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幸福の肖像

幸福をなぞる影

作者: 矢ヶ崎

 

 

「アリシア・レイモンド。君との婚約を……解消したい」

 

 この国の王太子であったエドワードは、かねてよりの婚約者アリシアとの関係を終わらせることを選んだ。

 その傍らにいたのは、クラリッサ・メイベル。

 彼を愛し、彼に選ばれた女──今や、未来を共にすると定められた者。

 

 エドワードを深く愛していたはずのアリシアは取り乱すことなく、瞬きひとつですべてを受け止めた。

 いかなる波紋も起こさず、何も失っていないふうに微笑んだ。

 

 

 けれど、クラリッサは見ていた。

 ほんの少しだけ震えた睫と、くぐもった息遣いを。無数の言葉が胸を打つ前に、静かに立ち去る姿を。

 

 恋に浮かれたふりをしながら──アリシアが気丈に振る舞う姿を、じっと見つめていた。

 

 

 

 

 クラリッサ・メイベルは、誰からも愛されることなく育った。

 

 彼女は名門貴族の家に身を置くが、実の娘ではない。立ちゆかなくなった親戚筋から引き取られたよそ者で、義父母からの扱いも冷淡だった。生活の最低限は保障されていたが、それだけだ。

 声をかけられることも、必要とされることもなかった。

 たとえばその存在が、部屋の空気を濁らせるとでも言うかのように。

 

 笑い声は、いつも別の部屋から響いていた。拍手も、歓声も、愛情も──どれひとつとして、クラリッサのためのものではなかった。

 

 この家には、優秀な息子がいた。嫡男として誉れ高く、才気あふれ、美しく育った跡取りだった。

 家族の目は、始めから終わりまで、ただ彼だけを映していた。


 クラリッサは完璧な家族の中に突如として放り込まれた、大して役にも立たない異物。個性のない、影のような少女。

 だが、消え去るだけの存在にはなりたくなかった。

 

 だれか、わたしを見て。気が付いて。

 ほしいと願われる存在になりたい。

 世界のどこかに、わたしを渇望してくれる人が、ひとりだけでいいから──いてくれたなら。

 

 そんな漠然とした願いは常に彼女の中にあった。

 それがあの人に出会った瞬間に、はっきりと形を持ったのだ。

 

 

 あの人をはじめて見たとき、この世にこれほど綺麗なものがあるものかと思った。

 

 透きとおるような髪が、光を孕んで揺れていた。

 まなざしはまっすぐに人を見つめ、そのたびに誰かの心が静かにほどけていくようだった。

 動作のひとつひとつまでもが、生まれつきそうあるべき定めを帯びていたかのようで──呼吸が止まりそうな思いがした。

 

 あれがほしい。どうしても、手に入れたい。

 手に入れさえすれば、わたしはきっと、世界でいちばん幸福な女になれる。

 

 一目見たときから、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 焦がれるように憧れたひとつの影が、光をなぞろうとした。

 

 

 

 

 あれは第一王子エドワードの婚約者候補を集めた、茶会でのことだった。

 

 未来の側近と妃候補の顔ぶれを一堂に集める、王宮主催の由緒正しい催し。クラリッサも家名の義理で呼ばれたが、心には微塵の期待も宿していなかった。

 

 与えられたドレスは既製品で仕立ても粗く、形もまったく似合わない。着せられた姿を見た侍女が、背後で小さく笑う気配がした。クラリッサの好きな色ですらなかった。きっと家族は、自分の好きな色をひとつも知らないのだろう。

 それでも、精一杯に髪を整えた。鏡の中の自分に、虚勢を張ったように微笑んでみせた。

 

 けれどやはり来るのではなかったと、俯かずにはいられない。

 色めき立つ少女たち。思い思いの素敵なドレス。期待を持つ薔薇色の頬。愛されてきた証をまざまざと見せつけられているようで、乾いた心に嫌気がさした。

 花のように咲き誇る娘たちの間で、クラリッサは影絵になった心地だった。

 

 

 ──そのとき。会場に、鈴の音のような声が響いた。

 

 クラリッサは声に呼ばれるように、ゆっくりと振り返る。

 瞬間、息が止まった。

 

 アリシア・レイモンド。

 

 光の中からやって来たみたいに眩しい、美しき侯爵家の令嬢。

 その姿は、白昼に舞い降りた幻想のようだった。

 

 陽差しを溶かした髪。周囲の空気までも甘く変えてしまう、なめらかな動き。

 息を呑む貴族の子息たち。頬を染める侍女。

 その少女は、ただそこに在るだけで、人々に幸福を与えた。

 

(ああ……なんて……綺麗なの……)

 

 目が離せなかった。

 

 まぶたの裏に焼きつくほど、見惚れた。

 その美しさが自分には絶対に届かないもののように見えて、嫉妬した。

なぜ彼女は何もかも持っているの、と呪った。

 

 憧れと妬みと呪いのあいだを揺れながら、クラリッサの胸の奥に何かが螺旋のように巻き付いた。

 

 この人になりたい。この人が持っているものが全部ほしい。どうしてもほしい。

 この人の席に、座りたい。可憐で、優雅で、誰よりも眩しいこの人の居場所がほしい──。

 

 それは涸れた泉が水を求めるような、純粋で、しかし恐ろしいほどの渇望だった。

 

 

 アリシアがふとこちらを見た。

 

 じっと穴があくほど見つめていたこちらの視線に気づいたのだろう。

 責めることも、気まずさを見せることもなく、彼女は──……やわらかく、笑った。

 

 クラリッサは、それが自分の人生で最初に見た唯一の光だったような気がした。暗闇に突き刺された一本の矢のようだった。

 

 ああ、この人は、どのように人を愛すのだろう。

 この人は何を幸福と思うのだろう。

 この人の好きな色は、なんだろう。

 

 その微笑みに触れた瞬間、幸福のかたちが──ゆっくりと、狂い始めた。

 

 

 

 

 アリシア・レイモンドの婚約者が、第一王子エドワードに決まったと聞いたとき。

 そのとき彼女の胸のうちに燃えあがったものは、ありふれた言葉で嫉妬と片づけられるような、そんな単純な炎ではなかった。

 

 それは赤くも青くもない、名もなき火であった。どんな言葉で包んでも追いつけぬ、形を持たぬ情念のようなもの。

 その熱は彼女の肌にではなく、骨の髄にまで沁みた。声にならないまま、沈黙のうちにその火は育っていった。

 

 もとより二人は顔合わせを済ませていたらしい。正式に婚約が結ばれるのは、時間の問題だったのだ。

 あの茶会はすでに定められた運命をなぞる、形式的な催しに過ぎなかった。

 

 アリシアは王子のことが好きだった。そのことは、アリシアを見つめていたらすぐ気付いた。

 やわらかく頬を染める仕草、視線の向け方、言葉の選び方──彼女のすべてが、彼だけに注がれていた。

 そしてエドワードもまた、その愛を当然のように受け取っていた。

 

 クラリッサは、その景色を見ていた。

 まなざしの隙間からこぼれ落ちるほどの幸福を、指先で拾い集めたかった。

 できることなら──あの王子が、自分を見てくれたなら。

 

 (もしあの人が、わたしのことを好きになってくれたら?)

