夏の幻 前
八月下旬のある日のこと。
木製のドアを開けるとともに鐘の音が響き、店員が接客にやって来た。それを「待ち合わせですんで」と断り店内をざっと見渡してみる。
メールで喫茶店に来るよう言われたのだ。禁煙席で待ちぼうけする呼び出し人を見つけ、彼は小走りで駆け寄った。
「おまたせ」
「ん、ああ」
橘藍は読んでいた本から顔をあげ、待ち人が来たことを悟ると無言で鞄に本をしまった。
「なんかドライだね。そこは恋人相手みたいに『全然まってないよー』って言ってくれないと」
「お風呂にする?ご飯にする?それともわたし?」
「喫茶店で使える選択肢は一つしかないよね」
向かい側の席に腰を下ろすと同時に店員が接客に来たので、とりあえずアイスティーをお願いしておく。
「忙しいとこ悪いな」
「大丈夫だよ。別に暇だったし」
半ば強制的に参加させられた夏期講習はとうに終わりを告げ、残すところ10日足らずの休暇をエンジョイするのみである。
嫌な思い出を外に出さぬよう白江藤吾はアクビを噛み殺した。
それにしても、と藤吾は思う。
目の前でカフェオレを啜る橘藍という人物は人一倍のプライドを持ち合わせたやつだ。それでいてめんどくさがり家でもある。
ただの遊びの連絡で呼び出したとは考えづらい。
「今日お前を呼んだのは他でもない、相談があるんだ」
「へぇ、珍しいね。橘が僕に相談だなんて」
恋愛相談かな。カノジョとの仲がうまくいってないとか。
ゲスな予想で想像を巡らせる藤吾の元にアイスティーが運ばれてきた。小さく会釈をしながら受けとると、伝票を置いて店員は別の客のもとへ小走りで去っていった。それを見届け藍が重々しく口を開く。
「始めにいっておくが、いまから話すことはすべて事実だ」
「なんだよ。もったいつけて」
「一ヶ月ほど前から奇妙なことが起こりだした。いいか?俺は正気だ。病気や妄想なんかではない、マジだ。笑わないでくれよ。
座敷わらしがテレビから出てきたんだ」
学生街の喫茶店。店内に流れるボブ・ディラン。静寂を縫って心地よいメロディが包み込む。
白江藤吾は口を半開きにして、真夏の暑さにやられたらしい(そうとしか思えない)友人、橘藍の顔を伺った。
真剣そのものだった。
「幻覚……?」
「ちげーよ。催眠術とか超スピードとかじゃ断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗なんだよ」
「そ、そう。それは、……災難だったね」
絞り出すように藤吾は舌を震わせる。 かけるべき言葉が浮かばない。溶けかけた氷がカランと音をたてた。
「しかもな、それは破滅の序章に他ならなかったんだ」
「ふぅん」
なんとか相づちをうってから、藤吾はテーブルの上で放置されたままだったアイスティーに口をつけ一息ついた。口内が独特の風味に支配される。シロップをいれ忘れていた。
「仲間を呼ぶんだ」
「ぶっ!」
口に含んだ紅茶を吹き出してしまった。ポカンとしながら紙でぬぐう。
鼓膜に問い合わせてみるが、藍は確かにそう言っていた。
「そ、それは、……大変だね」
「わかってくれるか!あの腐れマドハンド!あれほど仲間を呼ぶなと言っているのに」
興奮を抑えるよう捲し立ててから、藍は机の上に放置されていたカフェオレに手をかけそれをぐぐっと飲み干した。
親友はエロDVDの処分を託したりしない、そう茶々をいれたくなったが、そんな雰囲気ではない。
「下半身が蛇の死に神を家に招き入れたり、昨日なんて悪魔召喚に成功しやがった」
「……」
やべぇ、こいつガチだ。藤吾の顔を密かに青くなる。
小学校からの知り合いで、一番仲良く遊んできた友人。可哀想なことに、彼はこの夏の暑さにヤられてしまったらしい。
妄想症、統合失調症か?
