表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

雨音の中で、名を呼ばれる

作者: こさめ

初投稿です。よろしくお願いいたします。(R15は保険です)

 離宮の一室。


 夕暮れには止むと聞いていた雨は、夜になってもなお止む気配を見せなかった。

 クリスは、窓辺に立って外を見つめていた。ぽた、ぽた、と瓦を打つ雨音が、どこか遠い記憶を刺激する。だが思い出は曖昧で、ただ胸がきしむだけだった。


 「……クリス?」


 小さな声に振り向くと、シルビアが薄手の上着を羽織って立っていた。就寝前の支度を終えたはずの時間――なのに、部屋を抜けて来たのだろう。裸足のままだ。


「外の音が気になって……眠れなくて」


 彼女ははにかんだように笑い、窓辺へと歩み寄る。白い足首に、雨音が絡みつくようだった。


「お部屋にお戻りください。床が冷たい」


 そう言いながら、クリスは自分の上着をそっと差し出した。

 シルビアは断らずに受け取った。ふわりと香る花のような香りに、クリスは瞬間、目を伏せた。


 「クリスは……雨、怖くないの?」 


 「はい」


 「私は、ちょっとだけ、怖いの。……昔、雷がすごくて、乳母とはぐれちゃって」


 その声はかすかに震えていたが、表情は静かだった。

 (怖い、と言いながら、泣きつかない。それがこの方だ)

 クリスは、そっと息を吐いた。


「怖い時は、誰かの名前を呼ぶといいと聞いたことがあります」


「……そうなの?」


「ええ。……呼んでみますか?」


 シルビアは驚いたようにクリスを見上げた。そして、ほんの少し、ためらった後――

 「……クリス」


 その声は、静かな夜気の中で、ふっと灯りのように響いた。

 胸の奥が、熱くなった。


 シルビアはクリスを、上目づかいに見上げた。そのまなざしはどこか甘えているようで――それでいて、どこまでも無垢だった。


 「……まだ、ちょっとこわい……」


 ささやくような声に、クリスの指先がかすかに震える。

 それが甘えなのか、ただの無意識なのか、彼には分からなかった。


 「でしたら……少し、ここにいましょうか」


 いつも通りの柔らかい声色で、彼は応える。

 シルビアは、こくりと頷いた。

 小さな肩が、借りた上着の中でかすかに揺れる。


 沈黙。

 雨音だけが、静かに世界を包む。


 「クリスは……誰の名前を呼ぶの?」

 

 唐突に、シルビアが口を開いた。

 クリスは言葉に詰まる。

 誰の名も、呼んだことはなかった。呼ぶ相手も、呼ばれる経験も、彼の人生にはなかった。


 「……呼んだことは、ありません」


 「そっか……」


 シルビアは、それ以上何も言わなかった。

 ただ隣に立って、同じ雨音を聞いていた。

 けれどその静けさが、クリスにとってはとても心地よかった。

 名を呼ばれることの意味が、今、ほんの少しだけ、わかった気がした。


 そして、きっと彼は今夜――初めて誰かの名前を、自分の心の中で、呼んだ。


 (……シルビア)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