夜空を見上げて暑さを思う
シャツが肌に貼り付いた。
アスファルトを反射する夏の日差しは、記憶が飛ぶほど殺人的だ。
蝉時雨が鼓膜を支配する。夢遊病者のような足取りで橘藍は帰宅を急いだ。学校から家までの、たった十五分の道のりで、止めどなく汗が流れてくる。
ようやく自宅アパートが見えた。
「ガリガリ君…… 食いたい」
夏休み明けの腐った気分を太陽は容赦なく燃やし尽くした。
こめかみから流れた汗の玉が共用廊下のタイルに落ちた。
「ただいま」
ドアを開けるとクーラーの涼風が彼を包み込む。
生き返るような心地のよい風だったが、感謝の言葉を吐くより先に彼は怒号をあげた。
「電気代ッッッ!!!!」
「なんじゃうるさいのう」
リビングでヨッシーアイラ○ドをプレイするリコの横で、ヴィオが「お帰りなさいませ、お兄様。暑いのにお盛ん……あ、間違えた、お元気ですね」とタブレット端末を操作しながら呟いた。ソーシャルゲームをやっていた。
ヴィオはふわふわとした金髪を後頭部でまとめ、一心不乱に端末を操作していた。
リコはいつも通り、だらだらと腹這いでコントローラーを握っている。
「朝から晩までクーラーガンガンつけてゲームしやがって。今月の電気代いくらかわかってんのかよ」
カバンをソファに投げつけながら、藍は苦々しくリコとヴィオを睨み付けた。
エアコンの修理が済むやいなや、小娘二人の酷使が始まった。
それが、原因かはわからないが、先日ポストに届けられた検針票に愕然としたのだ。
「さぁ、いくらかのう。わかるかヴィオ?」
「うーん、2セントくらいでございますか?」
※1セント=1.3円(2014年08月現在)
「その何千倍もかかってるわ。独り暮らしの相場の三倍だぞ!」
「独り暮らしの相場ってどれくらいでございますか? リコねぇさま」
「さぁ、よくわからぬが三百円くらいではないか?」
「時代錯誤なのは格好だけにしろこのエセ妖怪が!」
「なんじゃっと!? ナウでヤングなイケイケギャルの我を時代錯誤とはチャンチャラ可笑しくてヘソで茶がわくわ!」
「全部死語じゃねぇか!」
せっかく冷えてきた体温が怒鳴りまくってたらまた高くなってきた。
「ともかくエアコンは極力使うな、使うとしても設定温度は28度!」
ちなみに今は21度。
「北極のシロクマもぶちギレるぞ!」
「何を言うておるか。シロクマだって暑かったらエアコンの設定温度下げるじゃろ、無知か藍?」
シャボン玉になったマリオを一生懸命追いかけながら、リコは指をカチャカチャ動かしていた。
「環境破壊で氷溶けて地球がヤバイって話してんだよ」
「じゃったら地球全体をエアコンで冷やせば良かろう。人とは愚かな生き物じゃ」
「愚かなのはてめぇの頭だ! 大体エアコンが壊れて室内が蒸し暑かったとき、ケロッとしてたじゃねぇか! ほんとは冷房必要ないくせに利用すんなよ!」
「それはまぁ」
言い訳が浮かばなかったのか、リコはちらりとヴィオ見た。
「やはりワタクシたちも女、一度快楽を覚えてしまうと抜け出せないのでございます。んほぉぉってやつなのですわ」
頼られたヴィオは最低だった。
埒があかないので藍はズカズカと足音たて、テーブルの上のリモコンを手に取り高橋名人ばりの連打で設定温度を上げた。
「あー、ひどいですわ! あー、汗ばんじゃう! 胸の谷間に汗がたまってしまいますぅ」
谷間なんかない。
「お兄様エロ! えろがっぱぁ! はっ、ま、まさか!それが目的でいらっしゃいますわね!」
藍は無視してため息をついた。
「そもそもお前らこの世ならざる者なんだから外気温とか関係ないはずだろ!」
怒りしかわいてこなかった。
