鍋は無慈悲な闇の帝王 中
「って、ちょっとまてぃ!」
「でたよでたよ。藍の得意技の『ちょっとまてぃ』……話し合いの場とかで必ず否定から入る人っているよねぇー」
「……あ、ごめん」
「まぁ、我は心が広いから許してやるがのう。さぁ、申せ」
いつもと違い冷ややかな口調のリコに物怖じしながらも、藍はなんとか言葉を紡いだ。
「繰り返し言うようだけどな。真夏に鍋なんてしたら脱水症状起こしちまうだろ!」
「逆にかんがえるじゃ。別に脱水しちゃってもいいや、と考えるんじゃ」
「まだ死にたくないわ!」
確固たる意思を感じる。どんなに言っても受け入れてくれなさそうな雰囲気だ。
それでもめげずにジッと彼女を睨み付ける。絶対に譲れない戦いがそこにはあった。
やがて藍の瞳に根負けしたのか、リコは小さく息を吐いて、静かに頷いた。
「仕方ないのぅ」
さしたる光明に藍は心のなかでガッツポーズをとる。
「友達の雪女、氷雨ちゃんを呼ぶことにしよう」
「なにぃっ!?」
「クーラー代わりだと本人には内緒せんといかんのぅ。彼女ほらツンデレじゃから」
知らねーよ。
「今すぐ連絡取れば、岩手からじゃからー、ふぅむ、はやて(新幹線)で日が暮れる前に来てくれるじゃろう」
こくこくと頷きながら、リコは懐に手を突っ込み、アヤメを呼んだときに使った携帯とおぼしき電卓を取りだした。
「まて!やめろ!これ以上俺の日常に不穏分子を持ち込むな!」
「いやぁぁあ!ねぇー様、ワタクシの前で別なオンナの話なぞなさらないでください!」
「黙れぇい!不穏分子第三号!」
「ぎゃぼー!にぃ様がご乱心ですぅ!」
立ち上がり会話に割り込んできたヴィオの頭部を藍は鷲掴み、無理矢理座らせた。
ちなみに、第一号がリコ。第二号がアヤメである。
「む?手を放せい、藍、連絡が取れんではないか!」
「やめーろー、まじでぇー」
必死に電話をさせまいとリコの手首を掴む。四人目はなんとしても阻止しなくてはならない。
右手でリコを左手でヴィオを押さえつけ、はたから見たら藍が一番愉快な人になっていた。
「わかった!わかったから!今日は鍋で良いから!雪女は呼ばないでくれ!」
「おろ?良いのか?」
「あぁ!構わん!冷えピタを全身に貼って頑張るから!絶対弱音はかないから!負けないから!逃げ出さないから!今日の晩ごはんは鍋でお願いしゃす!」
さながら死地に赴く兵士といった気合いのいれようだった。
「わーい!やったぁ!」
リコは見た目通り子供のようにピョンピョンと飛びはね、
「藍の許可も出たし、これで夕飯はヤミナベじゃ」
「!?」
藍は鍋という点に囚われすぎて、ヤミナベだということを失念していた。
「って、ちょっとまてぃ!」
「でたよでたよ。藍の得意技の『ちょっとまてぃ!』……議論の場で必ず否定から入る人って、」
「うるせぇ!ばーか!」
今度はめげなかった。
「ヤミナベにしてもなぁ、お前らは妖怪だからいいけど、こちとら生身の人間なんだよ!」
「じゃからー?」
藍は不穏な空気を肌で察知した!
「最低限のルールを決めさせてもらう!!」
肯定した上での話し合いのぶん、彼は大人になったのかも、しれない。
じんわりとした熱が全身を支配する。
残された夏休みに向かって走り続ける小学生たちの笑い声がどこからか聞こえてきた。
彼らはこの世界中のどの人たちより、きらきらと眩しく光っていることだろう。青い空はどこまでも澄み渡り、一夏の思い出を彩っている。
それに比べて、この俺は。
思えば、この夏、ろくなことをしなかった。外に出たのも数えるだけ。旅行どころか実家にも帰っていない。絵日記は毎日『なにもない素晴らしい一日だった』で埋め尽くされてるところだ。悔いが残る夏休みだった。
いまだって、ほら。
今日の晩ごはんは、ヤミナベだってさ!