 

 ひとつの言葉が、夢のように胸に落ちた。

 その思いは、毒とも蜜ともつかぬ甘やかな香りを放ち、クラリッサの心を密かに満たしていく。

 

 アリシアが持っているもの。あのやわらかさ、あの穢れなさ、あの特別な娘という空気。

 それをすべて奪ってしまえたら、自分の中にも幸福が宿るのではないか。

 

 そんな憧れと羨望と、そしてあらゆるものを灰燼に帰す、破壊の甘い予感。

 

 ──アリシア・レイモンド。

 その名を心の内で幾度も呼んだ。花の名のように、祝詞のように、呪詛のように。

 

 

 彼女は、今まで以上にアリシアを見つめるようになった。

 それは愛情とも敵意ともつかぬ、けれど熱を帯びたまなざしだった。

 

 声の高さ。抑揚の付け方。間の取り方。頷き方、笑うときの睫の震わせ方、カップを口に運ぶ指の角度──あの娘の身に宿る美しさのすべてを、クラリッサは丹念に、ひとつ残らず記憶していった。

 ドレスの裾が揺れる軌道すら、目に焼き付けた。アリシアが風を受ける瞬間の、髪の揺れる気配さえも。

 

 けれど、それだけでは足りなかった。それだけでは、彼女にはなれない。

 

 クラリッサは年月をかけて情報を集めた。

 

 家族が自分に興味を持たないのは、都合がよかった。

 自由は、いつだって孤独の副産物として手に入る。

 今まではしおらしく過ごしていたクラリッサは家名を使って、好き勝手に行動した。

 

 使用人を買収し、アリシアが王子に送った手紙を読んだ。

 少女の恋の繊細なありようを、クラリッサは文字の隙間にまで指を差し込むようにして、誰よりも詳しく、誰よりも熱心に読み取ろうとした。

 まるで自分がその恋を、その痛みと喜びを、実際に経験しているかのように。

 

 侍女に取り入り、日記にも目を通した。日々の出来事が、簡潔な筆致で綴られていた。

 何を食べ、誰と話し、どんな夢を見たか──紙の上に残された微細な痕跡すべてを、クラリッサは吸収した。

 

 時折、エドワードについて触れられた記述もあった。

 小さな文字の震えに、沈黙の行間に、彼女の心の機微を見出そうとした。

 アリシアの心が宿る場所を、ひとつ残らず知りたかった。

 

 アリシアの友人たちとも笑顔で会話を交わした。

 やりとりのひとつひとつを反芻し、会話の空気に潜むアリシアの輪郭を編み上げていく。

 

 彼女の想い、彼女の言葉、彼女の時間。すべてを、知りたかった。

 彼女というひとりの少女を、丸ごと自分のなかに移し替えるように。

 

 家でどの位置に座るか。ドアを開けるときの音。そういった小さな癖までも、クラリッサは飢えるように知識として取り込んでいった。

 

 アリシアが次に何を言い、何に笑い、どんな服を選ぶか。彼女の振る舞いを後付けで理解するのではなく、前もって計算できるようになりたかった。

 

 それは単なる模倣ではなく、侵蝕だった。

 完璧な理解の末に、なりかわるための準備だった。

 

 クラリッサ・メイベルは、アリシア・レイモンドという少女を殺すために、彼女になろうとしていた。

 

 

 そうして、クラリッサは毎夜鏡の前に立った。

 まるで儀式のように、同じ時刻に、同じ足取りで、同じ場所へ。

 胸元には、薄く折り畳まれた紙片──アリシアがかつて王子を想って綴った日記の、写しの一頁。

 

 それをそっと取り出し、手のひらの上で開き、息を吸う。

 淡い香水の残り香とともに、少女の記憶がふわりと立ちのぼった気がした。

 

 クラリッサは唇を開く。声帯を湿らせ、言葉の形をなぞるように。

 

「……どうか、あまり無理をなさらないで。エドワード様が倒れられたら、わたし……」

 

 少しの沈黙。

 続きがうまく出ない。言葉の調子が、彼女の口に合わない。

 

「……わたし、困ってしまいます」

 

 言い終えた瞬間、体の底から違和感が泡立った。

 耳に届く“わたし”の声──それは自分のものだ。クラリッサ自身の、他者を模倣するにはあまりに自分のままの声だった。

 

「ちがう、ちがう……こんなのじゃない……」

 

 頬がこわばった。

 鏡の奥の自分と視線がぶつかる。息をついて、クラリッサはゆっくりと、呪文を唱えるように問いかけた。

 

「わたし、ワタシ、──“私”?」

 

 言葉を幾度も巻き直し、口腔の形を変え、声の奥行きを整える。顔の筋肉を繕い、眉の角度を測り、笑みの練習をする。

 そうして再び、彼女は読み上げた。

 

 「……どうか、あまり無理をなさらないで。エドワード様が倒れられたら、私、困ってしまいます」

 

 どうにか、それらしくはなっていた。

 

 声のトーンも、表情も、仕草も、言い回しも──すべてが、彼女を写し取ったものだった。

 そこにいたのは、肉と骨と声帯のひとつひとつに至るまで、模造された愛の器。

 

 「……ああ、そう。こう……だったわね」

 

 クラリッサの声は震えていた。それは緊張でもなく、寒さでもなく、興奮によるものだった。

 声帯の奥に灯る微熱のような昂りが、彼女のすべてを微細に打ち鳴らしていた。

 

 “わたし”ではない、“私”。

 “クラリッサ”ではない、“アリシア”。

 呼吸も、視線の揺れも、髪の揺れ方すらも。すべてを、矯正する。調律する。すり替える。

 

 ──“私”になれるのなら、“わたし”はいらない。

 

 クラリッサは、再び、ゆっくりともうひとつの言葉をなぞる。

 滑らかな舌の動きに合わせて、音が世界の皮膜をなぞる。

 

