
ライルが口を開くと、カイロスは槌を置き、汗を拭ってゆっくりと振り向いた。
「旅の支度か?」
その声に驚いたようにライルは目を瞬いた。
「……もう、気づいてたんだね。」
「お前が隠し事をするときは、角の先が少し光るんだ。」
カイロスは苦笑を浮かべ、鍛造台に腰を下ろした。
沈黙が流れた。
遠くで鳥の声が聞こえる。
炉の火がやや赤く揺れ、金属の熱気が空気を震わせていた。
ライルは息を整え、胸の奥から言葉を絞り出した。
「……西の大陸へ行きたい。
リュミナリアの門の異変を確かめたいんだ。」
その名を聞いた瞬間、父の目がかすかに細くなった。
鍛造の火がその瞳に映り、まるで炎が宿ったように見えた。
しばらく考え込んだのち、カイロスは静かに言った。
「星の門は……我らの手に余る存在だ。
だが、お前の力はもはや村に収まらぬほどになっている。
その眼で見たいと思うなら、止める理由もない。」
そう言いながらも、彼の声にはわずかな震えがあった。
長年、家族を守ってきた男の本音が滲んでいる。
「お前が旅に出ると知れば、アリアナは心配する。
ミラエルもきっと泣くだろう。
……だが、それでも行くというのなら――」
カイロスは棚から封をされた小包を取り出した。
「これは古い友に宛てた手紙だ。
東の交易路にいる商人長、ロダンという男だ。
わしが昔、旅をしていた頃の仲間でな。
この手紙を見せれば、お前を途中まで導いてくれるはずだ。」
ライルは両手でその包みを受け取った。
封には家の印である火の紋章が刻まれていた。
「……ありがとう、父さん。」
「礼を言うな。
わしはただ、お前が帰ってくる場所を守るだけだ。」
そう言って、カイロスはふっと笑った。
その笑みの裏には、言葉にできぬほどの想いが隠れていた。
息子を信じたい気持ちと、失うかもしれぬ恐れのあいだで揺れる父の表情――
それはライルの胸に深く刻まれた。
小屋を出る直前、ライルはふと振り返った。
「父さん。……もし、エルシュにまた会えたら、伝えるよ。
あの日、ありがとうって。」
カイロスは少し目を見開いた。
そして、何も言わずに頷いた。
その頷きの奥に、“お前の見ているものを、今はまだ見えぬが、信じている”という無言の理解があった。
朝の光が霧を割り、村の屋根を黄金に染めていく。
ライルは小包を胸に抱きしめ、家族のいる家へ戻った。
旅立ちの時は、もうすぐそこまで来ている。
夜明け前、村を包む霧がゆっくりと退いていった。
まだ薄暗い空の下で、ライルは家の前に立っていた。
肩には旅袋、腰には小さな工具袋。
その手の中には、父カイロスから預かった一通の手紙がある。
――西の街にいる古い友人に宛てた紹介状。
「もし困ったときは、この名を頼れ」と父が言っていた。
その筆跡は力強く、しかしどこか寂しげでもあった。
父との相談の夜が脳裏によみがえる。
鍛冶場の火が小さく揺れ、鉄槌の余熱がまだ残る中、
カイロスは静かに言った。
「お前の目に映る道が、わたしの見られなかった未来かもしれん。
ただし、行くなら覚悟を持て。外の世界は、鉄より脆く、人の心より重い」
その言葉が、今も胸の奥で燃えている。
⸻
夜明け前の空はまだ薄暗く、霧が草の海を包んでいた。
その中を、ライルは小さな荷袋を肩にかけて歩いていた。
手には、父カイロスから託された封書――西の街にいる旧友への手紙。
父の太く硬い字が、封蝋の上からもどこか温かく感じられた。
「……じゃあ、行ってきます」
家の前でそう呟くと、戸口に立つ母アリアナが静かに頷いた。
妹のミラエルはまだ眠っている。昨夜、泣きながら「お兄ちゃん、いかないで」と言ったきりだった。
母の微笑みはやわらかいが、その奥にかすかな不安の色が見えた。
