鍋は無慈悲な闇の帝王 前
網戸から吹き込む風は生暖かい気流を生み出し、室内を心地よさとはほど遠い次元に導いていた。
耳に届けられるアブラゼミの鳴き声は残り迫った寿命への断末魔にしか聞こえない。極力冷たい場所を探し求め腹這いのままズルズルと移動を続ける藍はそう思った。
今朝からクーラーの調子が悪いのだ。
掃除も定期的に行っていたし、乱暴な扱いをした記憶もない。ただ五十崎から「霊的存在が近くにいると、電化製品に異常が起こるらしい」と聞いたことがある。
藍は熱で歪む視線を、いたって涼しい顔でソファーでくつろぐこの世ならざる者×2に向けた。
全部こいつらのせいなんじゃないか。
批難の眼差しを知ってか知らずか、
「最近黒魔術してないなぁ」
けろりとした表情でソファーに寝転び、人の漫画を勝手に読んでいる山田メテオールヴィオレットが一人ごちた。
目をほそめ、色々と突っ込みどころのある発言に対して、ため息をつく。
「そんな定期的に行われる趣味みたいな言い方やめろよ」
ヴィオは金髪碧眼の自称悪魔である。
色々と変態的なところはあるが、基本的に悪いやつではなさそうだ、というのが二日間彼女と過ごして抱いた藍の率直な感想である。
「いえいえ、よろしいですかにぃ様。悪魔は定期的に魔力補給しないと、エネルギーが枯渇して大変なんですよぉ」
「枯渇しろ、んなもん。つうか魔力無くなったらどうなるんだ?死ぬの?」
「いえお肌に張りがなくなって便秘になります」
「……あぁ、そう」
もうやだついてけないよ、俺。
「ふぅむ、確かに。我も最近お肌に張りが無くなってきたと思うとったところじゃ。皮膚が呼吸してないっていうか。これはやはり魔力不足というやつかのう」
ヴィオの横で別の漫画を読んでいたリコが、目元をマッサージしながら顔をあげた。
ちなみにお肌に張りが無くなってきたのは、誰がどう考えても不規則な生活リズムのせいである。
「まあ!そんなきめ細かい潤った白い肌をして、なにを仰っているのですか!」
「いやぁ」
ヴィオの発言に対し、照れた様子で後頭部を可愛らしく掻く座敷わらし。同調するなと言う前に、そもそもお前自身が死んでるようなもんだろうが、と藍は心の中で突っ込んだ。
「それでも潤いが欲しいと言うなら、どうぞ私の妖力をお分けしますわ!ベロチューで!粘膜接触で!キスミー!」
「気色悪いわ!」
「はぎゃっ!」
赤い舌を突き出していたヴィオに与えられたリコの軽めのアッパージャブ。
攻撃の弾みで口を閉じてしまったヴィオは小さな悲鳴をあげた。
「あぁ、ネェへ様。ワタふシ、舌を噛んでしまいまひたわ」
「む、すまん。すこしやり過ぎてしもうた」
「あぁ!見てください!血が出てる!」
「え、あ、すまんのじゃ」
「出血を止めるには、第三者が傷口を舐めればよい、と、き、聞いたことがあります」
若干の恥じらいをみせながら、仄かに頬を上気させたヴィオはそっとリコを窺い見ている。結局のところ彼女の目的はそんなもんだ。
「ひっかかるかー!」
「でひゃ!」
問答無用で与えられたのは、リコの容赦ない馬場チョップであった。
「ねー様は相変わらずクールアンドザギャングですわ。二人きりの時はあんなに優しいのに」
ヴィオは唇を尖らせた。
「嘘をつくでない。少なくともお主相手の時は等しくイライラしとるわ」
「まァ。ねー様のストレス要因になるくらいでしたらワタクシいつでも腹を切る覚悟ですわ!ん、ですが、このヴィオに関して思い悩んで下さっているというのはなかなかの利点。ジレンマ、ですわね」
「めんどくさい奴じゃ!そもそも頼み事が叶えられないとなった時点でお主はお役ごめん、いつまでこの場に留まるつもりじゃ!」
「まさか都合がいい女というやつですかー、うわぉう、悪女ー」
「そ、そういうわけでは」
「大体にして上司にはすでに有給申請しましたから、あと一年はこの家に住めますわ」
「お主の会社の仕組みがよくわからん……」
ってちょっとまてよ!
テメーが居候してんのは俺んちじゃネェーか!
一瞬そう思って声に出そうかと考えたが、藍は既に現状に抗うことに疲れていた。
もうどうとでもなーれ!