「……たとえ世界が滅んでも、あなたと一緒なら──それでいい」

 

 言葉の最後に、少しだけ呼吸を残した。余韻のように、祈りのように。

 それはクラリッサの声であって、もうクラリッサのものではなかった。

 

 指先で、紙の上の文字を何度もなぞる。唇で、同じ文句を反芻する。

 その言葉を自らの内に溶かし込むように──否、言葉のほうが、クラリッサを食み始めているようにさえ思えた。

 

 それはエドワードとアリシアの間で交わされた、秘めやかな合言葉。恋に不器用だったアリシアが、勇気を振り絞って差し出した、純白の心。

 そこに込められた重さを、クラリッサは知っていた。

 

 アリシアがそう綴ったのなら、“私”もそう思うことにする。

 それが、愛というものなら。それが、彼に差し出すべき正解なら。

 

 他人の心を服のように纏いながら、クラリッサはそっと微笑んだ。

 鏡の奥で、アリシアが笑った気がした。

 それが自分の顔なのか、それとも奪い取った幻なのか、もうわからなかった。

 

 

 

 

 アリシアの姿を追い続けていたクラリッサは、やがて冷たい真実の欠片に気が付いた。

 エドワードはアリシアが彼を愛するほどには、彼女を愛していない。そもそも、アリシアの本質を捉えてすらいなかった。彼は自分を愛してくれる存在という、漠然としたものがほしいだけだったのだ。

 

 だったら、与えればいい。エドワードが言ってほしい言葉を。してほしい仕草を。求める理想の女を。

 クラリッサは何年も研究を重ねた後に、とうとう動き出すことを決めた。

 

 

 

 

 クラリッサはある日、ひとつの通りに立っていた。花の香りと昼の翳りが交わる、石畳の小径。

 袖口まで品よく整えられた外出着と帽子。目立たず、それでいて見逃されない──偶然のための装い。

 

(あと、十五歩)

 

 この通りを彼が選ぶよう、いくつもの小さな仕掛けをほどこしたのは数日前。

 警備の巡回を買収し、さりげない噂を使用人たちの間に混ぜ、露店の配置にも手を加えた。

 あらゆる運命の糸を、今日、この刹那のために編み直した。

 

 風が花売りの幟を揺らす。足音が近づき、護衛の影が差す。

 

(──今だわ)

 

 クラリッサはわざとらしさのない絶妙な手つきで、花束の包みを落とした。乾いた音が石畳に響き、花弁がはらはらと風に散る。

 彼女は少し慌てた素振りで、拾い上げようと身をかがめた。

 

「……失礼。大丈夫ですか?」

 

 低く、澄んだ声が頭上から落ちてくる。

 クラリッサは一瞬だけ動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。帽子の縁から覗く瞳に、わずかな驚きと畏れを滲ませるのも忘れない。

 

「こ、これは……第一王子殿下。申し訳ありません……」

 

 声にわずかな揺れを忍ばせ、言葉の尾を曖昧に濁す。

 作り込まれた初対面が、細密な絵画のように現実へと溶け出してゆく。

 

「ご気分が優れませんか?」

「いえ……少し、手元が……」

 

 王子が拾い上げた花束を差し出す。

 クラリッサの手がその指にかすかに触れた──偶然に見せかけた、接触。香水よりも淡く、記憶の奥に残るための、ひとしずくの体温。

 

「ご親切に……ありがとうございます」

 

 はにかんだふうに微笑む。慎ましく、けれど拒まない。

 言葉の抑揚、視線の角度、所作すべてが好まれる女の形をしてみせた。

 

(この瞬間のために、どれほど準備したか──)

 

 出会いを、偶然に見せかけるのは簡単ではない。けれど彼は、それを一度も疑いもしなかった。

 王子は、小さく頷いた。

 

「いえ。それでは、良き一日を」

「はい──」

 

 すれ違い、距離が開いてゆく。

 クラリッサは、振り返らなかった。背筋を伸ばし、両手で花束を抱いたまま、静かに歩き出す。

 

(次は──三日後。図書室の二階)

 

 これは、ただの第一手にすぎない。彼の心という部屋の扉を、たったひとつの形で叩くためのまじないだ。

 

 

 

 

 次にクラリッサは貴族のみに開かれた静謐な図書館を訪れていた。

 黄昏の陽がカーテンを透かし、閲覧室の奥へとゆるやかに射し込んでいる。二階の螺旋階段の先──そこは人の気配が希薄で、時間までもが薄絹のようにたなびく場所。

 

 クラリッサは、窓際の席に腰掛けていた。机上には、綴じの緩んだ古い本が一冊。けれど、内容は一文字も頭に入ってこなかった。

 

(──そろそろ、来るはず)

 

 エドワードがこの図書室に足を運ぶのは週に一度。特定の侍従に閲覧用の写本を頼む癖も、居場所の傾向も、すべて調べはついている。

 彼がここを訪れるとしたら、今日のこの時間。

 

 音もなく、気配が揺れる。廊下に踏み込む足音が、紙の頁を一枚めくるように響いた。

 

 クラリッサは振り返らない。けれど、姿勢をほんの少し正す。

 髪の影で頬を隠し、視線を本へと伏せる。

 

「おや、君は……あのときの」

 

 その声は、思ったより早かった。

 想定よりも彼の記憶の中にクラリッサという影が残ってくれていたことを、彼女は心の奥でひそかに喜んだ。

 

 「……えっ? ……あ……」

 

 戸惑ったふうに振り返る。わずかに口元を開け、目を見開いてみせる。偶然が織りなした奇跡に、心底驚いた少女の無垢な面持ちだった。

 

「すまない、驚かせてしまったかな」

「とんでもございません……まさか、またお目にかかれるなんて」

 

 クラリッサは立ち上がり、控えめに礼を取る。

 その所作には破綻がない。優雅で、控えめで、気取らぬ貴族令嬢の理想形。それは幾度も鏡の前で練習し、魂に刻み込んだ、完璧な模倣だった。

 

「勉強熱心なんだね」

「……本を読んでいると、少しだけ……心が落ち着くので」

「その気持ちはわかるよ。僕も、あまり騒がしいところは苦手でね」

「……まあ。殿下も、そうお思いになるのですね」

 

 クラリッサはほのかに照れたふうに、花びらが開くように微笑んだ。

 会話の主導権はあくまで彼に渡し、クラリッサは受け身のふりを崩さない。流れに身を任せる、やわらかな姿を見せた。

 

「本は……どんなものを?」

「古い物語が好きです。昔の恋や、語り継がれた忠義の話など──叶わぬものほど、美しく感じられて」

 

