22 タイム・リミット+ 前
8月にはいって夏の日差しは加減を知らず、最高気温は軒並み真夏日を記録してした。
セミだけがうだるような暑さに負けず、いたるところでスコールを降らせている。
殺人的太陽光線は、グングン気温を上げていき、室内にいても汗が滝のように吹き出した。
そんなある日。
寝苦しさに目を覚ました藍は、唸りながら伸びをした。ぐっしょりと布団は汗で濡れている。まだ午前中だが、耳にガンガンと蝉時雨が貼り付いていた。
「リコ、めしー」
いつものように汗を拭いながらリビングに行く。
座敷わらしという奇妙な同居人がやってきて、彼の食生活は充実していた。
「藍よ」
豪勢な、まるで旅館の朝食にひけをとらない料理がならんでいる。腕がさっぱりの彼では、ここまできれいに食卓を整えることはできないだろう。
「うおっ、今日もうまそうだなぁー。そんじゃいただきまーす」
「藍よ。箸をとめて、話を聞いてくれんか」
「ん、どうした。改まって」
リコは少女のような風貌に似合わぬ真剣な表情で、彼をまっすぐに見つめた。
「思えばおぬしとは色んなところに行った。大昔や宇宙、鏡の世界や夢の国、異次元なんかも冒険したり」
「おいなんの話だ」
「……これは大長編の話じゃったか」
寂しそうに呟くと、リコは静かに目を閉じて、三つ指をついた。
「な、なんで土下座なんだよ?」
「世話になった。言葉では言い表せないほど感謝しとる。1ヶ月限定とはいえ、おぬしはいいカレシじゃった」
「あ」
カレンダーに視線をうつす。日付は彼女がテレビから飛び出してきてちょうど1ヶ月目を迎えていた。
座敷わらしに憑かれた家庭は裕福になるが、去れば没落を迎える。1ヶ月程度ならその危険もなく、座敷わらしは留まることができる。幸せにはならないが、不幸にもならず、彼女は屋根の下で暮らすことができる。
だから橘藍は1ヶ月だけ、彼女との同居を許可したのだ。
「そうか、もうそんなに経つか……」
「うむ。心残りはおぬし一人ではジャイアンにイジメられてしまうのではないか、ということだけじゃ」
「えぇい、なにをふざけてやがる。少しは感傷に浸らせい」
「そこはあの名セリフ、『ぼくが自分一人の力で君に勝たないと、リコが安心して妖怪の国に帰れないんだぁー』じゃろ」
「なんでさっきからドラえもんしばりなんだよ!?」
頭を下げたまま、顔を上げようともしないリコは、藍の声に肩を震わせ小さく呻いた。
「リコ……」
「むふふ」
「……なんで笑ってんだ?」
ガバッと顔をあげた少女は、にんまりととてもいい顔で笑った。
「嬉しいんじゃ。おぬしが感傷に浸ってくれるということは、それだけ我との別れを惜しんでくれているということ」
「な、うっせバーカ、口が滑っただけだよ!」
「くふふ、照れるなよ藍ー。男のツンデレは見苦しいだけじゃぞ」
「デレるかボケ!」
貧相になった彼のボキャブラリーはそう言っていなかった。
「おぬしのようなタイプは卒業文集に大人になった時に見返したら耳まで真っ赤になるようなポエムを書くんじゃ。ほれ、なにか言うてみい」
「バカやろう!先見の明がある俺は文集には無難なことしか書かないってきめ」
「『俺は泣かない。別れはつらいが、次のステージへの旅立ちだと思っているからだ』」
「な、お前、どこでそれを!」
「押し入れー」
リコの手には藍の小学卒業アルバムが握られていた。
「『俺がこの学校で過ごした時は、決して輝いてなんかいなかっ』」
「黙れぇ」
「『夢なんてない。いま、この時を生きている俺が夢をつむぐか』」
「いっそ殺してくれ!」
卒業してからそんなに経っていないのに、彼は耳まで真っ赤になっていた。その場のノリというのは本当に恐ろしい。
「藍は将来の自分に手紙を書いたことがあるかのう?」
「な、なんだよ……」
恥辱のマグマで脳みそまで茹で蛸の藍に、リコはいつもどおりの朗らかな視線をよこした。