「それでだな、白江。お前にお願いがあるんだ」
「……僕ができることなら何でもするよ」
藤吾は未だかつてしたことがないくらい温かな微笑みを持って優しく藍に返事をした。
「頼みってのは他でもない」
脳に閉じ込めた情報の奔流に検索をかけて浮かび上がった妄想症状患者への対応の仕方、それは決して否定はしない、ということであった。温かい瞳で藍を見る。
同意から自覚に繋げ、そこから病院。親友を助けるため、彼に悟られることなく救うんだ。
「魔除けのアイテムを譲ってくれないか?」
「は?」
藤吾の脳内検索窓の予想変換にピーンと『もしかして霊感商法?』と表示される。
壺でも売り付ける気なんじゃ……?
「なんなら金も出す!」
語気を荒らげる少年、買うのは向こう側らしい、意味がわからない。
「聖水でも虫除けスプレーでもホーリィーボトルでも何でもいい!たのむ、白江!お前だけが便りなんだ!」
「そんなもんねーよ」
冷ややかに告げてしまった。
「嘘だろ!お前ならなんとか出来ると蛇女が言ってたぞ!」
「ちょっと意味がわからないんだけど」
「いいか。驚くなよ、白江、お前にはとてつもない霊能力が眠っているんだー」
衝撃だった。『ゼルダの伝説』の剣士の名前がリンクと知った時くらいの衝撃だった。
「だったら妖怪を祓うアイテムの1つや2つお茶のこさいさいだろ」
妄想に僕を巻き込まないでくれ、と心のなかで頭を抱える。
藍はヒートアップしたのか前のめりに藤吾に話しかけていた。
「なあ頼む!あいつらに対抗するにはお前だけが頼りなんだよー」
「君には悪いけど僕はキングオブ一般人だからね。そんな特殊能力ないよ」
「冗談はよせ。なんでもいいから俺に力を貸してくれ!昨日現れた悪魔に命が狙われてるんだ!」
麻薬中毒者めいたことをいい始める藍。一つの可能性として残念な予想がたつ。
「ダメ、ゼッタイ!」
「何がだよ!」
末期も末期、僕の手に終えるだろうか……。
「あのさ、橘」
「おっ、急に顔つきが変わったな!協力してくれる気になったのか?」
「そりゃ夏休みは若い好奇心を擽る誘惑がたくさん溢れてるだろうさ。だけどね、興味があってもそういうのに手を出すってことは人間やめちゃうったことだからね」
「おい、俺を薬中かなんかだとおもってないか?」
「それで橘はなにやってるの?ラッシュ?スピード?覚醒剤とか大麻?ああいうのってどこで手にいれるもんなの?」
「お前のが興味津々じゃねーか!やってねーよ!そんなの!」
数秒間無言で睨み合っていたが、落ち着くためか二人同じタイミングでカップに口をつける。すでに空の藍のカップは味のついた空気しか吸えなかった。
にもかかわらず、先にカップを置いたのは藤吾の方であった。
「そうだなぁ。例えばなんだけど僕がこの夏、超能力者同士のいさかいに巻き込まれて、無い知恵をを絞って必死に通り魔犯と命懸けのバトルをした、と言ったら信じられる?」
「お前バカか?あるはずねーだろ。頭いかれちまったか?」
お前にだけは言われたくない、ぐっと言葉を飲み込んで藤吾は続けた。
「……ともかくだ。僕は超能力なんて持ってないの」
伝えたかったのは、荒唐無稽な話の信憑性と、自分の一般性についてだが、藍にはいまいち伝わらなかったらしい。
「くそ、あのガキにだけはヤられたくないってのに」
苛立た気に藍は背もたれに身体を埋めた。藁にもすがるとはこの事をいうのだろうか、必死さは伝わってきた。
「お祓いでも頼んだら?」
アイスティーをすする。妄想病にとりつかれた人に対して否定を行ってはならない、同意しつつ話題をそらすのが得策だ。
「やってくれるか!?」
「いや、僕じゃなくて」
とはいえこの場合……。適当な演技でもいいから、安心感を与えてやれば、彼の抱えた心の闇は祓えそうだ、短い心理分析で導きだした答えだった。
「五十崎から聞いたことがある。この辺に魔を喰らう神社があるんだって」