 それは、彼が好む主題だった。過去の侍従が語っていた。叶わぬ愛、失われた忠義、運命の悲劇──彼が心を震わせる物語たち。

 

「叶わぬもの、か」

「はい。報われなかった想いとか、信じたものが……届かなかったり」

 

 王子は、わずかにまなざしを曇らせる。

 クラリッサはそれを見逃さず、そっと本を閉じる。

 

「……すみません。変なお話を」

「いや、構わないよ。そういう話も、嫌いじゃない」

 

 その一言を聞いた瞬間。

 彼女は、目を伏せながら、声を震わせるようにして囁く。

 

「でもきっと、殿下の願いは……叶いますわ。信じていれば、きっと」

 

 まるで祈りのように、信じる少女の声で。光を灯す言霊のように、やわらかく、確かに。

 エドワードは、少しだけ微笑んだ。

 

「君の名を聞いても?」

「そんな……畏れ多いです。でも、もし……また偶然があれば、そのときに」

 

 そして、ひと呼吸おいて。

 まるで秘密を抱きしめるように、伏し目がちに伝えた。

 

「それまで、このささやかな奇跡を……心にしまっておきたいのです」

 

 窓の外、陽が傾き、風がページを揺らす。

 クラリッサの視線の先には、もう次の舞台が見えていた。

 

(偶然は、私が何度でもつくる)

 

 

 

 

 少し日をあけた後の、小さな書店の角。王都の外れ、人通りもまばらな静かな通り。

 クラリッサは、店先の棚に並んだ本の背表紙を眺めながら、内心では秒単位でそのときを待っていた。

 

 彼がこの通りを通る時間は、無論事前に調べてある。

 呼吸を整え、襟元を直す。

 

 そして、靴音が近づいた。

 

「……あれ」

 

 その声に応えるように、クラリッサはゆっくりと振り返る。その顔には一点の作為も見せない、無垢な表情が浮かんでいた。

 

「あ、あなたは……」

 

 驚いたように声を上げる。

 エドワードは、ほんのわずかに目を見開いていた。

 

「よく、会うね。ここで……三度目か」

 

 クラリッサは、わずかに頬を染める仕草を添える。

 

「本当に偶然って……あるんですね。なんだか少し、こわいくらい」

 

 その言葉に、彼は笑った。防御の鎧がわずかに緩む気配。それは、閉ざされた扉が小さく軋む音に等しかった。

 

「もしかすると、そういうのを運命って呼ぶんじゃないか?」

 

 ──よし。

 クラリッサは、静かに目を伏せた。

 

「そ、そんなこと……でも……」

 

 言葉を濁して、視線を落とす。飾り気のない、自然体の少女として。

 

「……私、少し嬉しいです。この巡り合わせに、心が震えるようです」

 

 この人は、こういう素直さに弱い。そのことを、クラリッサは見抜いていた。

 

 彼が“彼女”に求めていたもの──強さでも、誇りでもなく、ただ、好いてくれるだけのやさしさ。

 そして、それを演じられるのは、今この瞬間の自分だけ。

 

 エドワードは、しばし黙って彼女を見つめていた。そのまなざしに混じる色は、信頼でも疑念でもなく、ただの興味とほんの少しの心地よさ。

 やがて小さく笑い、言葉を選ぶように口を開いた。

 

「君、前に言っていただろう。また偶然があれば、と。今度こそ、君の名を聞かせてくれるかい?」

「まさか、覚えていてくださるなんて……」

「忘れられなかったんだ。……なぜだろうね。君のことが、気になって仕方がなかったんだよ」

 

 クラリッサは顔を上げた。瞳の奥を、じっと熱を込めて見つめる。

 その目は、暗闇の中で獲物を見据える獣のようでもあった。

 

「私は……クラリッサです。クラリッサ・メイベルと申します」

「ありがとう。僕はエドワード・フォン・グラティア──なんて、もう知っているだろうけれどね」

 

 エドワードのまなざしが、そこから逸れない。彼の瞳には、淡い光が宿っていた。

 

「君は……どこか懐かしい雰囲気がある。誰かに似ているようで、でも違う。──不思議だ。君の声を聞くと、胸の奥があたたかくなる」

 

 ──アリシアの影。

 その温もりが手触りを変えて、今、目の前にある。それは偽造された甘い毒だ。

 

「ねえ、クラリッサ嬢。こんな偶然が重なるのなら……また、どこかで会えないかな。偶然じゃなく、今度は……僕から会いに行っても?」

 

 ──来た。

 クラリッサはわずかに息を呑み、けれど目元だけはやわらかく崩して微笑んでみせる。

 

「……それがもし、あなた様の本当のお気持ちなら」

「うん。僕の気持ちだ」

「でしたら……私も、楽しみにしております」

 

 小さく首を傾げ、控えめに──でも確かに、甘さを含ませて。

 彼は、満足げに頷いた。その目には、すでにクラリッサという名の幻が深く残っていた。

 

 クラリッサの心は、ぞくりと震えた。

 

 

 王子が手の中へと落ちてきた。この人は、私に惹かれている。たとえその実体が、アリシアの影にすぎなくても。

 

 私はもう、偶然の女じゃない。選ばれた女になれる。

 幸福をなぞる、この影のままに。

 

 

 

 

 その後も、エドワードとの逢瀬は織りなされる夢のように重ねられていった。

 彼に寄り添って気のあるふりをすれば、すべては転がっていくように簡単だった。クラリッサはアリシアを模倣したうえで、アリシアにはなかった素直さやいじらしさを兼ね備え、都合のいい女を演じた。

 そうすれば、エドワードはその偽りの輝きに、いとも容易く心を移した。

 

「今日も君は美しいね、クラリッサ」

 

 エドワードは、そう言ってクラリッサの手に口づける。

 まるでそれが毎朝の日課であるかのように、淀みなく。

 

 クラリッサは微笑む。あの日のアリシアと、同じ形で。

 けれどそれよりももっと深く、甘く。そして、彼によく見えるように。

 

「……エドワード様の目には、私のような者も美しく映るのですね」

「君は自分を過小評価しすぎだよ」

 

 焦がれたように見つめてみせると、彼はますます嬉しそうな顔をする。

 

(ほんとうに、単純だわ)

 

 この人は、自分を愛してくれる女が好きなだけなのに。

 

「最近は、お疲れではありませんか?」

 

 囁く声に、そっとやわらかな関心を滲ませる。

 エドワードは、少しだけ目を細めて笑った。

 

