17 グレゴリー
じっとりとした風が、少年の身体を撫でまわす。熱帯夜と称するに相違ないムシムシとした、暑い夜。
夏の空気に淀んだ月明かりが、辺りを不気味に照らしてくれる。
誰も気がついていない。
こめかみから垂れた汗の珠が、頬を伝って、地面に丸いシミを作った。
少年は横に佇む座敷わらしをちらりと見やる。祭りの前で頬を紅潮させる子どものように彼女はわくわくを積もらせていた。
その楽し気な少女に、緩やかな月明かりが降り注ぐ。
まだ太陽が活発としていて容赦ない殺人光線を街全体に浴びせている時間帯のことだ。
「おまえらはズルい」
雄叫びを轟かせた藍は、涙目でトラウマを引きずりながらも、人心地がついたらしくお得意の憎まれ口を叩いていた。
「ズルいってなにがよ」
「我も含んどるのか?」
いきなりの糾弾に、きょとんとしながら、リコとアヤメは首をひねった。
「人をびびらせるのに、怪物めいた力を使うのはフェアじゃない」
「なにが言いたいのか、さっぱりわからん」
「だからっだ!」
語気を荒げて、目一杯誇張させるように彼は大きく手を上下させた。さながら未成年の主張である。
「今までのパターンを思い出してみろ!てめぇらはいつも化け物パワーで俺を脅すだけじゃねぇか!」
「女の子に化け物なんてデリカシーのない男ね。そんなんだからモテないのよ」
本来ならば足がついている部位にある長い尻尾を機嫌よさそうにふりながらアヤメが口を開いた。
「あんたみたいなでくの坊に血が巡ってるだなんて無駄の極み。何も言わずに献血でも行って、性交経験有無の質問に絶望してるが相応よ」
「化け物め!18歳以下は献血できねぇよ!ばーか」
語彙もなにもない幼稚な悪口を叫んだ彼に、
「あ?」
彼女から浴びせられたのは不良学生が如く、濁音であった。
「化け物だなんて失礼ね」
アヤメは艶めかしく真っ赤な舌をペロリとだし、唇を舐めた。
一部の男性からは喜ばれるであろうその所作の真の意味を、少年は正しく理解する。
これ威嚇だ……。
「あんまり生意気言ってると、三回みたら死ぬって有名なベクシンスキーの絵をプリントアウトして瞼の裏に縫いつけるわよ」
「そ、そんな脅しに怯むか!今日こそははっきり言うぞ!リコ!」
藍を奮い立たせるように、自らのカノジョの名を呼んだ。それにさして興味なさそうにリコは欠伸混じりに「ふぁーい?」と返事をする。
「お前にも言ってんだかんな!毎回毎回、妖怪オーラでごまかしやがって!たまには自分の力で物事をなし得てみろ」
「おぬしがなに言いたいのか、まだよくわからんのじゃが」
「だから、俺はただの人間でお前らは妖怪なわけだ。この前提で、妖術だか霊能力だか知らんが、非科学的な力で俺を脅すのはフェアじゃねって言ってんだよ!」
少年の主張にリコは、首だけでこくんと頷いた。
「なるほどのう。種族間の能力差が納得できんのか」
「ケツの穴が小さい男ねぇ」
女の子が口にすべきでない下品な例えに顔を真っ赤にした藍は、唾を飛ばさんとする勢いで大きく声をあげた。
「だから不平等だって言ってんだ!ただの人間に非現実的パワーを押し付けんな!等身大の立場を俺は求めてんの!」
「ぷっ」
真剣な彼の言葉に吹き出したのはあやめだった。
「等身大だって。等身大とか。等身大のオレを見てくれ、っていかにも安っぽいセリフ。三流歌謡の歌詞みたい。ださっ」
クスクスと今まで見たことのないとっても良い笑顔で、指さされては、さすがに平静を保っていられなくなる。