――雷を、恐れないで。
――けれど、それに呑まれないで。
出発の朝、彼女が最後に言った言葉が、ライルの胸に残っていた。
霧の残る丘を登ると、そこにはすでにラゴン商隊の一行が支度を整えていた。
数頭の荷獣が鼻息を鳴らし、長い尾で湿った空気を払っている。
車輪つきの荷車には、香草や金属の塊、織布などが山のように積まれていた。
村にはない金属の軋む音や鎖の鳴る音が、旅の現実を感じさせた。
「おう、坊主。おまえがカイロスの息子か?」
声の主は、白い髭をたくわえた大柄な男だった。
鋼のように太い腕、そして背中には焼けた鉄の匂いが残る。
――彼こそが商隊の長、ラゴンである。
「は、はい。ライルです。父から……手紙を」
ライルが封書を差し出すと、ラゴンは太い指でそれを受け取り、蝋を見てうなずいた。
「たしかにカイロスの印だ。まったく、あの頑固者の息子がこんなに素直とはな」
笑いながら、ラゴンは大きな手でライルの肩を叩いた。
その力に、ライルは少しよろけながらも、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「オルフェスまでは山を二つ越える。道は荒れてるが、心配いらねぇ。うちの連中は腕利きだ。……それと、こいつを紹介しとく」
ラゴンの背後から、栗色の髪を後ろで束ねた青年が歩み出た。
鋭い金の瞳をしているが、口元には人懐っこい笑みを浮かべている。
「リアンです。じいちゃんの孫で、商人見習い。よろしく、ライル君」
「よ、よろしくお願いします……!」
ライルが慌てて頭を下げると、リアンは軽く手を振った。
「そんなかしこまらなくていいって。旅の途中は退屈だからね、話し相手が増えて助かるよ」
軽口を叩くリアンの隣で、ラゴンは鼻を鳴らした。
「口ばっかりは一人前だ」とぼやきながらも、どこか誇らしげに孫を見ている。
商隊の準備は着々と進み、荷車の帆布がかけられ、護衛の兵が点呼を取っている。
村の人々も見送りに集まっていた。
カイロスの姿は見えない――だが、それがかえってライルの胸に残った。
昨夜、炉の明かりの前で交わした短い会話。
「強くなれ」と言いながら、父は言葉を切った。
その目にあったものが、まだ心の奥で燻っている。
「ライル、荷はそれだけか?」
リアンの声に我に返る。
「うん、あまり多く持って行けないし……」
「なるほど。旅慣れしてない人ほど荷を詰めすぎるけど、君は違うね」
「そうかな……」
リアンは笑って、荷車の上をぽんと叩いた。
「途中で困ったら言って。食糧も水も融通できるから」
そう言って彼は片目をつむる。その軽やかさが、どこか羨ましくもあった。
出発の合図が鳴る。
ラゴンが大声で号令をかけ、ドラフトたちが低く唸って前へ進み出す。
車輪が泥を踏み、朝の光の中で金属の音が反響した。
村の門を抜けると、東の街道は森の中へと続いている。
枝葉の隙間から差し込む陽光が、霧の粒を照らして銀色に光っていた。
ふと振り返ると、遠くに小さくなった家々。
屋根の上にはまだ白い煙が昇り、家族の朝の支度の音が聞こえるような気がした。
――父さん、母さん、ミラエル。
――いってきます。
ライルは小さく息を吸い込み、視線を前に戻した。
道の先には、未知の大地。
星の門の異変を確かめる旅が、いま静かに始まった。
横を歩くリアンが、不意に口を開いた。
「ねえ、ライル。君の目的地って、オルフェスの先だろ?」
「……うん。リュミナリアの門、って聞いたことある?」
「星の門か。古い伝承に出てくるやつだね。……ふふ、面白くなりそうだ」
リアンはそう言って、朝日の中で笑った。
ライルもつられて微笑む。
霧の中、二人の足跡がゆっくりと重なっていった。