「……気遣ってくれるのかい? 君ほどやさしい心を持つ者は、他にはいないよ」

「はい。だって、エドワード様が倒れられたら、私──」

 

 一度、言葉を切る。胸の奥から呼吸を整えるように、わずかに目を伏せる。

 ためらうという演出が、彼の心に触れる。

 

「私、困ってしまいます」

 

 笑ってみせる。やさしく、少し寂しげに。

 アリシアの日記に書かれていた、彼に伝えられることのなかった言葉の通りに。

 

 すると彼は、息を呑んだような気配のあと、そっとクラリッサの頬に手を添えた。

 その手つきが、本物の愛情のように見えて──笑い出しそうになるのを、必死に飲み込む。

 舞台の上の女優のように、完璧な表情を保つ。

 

 クラリッサの胸は、有頂天の熱に満たされていた。

 

 アリシアの好きだった人が、今は私を愛している。

 その事実が、身体の奥でじんじんと疼く。甘く、熱く、確かに悦びを刻んでゆく。

 

 彼女の言葉を、笑顔を、やさしさを。クラリッサはすべて借りて、すべて奪った。

 それでもこの男は気付かない。影を本物の光と信じ込んで、瞳を細めている。

 

(これは、もう私のものよ)

 

 クラリッサは、そっと彼の手に自分の頬を預けた。それが、愛の証明であるかのように。

 

 

 世論も操作した。アリシア・レイモンドという名の美徳を、ただの偽善へと塗り替えるために。

 高慢だとか、冷たいとか、無愛想だとか。根も葉もない噂に、ほんのひと匙の真実を混ぜて。彼女が誰かへ告げた無実の一言を切り取り、歪め、捻じ曲げて流布した。

 

 茶会の招待状を、ほんの少しだけ遅らせる。日程を書き換え、彼女ひとりだけを取り残す。その場にいなかったことが、欠礼として語られるように。

 新調したドレスの色を真似て着飾り、先に披露して、彼女が真似をしたと吹聴する。

 手紙を偽造して、礼節を欠いた言葉を勝手に綴り、届けさせる。令嬢たちの間に、見えないひびを走らせる。

 

 クラリッサは丁寧にそれを積み重ねた。誰にも悟られぬように、だが確実に汚れていくように。

 

 アリシアは高潔すぎた。凛として、毅然として、どこまでもまっすぐだった。

 

 彼女は信じていた。

 真実は残ると。悪意は過ぎ去ると。堂々としていれば、それでよいと。

 それこそが、彼女の失点だった。

 

 堂々としている者ほど、人はそれを傲慢と見なすことがある。誤解は沈黙の中で膨らみ、清廉であることは、やがて孤立を生む。

 だからこそクラリッサの囁きは、よく染み渡ってしまった。

 

 あまり事を大きくしすぎてはいけない。早くに露見すれば、善意に駆けた誰かが手を差し伸べてしまうから。

 だからじっくりと、水底で蛇を飼い慣らした。穏やかな毒を育て、日々少しずつ注ぎ込んでいく。

 

 事実なんて、見たいようにしか見えない。

 

 ──ならば、今ここにいるアリシアは、私だ。

 

 この椅子に座るのは私。世界でいちばん幸せになるのも、私。

 だから──どいてもらうだけ。

 

 クラリッサはいよいよ、アリシアのすべてを奪い取るつもりだった。

 

 

 そのためにも、決して本命の手を抜くことはない。

 人目のない逢瀬のたびに、彼女は一層繊細な演技を磨いていった。

 ひと匙の不安と、ひとすくいの哀しみ──それが、男心を煽る最良の調味料となる。

 

「そういえば……最近、アリシア様とすれ違うたび、少しだけ視線が……いえ、きっと気のせいでしょうけれど」

 

 わざとらしくない程度に戸惑いを含んだ声色で。話半ばで口を濁すことで、想像の余地を彼に委ねる。

 

「何か、言われたのかい?」

 

 エドワードが警戒心に染まっていくのが見えた。

 

「そんな、滅相もないです。でも、アリシア様に、嫌われてしまったらと思うと……私、どうしたらいいのか、わからなくて……」

 

 かすかに震えた声。伏せた瞳。

 少女が怯えているふりをして、男の庇護欲に火をつける瞬間。

 

 その効果は絶大だった。

 エドワードは露骨に眉根を寄せ、その瞳に焦りの色を滲ませる。

 

「……心配するな。君に何かあったら、僕が守るよ。何があっても、君のそばを離れない」

 

 その声には、確かに誓いの響きがあった。けれどその誓いは、光の源を見誤った者だけが結ぶ、誤認の契り。

 

 王子の寵愛は、今や完全にクラリッサのものとなった。仮にその愛が本物であったとしても、それが注がれている器は偽造品。

 模倣者が、本物のふりをして受け取った温もりだった。

 

 アリシアの存在は──邪魔な女という位置に、おさめられていく。

 

 

 

 

 そしてついに、エドワードはクラリッサを選び、アリシアとの婚約を解消した。

 エドワードはクラリッサを正式なパートナーとして伴って、舞踏会に訪れた。大広間は絢爛な花々と金糸の装飾に包まれ、音楽と光が宵を彩っていた。

 

 若き王太子エドワード。そしてその腕に、そっと寄り添うように並んだ少女──クラリッサ・メイベル。

 その姿は、人々の視線を集める。一夜にして、社交界を熱く染め上げた。

 

「……やっぱり、本当だったのね」

「運命の出会い、って──あれ、本当の話だったの?」

 

 噂は、すでに広く知れ渡っていた。

 

 曰く、王子とクラリッサは偶然に何度も出会い、運命の恋に落ちた。そして、王子はかつての婚約者に誠実に別れを告げ、今はこの少女を選んだのだと──。

 そのかつての婚約者の名は、アリシア・レイモンド。けれど今夜、彼女の姿はここにない。王都を去ったという風の噂だけが、淡く残っていた。

 

「ねえ、エドワード様」

 

 クラリッサは、音楽に合わせて寄り添いながら囁く。

 声には甘さと緊張を滲ませて、けれど愛らしく。

 

「……私、夢を見ているみたい。こんなふうに、あなたの隣にいられるなんて」

「夢なんかじゃないよ、クラリッサ」

 

 王子は笑い、彼女の手をそっと取って、もう一歩近くへ引き寄せた。

 その瞳はまっすぐに彼女だけを映している。

 

「君と出会ったあの瞬間から、ずっと考えてた。これは偶然なんかじゃない。運命の糸が僕たちを結びつけたのだと──そう思ったよ」

 

 クラリッサは小さく震えるように笑った。

 戸惑うふりをして、けれど瞳はしっかりと、王子の視線を逃さずに受け止める。

 

(運命……そう、あなたがそう思ってくれたのなら、それが真実になる。あなたの心に、永遠に刻まれる真実となるわ)

 

 もう、誰も問わない。この手を取られるべきは誰だったのか、なんて。

 

 アリシアの名は、噂の中で朽ちてゆく。まるで最初から存在しなかったように。

 今夜ここにあるのは、ただ美しく飾られた恋の成就だけ。

 

 クラリッサは唇の端をかすかに上げた。その微笑は、完璧に計算されていた。

 

 彼女は歓喜に打ち震えていた。それは、魂の底から湧き上がる陶酔だった。

 あらゆる言葉を選び、視線の角度を整え、彼の理想の中に入り込んでいったその先に──彼女は、アリシアを超えた。否、アリシアになれた。

 

(これで……これで私は、世界でいちばん幸福な女……!)