「関係なくても暑いのです。お兄様には私たちの苦労がおわかりでしょうか!リコねぇさまは着物なのでございますよ。めちゃんこ蒸れるのでございます」
「うむ」
「知るかぁぁ!」
怒り心頭の藍はエアコンを切り窓を大きく開け放った。
ムアッと生暖かい風が室内に流れ込み、
「あああああ! 暑いのじゃあああ!」
リコが発狂した。
「ああ、お兄様、なんてこと! リコねぇさまの素敵なお召し物が汗でぬちゃぬちゃになってお髪も汗で濡れ濡れになって、……ハァハァ……あっ」
ヴィオも発狂した。
「いまのねぇさま、ワタクシのストライクショット!」
「だまれ死ね!」
蹴りを入れたのは藍ではなくリコだった。
「大体お前ら俺が学校行ってる間なにしてんだよ」
夕方、夜の気温にようやく落ち着いた藍はため息混じりに唇を尖らせた。
ヴィオはお風呂に入っているので、リコと二人きりになるのは久しぶりだったが、だからといって二人の間に何かがあるわけではなかった。
「我はゲーム、ヴィオはずっとユーチューブで動画見とる」
「なんであいつはあんな世俗的なんだろうな」
「うぅむ、わからぬが、こないだは『ノーモア映画泥棒』の動画をダウンロードしとったのう」
※ 違法にアップロードされたものと知りながら映画や音楽をダウンロードするのは法律違反です。
「あいつ最低だな」
「なんかいつか動画配信者になってそれで食べていくんじゃと」
「あの性格じゃ無理だろ」
視聴者ドン引きだ。
「でもヴィオに教えてもらったんじゃが最近妖怪がめっちゃ流行っとるらしいからのう。『ワタクシたちの時代ですわ!』とかほざいておったが」
「ふーん。五十崎がたびたびそういうブームが起きるとは言ってたが」
「ヴィオはなんかメダル?を転売して稼ぐとかいっとったがのう」
「転売とかクズの極みだな」
※ 転売目的で購入した商品を定価よりも俗悪な値段に吊り上げて販売するのは、古物営業法に引っかかる可能性があります。半端な覚悟で手を出すのはやめましょう。
「お風呂いただきましたぁ。喉が渇きましたわぁ」
噂をすればというやつか、お風呂上がりのヴィオが晴れやかな笑顔でリビングに戻ってきた。
全裸だった。
「ぬぅおおー! なにしとるかぁ!」
迅速に対応したのはリコだった。畳んであった洗濯物からシャツと短パンをひっつかむと、慌ててヴィオに駆け寄り、藍との間の壁になった。
「あらおねぇさまそんなに慌てていかがしました? ワタクシは逃げませぬから、熱い抱擁をするなら今ですわよ」
「なぜに裸か! 服を着んか!」
「服? 服なんか飾りですよ? 偉い人にはそれがわからんのですわ。それに勘違いしないでいただきたいのですが、愚者には見えない服を着てますわよ?」
「一部の人物に見えないのならば、それは変態ではあるまいか!」
「まあ、否定はしませんが」
しろよ。
「はよう、服を着!」
手に持った衣服を投げつける。それを受け取ったヴィオは不服そうに唇を尖らせた。
「ですが、高温多湿な夏で火照った身体だと、すぐに汗ばんでしまいます。シャツべちゃべちゃだと気持ち悪いじゃないですか」
「気持ちはわかるが、男子の目もあるのじゃぞ!」
「ワタクシいつも自宅だと全裸ですし」
衝撃なカミングアウトだが、ここは藍のウチだ。
「ありのままの姿で自分みせるのです」
「生まれたままの姿じゃろうが!」
「なんじのあるべき姿に戻れ!」
「黙れ!」
リコに無理やり押されてヴィオは脱衣場に戻った。
藍は窓の外を見るふりしてひそかに思った。いいものが見れた、と。
「ワタクシただいまノーパンしゃぶしゃぶ真っ最中でございます!」
再び戻ってきたヴィオは叫びながらリビングの扉を開けた。リコは無言でパンティを投げつけると再び脱衣場に追いやった。