「喰らう?妖怪退治って訳か?」
「よく知らないけど元は無病息災が専門らしいよ。それが転じて魔除けも扱ってるらしいし」
「ふーむ、なるほどな。ちょっくら行ってみるか。これから暇だよな?」
「しゃうがないなぁ」
乗りかかった船、藤吾は悟られないよう小さくため息をついた。これで解決してくれればいいんだけど。
「そうと決まれば早速レッツゴーだ。ちなみにどこにあるんだ?」
「蛇籠の森って知ってるかな、なんでも奥に神社があってだね、そこの神使の白い蛇が」
神社、蛇、その2つのワードだけで、藍は不吉な答えを導きだした。胆試しでいったところ、つまり、
「却下ーーー!」
そこは件の蛇女、アヤメのすみかである。
「え?なんでさ」
「あの神社だけは信用してはならん」
有力な情報を握っている村の老人みたいな顔つきで藍は首をふるふると左右にふった。
「魔物が住んどる」
「はあ」
「命が惜しければ、近寄らぬことだ」
「なんだよそのキャラ」
藤吾を無視して藍は通りがかったウェートレスにカフェオレのおかわりを要求していた。
にこやかにオーダーがすんで、こちらを向きなおした藍は人差し指を藤吾のほうにむけ、唇を尖らせた。
「お前んち神社だろ」
夏休み前に五十崎とそのような会話をしていたはずだ。だからこそ俺はこいつを頼っているのだから。
「だったらお前がなんとかしてくれ」
そんな彼の思惑に、藤吾は小さくため息をついた。
「母さんの実家は確かにそうだけど継いだのは叔父さんだよ。僕は一応進学希望だけど、國學院や皇學館は考えてないし」
「なにそれ、大学?」
「簡単にいえば、神主になるための勉強をする気はないってこと」
「ふーん、まあ、進路なんて関係ないんよ。たとえライ麦畑で落ちそうになった子供を抱き抱える夢をとろうと」
「僕の小学校の時の夢をバカにするな」
思い浮かばなかったから、適当に書いただけである。
「本物の霊能力者がここにいるんだからさ」
「ないっての」
「あんの!」
蟹の甲羅の黒いつぶつぶは寄生虫だという事実を教えるかのように、 きっぱり言い放つ彼の目には力があった。
「お前にはすげー能力があんの!」
うわぁ、この人能力って書いて『ちから』って読ませたよ、いい歳こいて。という辛辣な意見をぐっと飲み込んで藤吾は口を開いた。
「それに僕の家系、そういった才能は女系で受け継がれるらしいんだ。だから僕には無理」
「いやでもなー少なからず存在しているはずなんだよ。あやめがいってたし」
「あやめ、さん?」
誰だっけ、と一瞬頭を捻ったがすぐに答えが浮かんだ。橘のカノジョ(勘違い)だ。
「アヤメさんが僕に霊能力があるって言ったの?」
「おお、ばっちりだ!びびってたぜーあいつ」
少しだけショックを浮ける。ど根性カエルや裸足のゲンがジャンプコミックだと知った時くらいの衝撃だ。
切れ長の目に端正な顔立ち、クールな美人系と言った感じだったが、まさか見かけによらず電波だったとは!
恐らくだが橘の様子がおかしいのも(悪魔とか死神とか座敷わらしとか)、きっとカノジョに影響されたからに違いない。
「橘……」
「ん?」
白江藤吾のスタンスは助けるられるものは助ける。知り合いならばなおさらだ。非常にめんどくさいが、彼は決心を固めた。
「アヤメさんに会わせてくれないか?」
妄想症患者を救うには根本問題を解決しなければならない。橘がアヤメと出会って電波になったのなら、アヤメの電波から改善、それが無理なら関係をたちきる必用があるだろう。酷とはいえ、友達を救うためにはしかたない。原因を取り除くのだ。
勘違いではあるが、彼の心情は妙なヤル気に溢れていた。
「おおっ、さすが白江だぜ!やっぱり頼りになる!」
ただ単純に藍は、厄介者ナンバーワンの蛇な死神を祓ってくれるもんだと思っている。
なんやかんや、お互いに勘違いしたままだった。