「確か卒業の時、タイムカプセルに入れた記憶はあるが、……こ、こっちは無難な手紙だかんな」
「ふむ。我もそういうのやってみたくてのう。押し入れに残してあるんじゃが、我が去ってから目を通してほしい」
「それって普通の手紙じゃん」
「はは、たしかにそうじゃな」
網戸から夏の爽やかな風に運ばれ、室内にセミの鳴き声を運んでいた。
朝からクーラーを使う経済的余裕は高校生の一人暮らしにはない。だからタイマーを夜中までセットし、早起きのリコがタイマーが切れた早朝に窓を網戸にするのだ。
整いだした生活サイクルをやり直さなくてはならないな、と藍はそう思った。
「……寂しくなるな」
「好きじゃぞ。藍。好き好き大好き超愛してる」
「な、き、急になんだよ」
「ふふ、最後じゃから正面切った告白じゃ」
「……お、おれも」
「む、よく聞こえんのう」
ぼそりと囁くような声量で藍を呟いた。
「お前のこと、わりかし嫌いじゃなかったぜ」
「なにそれ。へんなの」
クスクスとリコは笑ってから、
「さて、もう行くかのう」
立ち上がり、玄関ではなく壁にむかってスタスタと歩きはじめた。
「お、おいリコ!」
藍はなんだか寂しくなって、思わず呼び止めてしまう。
リコは返事をせずに立ち止まった。
「次はどこにいくんだ?」
「さあ、しばらく放浪するのもわるくない」
「そうかまた会おうな」
「うむ」
壁を通りぬけてリコはどこかに行ってしまった。
残された藍は、食卓にならぶ色とりどりの料理に箸を運ぶ。租借するたびに、なんだか目頭が熱くなった。
「やっぱうまい。コックとして、残ってもらえば良かったな」
独り言になった彼の言葉は、セミの鳴き声の濁流に流される。騒々しいはずの室内は、鼓膜を切り取ってしまったみたいに静かに感じられた。
リコが出て行って数時間後、なにをするでもなく大の字で横になっていた彼は、お昼をむかえ、空腹を訴える自分の腹の虫を鎮めるためキッチンに足を運んだ。
レトルトカレーを作る。数分で完成。
「ボンカレーはどう作ってもうまいのだ」
やせ我慢のようなつぶやきはカレーのいい香りとともに空気にゆっくり溶けていった。
「そうだ、手紙」
カレーに口をつけながら、テレビを見ていた彼は別れ際のリコの言葉を思いだした。押し入れに彼女からのメッセージがあるはずだ。
早速、確認してみる。畳まれた布団の真ん中に何やら箱が置いてあった。手を伸ばし取ってみると、ドラえもんが印刷されたお菓子の空き箱のようだった。
「あいつ今日はやけにドラえもんにこだわるな」
ぼそりと呟きながら箱を開ける。
『さよならは言わない。また会おう』
「これは、……俺の中学の卒業文集……」
手紙には、封じこめた中学三年生の彼からの耳が赤くなるような言葉が綴られているだけだった。最後までイタズラかよ、と頬が緩んでしまう。
箱にはその手紙以外にもなにか入っているようだった。ボロボロのレシピ本と、数珠、それから鼈甲色の髪留めがいれてある。『うそ800』はない。
「どういう、意味だ?」
藍がリコにプレゼントした2つ。
怒りをにじませ、『これはブレスレットではない!』と怒鳴るリコ、初めてのまともなプレゼントに頬を染めていたリコ。その2つの思い出が、箱にしまわれていたのだ。
「それに、これは……」
随分と年期の入ったレシピ本。最後のページをみると発行年が20年前だ。彼女の私物だろうか。
その本をなんの気なしに裏返して見てみると、黒のマジックペンで名前が綴られていた。
『人形坂梨子』
幼子が書いた文字のようにガタガタだが、確かにそう書かれている。
「にんぎょう、ざか……だと」
声に出して、明かされることのなかったリコの名字を読み上げる。
「まったく聞いたことがないっ!」
少なくとも彼の知り合いにそんな名前の人はいなかった。
彼女の意図が読み取れず首を傾げる藍の耳にピンポーンと来訪者を知らせるチャイムの音が届いた。郵便でも来たのだろう、と立ち上がる。ぴん、ぽーん。ぴん……ぽーん!