「あああ! ねぇさま、このパンティはワタクシが持ってきたものではございません! というやつはキャァあげちゃうわ私のパンティってやつなのですね? 家宝にします家宝にします!」
「ダイソーで108円じゃあ!」
煩悩の数と同じ値段であった。ヴィオ用にリコが買ってきたものだった。
「あ、そうでございますか。……それはそうとおねぇさま、ナプキン貸してくださいません?」
「我らにそれは不要じゃろうが!」
ヴィオはリコからなにかを貰いたいだけだった。荒らげにリビングの扉が閉められた。
「はぁ、はぁ、つ、つかれたのじゃ」
妖怪も疲れるんだな、といつになく疲弊しているリコをみて藍は思った。
「あいついつまでいんだよ」
携帯をいじりながら藍はリコに尋ねた。
「さぁ、でも有給が消化しきるまでとはおると言っておったぞ」
「有給何日だ?」
「365日言うとったぞ」
「……」
絶望。
「ひゃあやぁあゃあ!」
リビングへ通じる扉がバァンと大きな音をたてて開け放たれた。
服は着ていた。
「酷いですわ、お兄様! ワタクシをいらない子のようにおっしゃられるなんてぇ! ワタクシいま劇画オバキューの気分ですわよ、ショックです! もう誰でもいいからめちゃくちゃにしてって気分ですわ!」
「そう言われたくないなら自重しろ!」
「自慰?」
「自重だよ! 『ジ』しかあってねぇよ! 下ネタも大概にしろ!」
「痔?」
「だから自重しろって言ってんだろ! 見た目小さなちんちくりんなのに発言がほぼ下ネタってヤバイんだよ!」
「魔力があれば大人になれなくもありませんが、いい歳した女性が下ネタ言ってたら笑えませんわよ?」
「もとからてめぇのギャグは笑えねぇよ!」
「わっかりましたー、それでは大人の女性になりますぅ」
「え? まじなれんの?」
なにを隠そう藍は年上好きだった。金髪幼女のヴィオだが、大人の姿なら絶対美人だ。
「青いキャンディ……いえ、青いアイスをいただければ大人になれますわ。あ、性的な意味ではなく」
「いまいちパクリっぽい設定だが貴様にガリガリ君は絶対にやらん」
ヴィオはお風呂上がりにアイスが食べたいだけだった。
「まあ、そう言うな藍」
リコがいつのまにか冷凍庫からガリガリ君を取って立っていた。
「ここに3つのガリガリ君があるじゃろ?」
「おい、まてそれは俺のストックだ」
「一本が我、一本がヴィオ、そしてもう一本を藍が食えば、皆が幸せになれると思わぬか?」
「まてまてまて、そもそもそれは俺のオヤツだ。やらねぇぞ。お前らピノ食ってたじゃねぇか!」
昨日の夜、アイスが無性に食べたくなって、ジャンケンで負けた藍がコンビニで買ってきたのだ。
その時、リコとヴィオはピノを選び、完食している。
「でもお兄様、かわいい女の子二人が棒アイスをペロペロ舐めているところ見る方が幸せじゃありません?」
「ちっとも幸せじゃねぇよ」
アイスがあるから、クーラーを切ったのだ。
夕暮れ時をアイス食べて過ごす、その幸せを味わうために!
「ほれ、ヴィオ」
「ありがとうございます。いただきます。あっ、変わるわよ!」
「そういうのいいから」
藍の主張は通らなかった。
唇を小さく開けてヴィオは舌でそれをペロペロ舐めた。
「……」
「……」
「おい」
「ふぁい?」
「大人の女性はいつ現れる」
「はい」
ヌッと赤い舌をつき出すヴィオ。舌の上には青いアイスが溶けかけの状態であった。
「……」
「レロレロレロレロレロレロレロレロレロ」
「……」
「レロレロレロレロレロレロレロレロ」
「大人の舌使いとかほざいたらチョップ食らわせるからな?」
「……」
「……」
「大人な舌使いでございます……」
チョップ。
「ぎゃぼぉぉぉぉ!」
こいつ早く帰らないかな、と藍は思った。
二年半ぶりの更新って衝撃ですね。