 

 ひとつの影が、光の中で幸福の名を着て、微笑んでいた。

 

 

 

 

 だがそのうちに、空気は変わっていった。クラリッサがアリシアを陥れたのだと、噂という名の真実が流れ始めた。

 名もなき文書が、クラリッサの罪を告発したらしい。

 

 ──クラリッサ様が、アリシア様宛の茶会の招待状をすり替えた。

 ──クラリッサ様が、アリシア様が選んだドレスとまったく同じ型を、舞踏会の数日前に注文していた。

 ──クラリッサ様が、アリシア様の使う便箋と同じ商品を買い求めていた。

 

 それは、ひとつひとつが小さな擦れ違いにすぎなかった。けれど、それらが並び立つとき──疑惑はやがて、確信へと変わる。

 周囲の視線は冷たく、訝しげで、評価の定まらないものになっていった。

 

 それでも、クラリッサは笑顔を崩さなかった。

 

 もはや冷たい視線も、陰口も、すべては嫉妬という名前の妨害にすぎない。

 この王子の隣は、自分が選ばれた場所なのだ。

 そう、選ばれたのは──“クラリッサ・メイベル”。

 

 この椅子に座っている限り、私は勝者なのだ。

 アリシアではなく、私こそが選ばれたのだと、世界に言い聞かせなければならない。

 

 どれだけ周囲が揺らいでも、完璧に“彼女”を演じきっていれば、すべてはうまくいく──はずだった。

 

 

 その夜のことだった。

 クラリッサは事態を収束させようと、哀れぶってエドワードに縋りついていた。

 

「そんなの、全部……嘘よ。妬みからの嘘だわっ、私を、引きずり下ろそうとして……っ!」

 

 彼女の声は、張り詰めた糸のように震えていた。

 いつもだったらすぐに寄り添ってくれるはずなのに、エドワードの瞳はなぜか遠くを見つめているようだった。

 

「……大丈夫さ。わかっているとも」

 

 彼の言葉は慰めの響きを持っていたが、泣いて縋っても、あまり手応えを感じない。

 

 彼の瞳の奥に、かつての誰かの残像が浮かんでいる気がした。これではいけない。彼の心が離れているのかもしれない。

 しかしこのままでは、引き戻せない。彼を取り戻すには、もっと強い何かが必要だと思った。

 

「エドワード様ぁ……」

 

 だから、クラリッサは口にすることにした。

 アリシアが日記に綴った──ただ一度きりの、エドワードに告げていた本当の、心からの告白の言葉を。

 

「私……私、エドワード様と一緒なら、乗り越えられます。どんなに辛いことだって。そう、たとえば──」

 

 本当は、自分の言葉として使うつもりなどなかった。それは秘められた宝のように、大切に隠しておくはずだったのに。

 だが、背に腹はかえられない。

 

「──世界が滅んでも、あなたと一緒なら……それで、いいの」

 

 言った瞬間、世界が軋んだ。

 エドワードの顔が、わずかにこわばった。

 目が、揺れた。呼吸が、止まった。

 

 エドワードのまなざしが鋭い氷の刃のように、彼女を突き刺す。

 それは、驚きでも喜びでもない。

 疑念。そして、確信。

 

「──それは、アリシアの言葉だ」

 

 その名を聞いた途端、クラリッサの中で何かが音を立てて砕けた。

 完璧に組み上げられたはずの人形の関節が、軋みながら外れていくようだった。

 

「昔、アリシアと北部へ視察に行ったことがあった。突然の吹雪に閉じ込められて、二人で暖炉の前で眠った夜があった。そのとき、アリシアは……そう言ったんだ」

 

 思考が、焼け焦げる音を立てる。クラリッサ自身の魂が、ゆっくりと燃え尽きていく匂いのようだった。

 

(──間違えた。間違えた。間違えた……!)

 

 引きつるような笑顔で、否定しようとする。唇が震えて、意味のない音を紡ぎ出す。けれど口先だけの言葉は、もう彼には届かないだろう。

 彼の瞳は、すでに遅すぎる真実の縁を捉えていた。

 

「……君は、アリシアの真似をしていたのか?」

「ち、違うの。たまたま、口にしただけで──」

「そんなことをしたって、君は彼女にはなれない……! アリシアは、決して言い訳せず、誰かを陥れることもなかった……!」

 

 崩れる。

 

「エドワード様、聞いて……私は……!」

 

 否定される。

 

「君は、違う!」

 

 奪い取ったはずの居場所から、足元が崩れ落ちていく──この男のせいで。

 

 目の前の、この男が、許せない。

 それは鏡に映る自分自身の姿に、爪を立てるような憤怒だった。

 

「私の、何がいけないのよ!? あの女なんかより、私はずっとあなたを想ってきたのよ!」

 

 それはもう、激情と混濁と、役に憑かれた哀れな女の絶叫だった。

 そこにあるのは計算された演技ではない。自分のことをアリシアだと思い込んだ女が、そこにいた。

 

 だから、エドワードが“別の女”を思っていたなど、許せなかった。

 だって──アリシアはエドワードが好きで、私はアリシアだから、エドワードを愛していて、エドワードは、私を選ばなければならない。

 

 そんな矛盾と狂気が彼女を駆け巡っていた。

 

 今さら姿を取り戻すことなどできない。

 幸福の影をなぞることに命をかけ、影であることに気づかれてしまった哀れな少女──その姿だけが、そこにあった。

 

 

 

 

 それからほどなくして、クラリッサの手には錠がかけられることとなった。

 