「ごごごごまかしてんじゃねぇ!お前から妖力を取ったら、MPの切れた魔法使いも同然だかんな!初期ポップより、使えない存在だ!」
「聞き捨てならないわねぇ。悟りの書が読めない遊び人みたいな存在のくせに。私のことをバカにする権利、あなたには無いんだから」
あやめはそう言って、窓を開けた。夏の熱気と蝉時雨を含んだ生暖かい風がクーラーの効いた室内に雪崩れ込む。
クエスチョンマークを浮かべながら、何やら指さす彼女の横に立つ。
「真夏のアスファルトで干からびてるミミズのほうが、この世界じゃよっぽど有益な存在よ」
土がなく逃げ場を失ったミミズが照りつける日差しに灼かれのたくっていた。
「ダメな土嚢を耕し、豊穣な土地を作りだすミミズが死んで、ただ砂を食い、二酸化炭素を吐き出すあなたが生きてる。これって不条理だと思わない?」
「なに哲学っぽくまとめようとしてんだ!そんなんじゃごまかされないぞ!」
ちっ、と舌打ちし、アヤメはピシャリと窓ガラスをしめた。途端、真夏の騒がしい空気が切り取ったみたいに静まり返る。
「わかったわよ」
「ああ?」
「ようは私やリコが妖力を使わずに、あんたをびびらせればいいんでしょ?」
「は?いや、だから、」
「肝だめし、行くわよ。2日目の今日は、小学生以外も参加できるはずだから」
いきなりのお誘いに、アヤメの住処である森の社で肝試し大会が行われるらしい、という今朝の彼女の愚痴を思い出す。
「話が見えな、」
「どっかの頭悪そうな高校生が、脅かし役として参加してるみたいだし、私が飛び入りしても問題はないわね。大体あそこのヌシは私だし」
「俺はただ単に対等な関係が築きたいと言っているわけで、」
アヤメとの一方通行な会話に混乱を覚えながらも、割り込もうとした彼より先に、嬉々としたリコが楽しそうな声をあげた。
「なかなか粋な提案じゃのう。夏の風物詩じゃ!肝試し!」
「でしょー!リコ、こういうの好きだもんねー。あたしも好きぃー」
お前さっきガキがうるさくてウザいって嫌がってただろ!と、巷の女子高生みたいに黄色い声を上げる彼女たちを怒鳴る、なんてこと彼にはできなかった。
こうして彼は、真夏の夜に肝試し会場となる鎮守の森前の広場に立っていた。なかなか賑わいで、子どもから大人まで、一クラスは優に超える盛況ぶりだ。自分と同じ年代の人も多くいる。
アヤメは「お望み通り、妖術なしでびびらせてあげる」と、仲良くなったらしい脅かし役の高校生たちと共に、自らのホームグラウンドに引っ込んでいったので、今彼の隣にいるのは座敷わらしのリコだけだった。
「アヤメが本気で脅かしにかかるだなんて、少しばかりヘビーな状況じゃの、ぷふっ」
自らの薄ら寒いオヤジギャグに吹き出したリコを流し目で見ながら彼は深く後悔していた。
軽率な生き方を改めようと誓ったばかりじゃないか!それに、
彼はちらりとリコに視線を移す。他人の目にも見える、という状態になっていると言っていた彼女には、月明かりに照らされても影ができていなかった。夜だから目立たないとはいえ、
「すでにフェアじゃない……」
彼は心の中で頭を抱えた。
アヤメが脅かし役でリコと藍が参加者、簡単な構図だが、肝試し参加を拒否することができなかった自分の過ちを、彼はまた悔いるだけだった。
「でもお前怖いの苦手じゃなかったっけ。映画観てブルってたじゃん」
「ああいうのはフィクションだからと、おどろおどろしくし過ぎなんよ。普通の夜の散歩程度の肝試しなぞ怖くもなんともないわ」
よくわからん理屈に、
「まあ、題材はお前らだかんな」
彼はまた頭をかかえた。