夏の暑さに負けてしまった彼は自暴自棄ぎみになっていた。
「それはそうと二人屋根の下というのは、同棲時代を思い出しますわね。ねぇ様は覚えておいででしょうか?二人の初めての夜、怖がるワタクシに『天井のシミ数えている間に終わるよ』と優しく囁いてくれたこと……」
「記憶を捏造するでない!」
目に怒りの炎を宿したリコはヴィオにデコピンを食らわせた。ヴィオは「いたっ!」と可愛らしい悲鳴をあげたあと、赤くなったおでこをいとおしそうになで、
「お仕置きでしたら、あの、ニィ様がいらっしゃらないところで……。二人きりのほうが、その……盛り上がりますし」
「もーいや!会話が噛み合っとらん!」
いつもの藍なら「うるせえ!カクレンジャー呼ぶぞ!」とでも怒鳴っていたところだろうが、そんな気力も気概も彼には残されていなかった。
愉快な会話を繰り広げる二人と違い、普段の元気が彼方へと消し飛んでいるのだ。
クーラー故障の代償は大きい。
業者に電話してみたところ、冷房機の需要が高まっているせいか、明日以降の修理になるそうだ。
半分死んでるような妖怪とかならいざ知らず、生身の人間にはちとキツイ気温。
このままでは、死んでしまう。
吐き出す息さえ熱を帯びている気がしてきた。
そうだ……冷蔵庫にアイスがあるはずだ。
グッドニュースを思い出した藍はぼんやりとした意識を浮上させ、ゆっくりと立ち上がった。
ペタペタと歩いて冷蔵庫にたどり着き、冷凍室を開ける。瞬間、足元にじんわりと冷気が通り抜けた。ずっとそうしていたかったが、電気代が怖いので、目的のブツを取りだし、パタンと扉を閉じる。
「藍ー、我はピノを頼むー」
「チューペットをお願いいたしますぅ」
妖怪二匹が『立ってるものは親でもつかえ』と言わんばかりに至極ムカつく要求を吐いてきたが、
「ガリガリ君しかねぇーよ」
「えー、んじゃいいや。ガリガリ君ってピノと違って、味が単調じゃから苦手なんよ」
「赤城乳業にあやまれカスが。あの至高にしてリーズナブルな神の作りし食べ物がわからないなんて、随分質素な舌をしてるみてぇだな」
「……あ、えーと、ごめん」
「わかりゃいいんだよ」
暑さは人を盲目にさせる。
藍はふらふらとおぼつかない足で、ソファーまで歩き、リコの横にどかっと座った。
袋を子供のように乱暴に破いてから、ソーダ味のガリガリ君にむしゃぶりつく。
「ふぅー」
生き返った。
ほんとに、生き返った。
全身の細胞が活気に満ち溢れていく。
人心地がつくと同時に砕けたガリガリ君の欠片は、冷気と甘味を伴って喉と食道を通過し、胃に行き、血と汗となり、俺を生かすのだ。
ありがとう、ありがとう、ほんとにそれしか言えない。
「ディモールト・グラッチェ。ガリガリ君……」
微かに涙ぐみながらそう呟いた藍をギョッとした表情でリコが見ていた。
「ちょっと、言い過ぎではあるまいか」
「いんや、お前らと違って人間さまは暑さで死んでしまうからな。ガリガリ君は砂漠のオアシスのように俺たち庶民を助けてくれる神の恵みなんですー」
「ふぅむ。なるほど。藍にとってアイスは、我々にとっての魔力みたいなもんなんじゃな」
「んー、まぁ、過言ではあるまい」
「……藍がアイスをアイニードユー……」
「つまらんギャグで俺の体内温度を下げてくれるなんて、お前わりかしいい奴だな」
「い、いやぁ、それほどでもぉー」
言ってガリガリ君を噛み砕いた。
あぁ、生き返るわー。
「やれやれですぅ。にぃ様もねー様も魔力不足を過小評価しずきですぅ。我々妖魔にとって魔力不足は甚大な問題なのですよ。のろけるのも良いですが、早急に対策を講じなくては」
いきなり真面目な顔つきになったヴィオに対して、藍とリコは「お前が言うな」と口を揃えて批難した。
「辛辣ですわぁ。お二方ともSでしょうか?ワタクシはMだから相性はどちらとも良いですけど、お二人はSとSで相性がよろしくありません。これはもうゆゆしき事態。性生活の不一致は離婚件数の中でも上位の問題であり……」
「しかし、魔力供給というのはどのように行えばよいのじゃろうか?どう思う藍?」
ヴィオを無視してリコは話を進めた。
「さぁ?旨いもんでも食えばいいんじゃね?」
「旨いもん……。例えばなんじゃ?」
「そりゃいろんなもんだろ。ガリガリ君をはじめとして肉とか魚と食って、適度な運動、あとはグッスリ寝る。そうすりゃMPは回復するってドラクエで習ったよ」
「なるほど一理あるのう」
こくこく頷きながら、リコは腕を組んだ。
「そうと決まれば今日は鍋じゃ」
「はぁ!?」
「肉、野菜、魚、いろんなものが食べられて、尚且つ魔力も回復するとなれば鍋しかあるまい」
「ちょっとまてよ。クーラーが壊れてんだぞ!我慢大会になるだろうが!」
「よいではないか。炬燵でアイスを食べるのと同じように、炎天下の鍋というのはなかなかの乙なもの。それに昨日のすき焼きの具材が結構余っとるから、処分にもちょうどよいしのう」
「いや待てってお前らは変温動物だからいいかも知れないけど、俺は恒温動物だから、ヤバイんだよ!」
自分でも何を言っているのかよくわからなかったが、とりあえず必死だった。こんな暑いなか鍋とかしたら、絶対に死ぬ。
「にぃ様の仰る通りですわ」
援軍とばかりにヴィオが藍に加わってくれた。やれやれこれで二対一。どうにかこうにか鍋は流れて、
「ただの鍋では魔力は回復しません!黒魔術的お鍋でなくては!」
くれそうになかった。
「黒魔術的鍋って」
「えぇ、普通の食事ではお腹が膨れるだけですけど、失われた魔力を取り戻すには、なにかしらの普通とは違ったエッセンスが必要なのです」
「ほぅ。そうじゃのう。普通とは違ったというと」
首を捻ったあと、妙案が思い付いたご近所さんみたいに瞳を輝かせて、リコは言った。
「ヤミナベ、とか?」
「それです!」
今日の昼御飯はヤミナベになりそうだった。