雨音の中で、名を呼ばれる
初投稿です。よろしくお願いいたします。(R15は保険です)
離宮の一室。
夕暮れには止むと聞いていた雨は、夜になってもなお止む気配を見せなかった。
クリスは、窓辺に立って外を見つめていた。ぽた、ぽた、と瓦を打つ雨音が、どこか遠い記憶を刺激する。だが思い出は曖昧で、ただ胸がきしむだけだった。
「……クリス?」
小さな声に振り向くと、シルビアが薄手の上着を羽織って立っていた。就寝前の支度を終えたはずの時間――なのに、部屋を抜けて来たのだろう。裸足のままだ。
「外の音が気になって……眠れなくて」
彼女ははにかんだように笑い、窓辺へと歩み寄る。白い足首に、雨音が絡みつくようだった。
「お部屋にお戻りください。床が冷たい」
そう言いながら、クリスは自分の上着をそっと差し出した。
シルビアは断らずに受け取った。ふわりと香る花のような香りに、クリスは瞬間、目を伏せた。
「クリスは……雨、怖くないの?」
「はい」
「私は、ちょっとだけ、怖いの。……昔、雷がすごくて、乳母とはぐれちゃって」
その声はかすかに震えていたが、表情は静かだった。
(怖い、と言いながら、泣きつかない。それがこの方だ)
クリスは、そっと息を吐いた。
「怖い時は、誰かの名前を呼ぶといいと聞いたことがあります」
「……そうなの?」
「ええ。……呼んでみますか?」
シルビアは驚いたようにクリスを見上げた。そして、ほんの少し、ためらった後――
「……クリス」
その声は、静かな夜気の中で、ふっと灯りのように響いた。
胸の奥が、熱くなった。
シルビアはクリスを、上目づかいに見上げた。そのまなざしはどこか甘えているようで――それでいて、どこまでも無垢だった。
「……まだ、ちょっとこわい……」
ささやくような声に、クリスの指先がかすかに震える。
それが甘えなのか、ただの無意識なのか、彼には分からなかった。
「でしたら……少し、ここにいましょうか」
いつも通りの柔らかい声色で、彼は応える。
シルビアは、こくりと頷いた。
小さな肩が、借りた上着の中でかすかに揺れる。
沈黙。
雨音だけが、静かに世界を包む。
「クリスは……誰の名前を呼ぶの?」
唐突に、シルビアが口を開いた。
クリスは言葉に詰まる。
誰の名も、呼んだことはなかった。呼ぶ相手も、呼ばれる経験も、彼の人生にはなかった。
「……呼んだことは、ありません」
「そっか……」
シルビアは、それ以上何も言わなかった。
ただ隣に立って、同じ雨音を聞いていた。
けれどその静けさが、クリスにとってはとても心地よかった。
名を呼ばれることの意味が、今、ほんの少しだけ、わかった気がした。
そして、きっと彼は今夜――初めて誰かの名前を、自分の心の中で、呼んだ。
(……シルビア)