 罪状は枚挙にいとまがなかった。王家への背信、私文書の偽造、貴族令嬢への名誉毀損────そのいずれもが、表向きの罪にすぎない。

 本当に咎められるべきは、もっと深く、もっと暗い場所に巣くっていた。それは彼女が欺瞞と詐術の末に、アリシアになろうとしたこと。その業は、法でも測れぬほどに、醜く、根深かった。

 

 

 そして彼女は、外れにある旧時代の地下牢へと放り込まれた。

 そこは光も音も届かない、石と鉄と黴の匂いに満ちた、忘れられた地底。何者も迎えに来ない。何者も名を呼ばない。夢も希望も、誰かの視線すらない空間で、彼女はただ、誰にも届かぬ声を絞り出した。

 

「……なんで……なんで、私が、こんな目に遭わなきゃいけないのよ……!」

 

 喉が枯れ、唇は乾いて割れ、涙も涸れた。

 アリシアが表舞台から去ったとき、彼女は笑った。心の底から、嗤った。あの女は逃げた。負けを認めたのだ。自分にすべてを譲って、捨て台詞すら残さずに消えた──そう思っていた。

 

 美しいものは、すべて自分のものになった。王子の隣、舞踏会の光、絢爛な衣装、選ばれた者のまなざし。

 それらが自分に向かって微笑んで、だからこれからようやく幸せになれるはずだった。

 

 ──それなのに、どうして。

 

「どうして……私が牢に入ってるのよッ……!」

 

 叩きつけた拳は、何の手応えも返さない。砕けたのは石ではなく、彼女自身の方だ。彼女は、自分の手のひらを睨んだ。震える指先は、何かを掴みたがっていた。

 だがそこにあったのは、泥と埃と、すべてを失った女の惨めな残滓だけだった。

 

 その手では、もう幸福の端すらすくえない。

 砂時計の砂は、とうに落ちきっていた。残されているのは、ただ虚ろな硝子の空洞だけだった。

 

 

 何日も何日も、クラリッサはそうして牢にいた。

 地下の牢には昼も夜もない。空腹も痛みも怒りさえも薄皮のように剥がれ落ちて、代わりに残ったのは凍てついた静寂だった。

 クラリッサの心は確実に死んでいった。

 

 けれど、それでも。

 

「……アリシアの……せいよ……全部……あの女が……っ」

 

 擦れた声で呪詛を吐く。

 

 名を呼ぶことで、自分の中の影が再生されるように。

 狂った祝祭の残り火に、なおも縋るように。

 

 

 ある日、いつものように湿った石の床に伏していたとき──鉄扉の隙間から、看守たちの話し声がふと耳に届いた。

 

 ──王子が、牢の中で誰もいない場所に語りかけているらしい。

 ──もう亡くなったはずのアリシア様がそばにいるのだと、笑顔で囁いていたという。

 ──王子は壊れてしまったのではないか、と。

 

 その名を人の口から聞いた瞬間、停止していたクラリッサの思考が再び回り出す。錆び付いた歯車が無理やり動き出すようだった。

 

 アリシア。

 アリシアが亡くなった? そんなはずがない。

 だって、アリシアは私だ。アリシアはここにいる。そのはずだ。

 そうでしょう? 私は、あの人に愛された。あの人の隣にいた。王子の寵愛を受けたのは、アリシア。

 アリシアだった“私”。

 

 そうだ。

 アリシアにならないと、幸せになれない。

 アリシアにならないと、あの光はこの手に届かない。

 

 ならば、もう一度。

 あの人に──もう一度、“私”をアリシアにしてもらわなければならない。そうすれば、すべては元通りになるはずだ。幸福も、愛も、全部、もとの位置に戻るのだ。

 

 

 ──クラリッサは、牢を抜け出した。

 何をどうしたのか、自分でも覚えていない。気がつけば、夜の王宮をひたすら走っていた。

 血に濡れた裾、破れた靴、狂気じみた笑み。それでも、彼女の目はまっすぐに、光の方角だけを見据えていた。

 

(待ってて、エドワード様……私、アリシアよ……私こそが……あなたの“アリシア”……)

 

 ──幸福はそこにある。

 ただ、もう一度なぞり直せばいい。そうすれば、影は本物になれるのだから。

 

 

 

 ガンッ!

 

 その音は、祈りの鐘ではなかった。女の激情が、鉄格子へとぶつかる音だった。

 

 彼が囚われているその牢へ、クラリッサは、すべてを叩きつけるようにして飛びついた。

 爪が割れ、皮膚が裂ける。血の滲む指先で、彼に届こうとする。

 

「エドワード! エドワード様っ!」

 

 しかし彼は振り向かない。それならばもっと、彼女らしく取り繕う。

 

「エドワード様、一緒にここを出ましょう? あなただったら、こんな牢獄も……」

 

 声を、震わせてみせる。睫を伏せて、少女のような祈りを込めて。

 

 それでも彼は、こちらを見なかった。

 彼の視線は、誰もいない空間に注がれていた。

 

「……ああ、アリシア。ケーキが足りないね。待っていて、今すぐ追加を……」

 

 虚ろな声だった。

 

 そこに、アリシアがいるというのか。

 どうして? この私が、アリシアなのに。

 

「……は? ねぇ、冗談よね……?」

 

 私はここにいるのに。あなたの“アリシア”が、ここに──!

 

「クラリッサ? ……誰のことだい?」

 

 あなたが私を見てくれないと、私はアリシアになれないじゃない。

 

「僕には君しかいないよ、アリシア。最初から、ずっと」

 

 私の価値が、生まれないじゃない。

 

「嘘なんかじゃないさ。僕は、君を裏切ったりなんて……」

 

 私の名前は、アリシア。アリシア・レイモンド。

 私はあの女を演じきった。世界でいちばん幸福な女を、この手で形にしたのに。

 

「アリシア? あの女のどこがいいのよ!? あなたの望みも知らずに、ただ静かにしていただけの女! 死んだ女より、今、生きてるこの私のほうが……!」

 

 私のほうが、ずっと、ずっと──アリシアでしょう……?