しつこく室内に響くチャイムにイライラしながらも、玄関の戸を開ける。近所のガキがイタズラでもやってんのだろうか。
「やっぱり指を離すと『ぽーん』って鳴るのね。面白いわ」
そこには、涼しい顔のアヤメが立っていた。
「てめぇ、なにしに来やがった!?あ、こら、勝手にあがるな!」
「今日のわんこー。今日は千葉浦安1の1(嘘)、リコさん宅の藍ちゃんです。チャイムが鳴ると大はしゃぎで客人を出迎えてくれます。偉いですねー」
「だれがリコのペットだ!それにここは俺のウチじゃぁ!」
彼の叫びをシカトしてアヤメは平然と玄関からリビングに移動した。
「リコー。暑いから涼ませてー。って、あれ?リコー?どこー?……いないわね」
「家主の許可なく勝手に家にあがんなよ!」
「ねぇ、リコはどこ?買い物?」
「リコなら帰ったよ」
「……どういうことよ、豚コレラ」
大声で呼んでも、当然リコからの返事はない。
「どうしたもこうしたも、1ヶ月限定の関係だったからな。お別れしたんだ」
隠す必要性を感じられないので、正直に告げる。ピクピクとアヤメの表情に青筋が浮かんだ。
彼女は一回大きく深呼吸し、藍に向かって怒鳴りつけた。
「バカ!アホ!マヌケ!クズ!ハゲ!チビ!カス!タコ!ブタ!ゴキブリ!ウジ虫!ミトコンドリア!微生物!【ピー】!変態!ロリコン!【ピー】!性犯罪者!白痴!ろくでなし!ひとでなし!【ピー】!【ズキューン】!死ねぇ!」
ありとあらゆる罵倒語がアヤメの口から飛び出し、弾丸すべてが藍につきささる。
「な、なんだよ!急によ。意味わかんねぇぞ!」
「Jap!hooker!ass-hole!bastard!sonofabitch!chicken!crap!wimp!turkey!ninny!crud!crybaby!knucklehead!motherfucker!Fuck off!」
日本語だけじゃ足りなかったらしい。
「お、おい落ち着けって、わけわかんないって!」
「あ、あんたの面を見てると造形的に不安を抱くのよ!あなた絶対将来はげるからね!息くさいのよ!カモメ眉毛!鼻毛!カメムシ!」
根も葉もない悪口に移行しはじめたところで、藍は変に冷静になっていた。
普段なら絶対にしないことだが、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出してアヤメに出してやる。それをグビグビと飲み干してから、アヤメは小さくお礼を言ってため息をついた。
「悪かったわね。少しイラついてしまったみたい」
「あ、いや、いつもの事だからそれは別にいいんだが……」
こいつがあそこまでブチ切れるのは、
「リコが、どうかしたのか?」
リコに関しての事に決まっている。
じっとりと嫌な汗を背中にかく。
「関係ない話よ。あなたには」
アヤメは涼しい顔でそう呟くと、そのまましゃっきりと立ち上がった。
「邪魔したわね」
「待て」
玄関から帰ろうとしていたアヤメを呼びとめる。
様々な想像が脳内を駆け巡った。
「なんであそこまで怒ってたんだ?」
「別に」
興味なくしたおもちゃを見るような冷たい視線を藍にやってアヤメは振り返った。
「答えてくれ、頼む」
「……あなたがリコを止めなかったからよ」
「……」
確かに、俺は、あいつを呼びとめなかった。だけどそれは、最初からそういう約束だったからだ。
声には出さない言い訳が頭に浮かぶ。
「一つだけ、……質問に答えてくれないか?」
「なによ」
前々から考えていたことがある。
五十崎柚から聞いた妖怪の定義、座敷わらしの特徴。宝くじ、ギャンブル。
死に神。
「リコは、ほんとうに座敷わらしなのか?」
「……」
アヤメは口を閉じ、なにかを考えるように天を仰いだ。
「それを知って、あなたはどうしたいの」
「俺は……」
いろんな答えが浮かんでは、花火のように消えていった。