最低最悪のぼくのなつやすみだぜっ!
藍はいい感じでトリップしかけていた。そんな彼が定めたヤミナベにおけるルールは以下の通り。
・食材は一人三つまで。
・食べられるものを設定すること。
・箸をつけたものは絶対に食すこと。
・昨日のすき焼きで余った具材もいれること。
暗黙の了解として『最低限良心的なもの』が加わえたが、この二人がそれにしたがってくれるかどうかは甚だ疑問だった。
「むっふふ、ルールはこんなところかのう」
「あぁ、最終的に残さず食べれるウマイ鍋を目指すんだ!奇をてらう変なもんを選ぶなよ!」
「平気、平気。食べ物で遊んじゃいけないって母上に習ってきたからのう。問題ナッシングじゃぞ」
なんだかんだで、今の橘家の台所事情を掌握している少女だ。リコは大丈夫そうだが、問題は、
「ヤミナベとはなんて素晴らしい文化なんでしょう!具材の一つに媚薬を設定すれば、ねー様と、うぇひひひ」
独り言激しいヴィオだった。
「調子こくでない」
「にゃ!折檻ですわ!別にいいじゃありませんか!日本の大学生だって新入生歓迎会でお酒に目薬混ぜてお持ち帰りするのが、春の風物詩だと伺いましたわ!」
注・酩酊など正常の判断力を欠いた状態でそういった行為に及ぶのは準強姦罪で立派な犯罪です。絶対にやめましょう。
ちなみに今の目薬には酔いを助ける成文は含まれていません。そうじゃなくてもやめましょう。
「さっき藍が申してたじゃろう。良心的なものを選べと。おぬしも子供じゃないんだから、分別というものをわきまえい」
子供が子供に説教しているみたいだったが、ヴィオはなんとか納得してくれたらしい、「わかりましたわ。『くっ、私は誇り高き女騎士、身体は落とせても心までは』という奴ですね。ねー様を蹂躙するにはまず精神面からということで」とわけのわからないことを言いながら頷いてくれた。
リコはもちろん無視して、
「あの時計で18時までに各々具材収集を始めるとしよう。それでは、」
大きく息を吸い、
「散ッ!!!」
叫んだ。
「……」
「……」
「……なんだよ、それ」
微妙な静寂ののち彼女は答えた。
「いや、ちょっとかっこつけたかった、ていうか、のう。と、ともかくそれぞれ食材を買いにいくのじゃ!」
「おーー!」
気合いを入れ直すリコにヴィオが助け船と言わんばかりの雄叫びをあげたが、
「……」
「……」
「……」
結局玄関まで三人は連なって歩いた。
数時間後。食卓の中心には水の張った鍋、それを睨む三人の姿がそこにはあった。ポン酢のスタンバイされた小皿と箸をもち、スーパーの袋をお互いに見えないよう体で隠している、なんとも緊迫感溢れる夕食の団欒であった。
日が暮れた19時過ぎ。熱帯夜を予期するかのような、気温である。そんな季節の夕飯がヤミナベときた。拷問を通り越してもはや地獄である。
藍の選択した食材は、そんなことを考えていたからか、少しだけ関連付いたものになっていた。
地獄鍋、というものがある。
ドジョウを生きたまま豆腐と一緒に投入し、やがて熱に耐えられなくなったドジョウは冷たさを求めて豆腐をほじくり、そのまま息絶えてしまう、という残酷きわまりない料理だ。
実際のところ、上手く豆腐に入るかは疑わしいところであるが、ドジョウにとって地獄なのは変わりない。
ヤミナベには気乗りしないがこれはいい機会だ!と思うのに時間はかからなかった。
藍の選択した具材は、
豆腐とドジョウ×10匹、あと関係ないけど、白菜代わりのレタス。この三つが、藍のヤミナベメニューであった。
「よ、ようやく準備が整ったようじゃのう。したらば、火にかけるぞ」
リコは緊張した面持ちで、カセットコンロの火を着けた。
ボッ、とこぎみ良い音をたて、鍋に張られた水がお湯に代わろうと水温を上げていく。ダシ用に入れてあった昆布が踊り始めた。