 

 それなのに、彼は見ない。こちらを、見ない。

 彼の瞳は、虚空の幻想を追っている。

 

「聞いてるの!? 私を見なさいよッ……! あなたに愛されるために、私、変わったのに……!」

 

 声も、歩き方も、手紙の筆致も、涙の落とし方すら、鏡の中で完璧に再現した。

 あなたに愛されるために、私は世界そのものを偽ったのに──。

 

「死んだ女にうつつを抜かして、現実から逃げて……! そんな男を、誰が本当に愛したとでも? 笑わせないでよ……!」

 

 あの女にしてくれないなら、あなたなんかに価値はない。

 私の存在を、私の努力を、すべて無に帰すのなら。

 

「待って……私を捨てないで……エドワード様ぁ……!」

 

 あなたが、私をアリシアにしたんでしょう。そうだと認めたのでしょう。

 

「あんたなんて……ッ、狂ってしまえばいいんだわ! ずっとそこで、一人で妄想の愛を語ってればいいのよ!」

 

 私を愛してると言った。抱きしめた。都合のいい女として、私を選んだ。

 

 ──それなのに。今さら、裏切るなんて。

 

 全部私のせいにして。全部忘れて。

 自分に都合よく思い込んだあなたのせいでもあるのに。

 

 幻想の世界へと逃げ、罪を罪とも認識しない。

 

 卑怯者。最低な男。許せない。

 アリシアが、こんな奴を本気で愛していたなんて──信じられなかった。

 

 

 

 

 再び、牢へと連れ戻された。もう逃げ出せぬよう、もっと堅牢な場所だった。

 今度の牢は、以前よりもずっと深く、ずっと古く、ずっと冷たかった。石の壁は苔むしていて、鉄格子には錆がこびりついている。息を吸えば埃の味がし、目を開ければ暗闇だけがあった。

 

 クラリッサは、もはや声をあげて喚くことさえしなかった。

 そのかわりに、沈黙の中で──壊れていった。

 

 世界を滅ぼしたのは紛れもなく、あの女だった。幸福を、愛を、すべてを置き去りにした。

 あの透きとおるような髪、人の心をほどくまなざし。舞い降りた女神のような、憎らしいまでの気高さ。そんな彼女のすべてを奪い取り、彼女になりきろうとした、叶わぬ渇望の苦しみ。光そのものへの病的なまでの焦がれ。

 エドワード──あの男が否定したから、クラリッサはアリシアではなくなってしまった。運命と囁き、この手に幸福を掴ませたかと思えば、手のひらを返して泥の中へ突き落とした。

 

 アリシアへの妄執。エドワードへの憎悪。それらがまるで溶けた毒のように、思考の隅々まで染み渡っていた。

 

「なんでよぉ……! 私のほうがっ、うまくできてたのに……!」

 

 低く、引き裂くような声が、薄暗い牢の中に染みる。

 誰も見ていない場所でなお、彼女は誰かに証明しようとしていた。

 

 クラリッサは冷たい石の床を何度も掻きむしる。

 出たいのではない。ただこの闇の中で、ここに自分が在るという証を残そうともがいていた。

 爪が剥がれ、指先が裂け、じわじわと滲む血が、黒い染みを広げてもやめなかった。

 崩れかけた魂を自らの手で削り、塗り潰し、刻みつける──その執念だけが、まだなお形を保っていた。

 

 

 どれほどそうしていたかわからない。

 しかし、あるとき。

 ──指が、何か硬いものにこつりと当たった。

 

 目を凝らす。闇に沈んだ牢の片隅に、ぽつんとあるそれは──鏡だった。

 汚れきった古びた鏡。今や誰からも忘れられた、埃と沈黙の中の遺物。

 

 クラリッサは、その鏡ににじり寄るようにして這い、のぞき込んだ。

 

 鏡は、何も映さなかった。

 空虚。果てしない虚無。自分の顔すら、そこにはない。

 

「映して……早く映してよ……!」

 

 息を荒げ、鏡を揺さぶる。焦燥と、恐怖と、狂気と──もうひとつ、渇望。

 そこに、アリシアがいるはずだった。あの完璧な微笑み。最期には誰も恨まず消えていったあの女──アリシア・レイモンド。

 

 じわりと、自分の顔が浮かび上がる。

 やつれ、汚れ、血走った瞳の見るに堪えない表情をした女が、そこにいた。

 

「違う……こんなの違う……私は……アリシアなのに……!」

 

 泣き喚くように叫んだその瞬間──鏡の中の“彼女”が変わった。

 

 おだやかな微笑。澄んだ瞳。透きとおる髪。そして、祝福のような存在感。

 ──アリシアが、そこにいた。

 

「……ああ……ああ……見て……ほら……やっぱり……私は、アリシア……!」

 

 心が跳ねた。胸が熱を取り戻すように満たされていく。

 鏡の中のアリシアは、微笑んでいた。クラリッサを、その虚ろな存在を、受け入れるように。その微笑は、責めることも拒むこともなく、ただやさしかった。

 

「私は……“アリシア・レイモンドは幸せになる”のよ……そう……なるの……」

 

 彼女は呟いた。自分に言い聞かせるように、何度も、何度でも。

 それは呪いでもありながら、祈りでもあった。

 

 願うほどに、現実から乖離していくその言葉。

 “誰にも奪われない幸福”。ただ、それだけを望んだ。

 

 

 やがて鏡が──奇妙なことに、綺麗にふたつに割れた。

 

 ぱきん、とも、がしゃん、ともつかぬ音。

 ただ、世界の軋むようなかすかな響きだけがあった。

 

 そこには、ふたつのアリシアが映っていた。

 ひとつは濁った目で何かを訴えながら闇の中に沈み、もうひとつは光に包まれて微笑んでいた。

 

 現実と幻想の境目が決定的にひび割れて、世界が分岐したかのようだった。

 

「私は、アリシアだもの。世界でいちばん、幸福な女……」

 

 そう呟いたクラリッサの顔に、不気味なほど満ち足りた笑みが浮かんだ。

 その瞳の奥にはもはや理性のかけらも残っておらず、狂気がすっぽりと彼女を呑み込んでしまっていた。

 

 

 その後も彼女は置き去りにされたかのように──救われることなく、這いつくばり続けた。

 割れた鏡のかけらに映る顔が、もはや誰のものかも判別できない。何者にもなれぬまま、ただ鏡の中の幸福だけを夢見ていた。

 

「ふふ。ここから出たら、とびきり素敵なドレスを仕立ててもらわなくちゃ」

 

 彼女の中ではまだ確かに愛された記憶が燃えていた。

 

「ああ……私、わたし? ……、私の、……好きな色、は……」

 

 言いかけて、止まる。

 その女は、アリシアではない。けれども、もうクラリッサでもなかった。

 

「……なんだっけ?」

 

 その声は、誰にも届かない。


 音もなく閉じられた牢の奥。暗く、深く、静かな場所。

 偽りの幸福をなぞった空虚な影が、そこにあるだけだった。

 

 

 

 

【偽りの永遠に、幸福を】の悪役であるクラリッサ視点の番外編でした。

アリシア幸せif√を来週を目処に連載開始の予定です。

 

 

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