「灯りを消すのじゃ」
「ラジャーです!」
遮光カーテンが道路の街灯の灯りを完全にシャットアウトしているので、室内は一気に暗くなった。
カセットコンロの青い炎だけが、辺りをぼんやりと照らしている。
「で、では、まずは野菜類から、入れていくのじゃ」
「それでは失礼して……」
ゆらゆらと頼りないコンロの灯りで鍋を取り囲むなんて経験、これから先、一生することはないだろう。第一妖怪と面と向き合って鍋なんて、もはや笑えない冗談だ。
青い炎に照らされた座敷わらしの表情は笑っているようにさえ見えた。不気味な笑顔ではなく、それはたしかに、生き生きとした楽しげなものだった。
お前、ほんとこういうの好きだなぁ、と思いつつレタスをリコとヴィオに見えないようそっと投入する。二人もそれぞれ何か入れていたみたいだ。
おでこに貼ってある冷えピタが汗で湿り始めた気がした。
「それでは第二陣!」
いっしょくたである。
もはや順序など関係ないに等しかった。とはいえ暗闇の中でも五感は生きている。こと嗅覚に関しては非常に敏感であった。
「ヴィオか?てめー、ちょっとまて!」
しゃかしゃかとなにかをかき混ぜる音が、鍋が煮えていく音に混じって聞こえてきていた。
そしてごまかしキレない臭い。もはや異臭だ。
「はにゃー?なんですかーにぃ様?」
間延びする声で惚けられても、誤魔化しきれるものではなかった。
「ふざけんなよ!お前、納豆入れようとしてんだろ!」
「ぎくっ!」
口でそんな効果音を発したあと、彼女は若干の躊躇いを見せてから続けた。
「違います!これは焼き味噌です!」
誤魔化しきれてなかった。暗くてもわかるようでは、ヤミナベの楽しさ半減もいいところである。
「んなもん鍋にいれんなよ!」
「あー!酷いですにぃ様!わたくしの大好物を完全否定だなんて!おかめ納豆は美味しいんですよ!パック納豆に付いてくる醤油だけでご飯五杯はいけるんですから!」
納豆の味は微塵も関係がなかった。
「鍋にいれるもんじゃないだろうが!」
「うぇーん、にぃ様がいじめますぅ。助けてねー様ぁ!」
「そうじゃのう。最低限の分別は身に付けるように、と言ってあったはずじゃから」
「にゃぁー裏切りぃ!?」
「そもそも手などくんでおらんわ!」
どうにかこうにか納豆投入を防げた藍は鍋にドジョウ10匹をいれた。
「ラストー!」
豆腐をいれる。
リコも何かを入れていた。
ヴィオも、と思ったところで、
「あっつぅ!?」
パシャンも煮たったお湯がはねた。
「ぎぁぁー!」
藍は文字通りのたうち回った。
「すみませぇん。暗いのでイマイチ距離が掴めなくて、お湯が跳ねてしまいましたわ」
「いちいち説明しなくてもわかるんだよ!お前は俺を殺す気なのか!?お返しか?納豆のお返しなのか?」
「いえいえまさか。本気で殺す気でしたら人間シチュー(詳しくはウェブで!)にでもいたしますわ」
「よくわからないが、恐怖感だけは伝わった!」
賢明な藍は、それ以上言及することをさけた。
「蓋を閉めます!」
カタンと音をたて、そのまま暫く煮続ける。
「……」
暗闇の中の、火にかかる土鍋を見続け、ややあってリコが口を開いた。
「……のう」
「なんだよ」
「この鍋、なんか聞こえない?」
「……」
煮たつ音とは明らかに違う、音が、鍋の中から微かにピィィピィィと聞こえてきていた。
「……気のせいだろ」
「でもほら、聞こえおる。やだ!なにこれ!」
「ほら、あーぶくたったー煮え立ったー、みたいな」
「そ、そのようなものではない!叫んでおる!なんなんじゃ!?」
「……」
ドジョウの断末魔であった。
「なんかこの鍋、怖い!」
「……」
藍は素知らぬふりを続けた。