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ベルナルドが何か言おうとした瞬間、馬車が急に止まって、馭者が誰かと話しているような声が微かに聞こえた。
「おい、どうしたのだ?」
苛立つ気持ちを抑えて馭者に聞くと、馬車の扉が開かれた。
ベルナルドはアンジェラを自分の後ろにやって、庇うような仕草を見せた。
「失礼、こちらの馬車に令嬢が連れて行かれたという情報があったので、馬車内をあらためさせてください」
そう言って入って来たのは、以前、アンジェラがベルナルドに見せたことのない笑顔で話をしていた騎士だった。
その騎士は、馬車の中にアンジェラがいるのを見つけると、ほっとした顔をした。
それと同時に、ベルナルドは背後のアンジェラの雰囲気が変わったのを感じた。
ベルナルドに対しては硬い雰囲気を崩さなかったのに、その騎士の姿を見ただけでちょっと優しい雰囲気になったのを感じた。
「アンジェラ嬢」
「キリアム様」
騎士とアンジェラが、お互いの名前を呼んだ。
ただ、それだけだ。
だが、ベルナルドはその声に含まれている甘い感情を敏感に感じとった。
キリアムと呼ばれた騎士に見せたアンジェラの少し嬉しそうな顔に、ベルナルドは一瞬にして頭に血が上りそうになった。
ギリギリで留まったのは、彼がベルナルドより強くてどう考えても勝てなそうな騎士だったことと、アンジェラがまだベルナルドの手の届く範囲内にいたからだ。
狭い馬車の中だったが、アンジェラがベルナルドの背後から出てキリアムの方に行こうとしたので、ベルナルドはその腕を掴んだ。
「ベルナルド様?」
「アンジェラ、行くな」
たった一言だが、ベルナルドはその言葉に全てを込めた。
行くな。俺の傍にいろ。お前は俺の妻となって、ディウム王国に帰るんだ。
「……いいえ、私は行きます」
熱の籠もった真剣な目で見つめられてそう言われたアンジェラは、自分の腕を掴んだベルナルドの手に、そっと自分の手を重ねた。
「行きます。この手はとっくの昔に、私から離れて行った手です。いいえ、もしかすると、初めから伸ばされていなかった手なのかもしれません。どちらにせよ、私はもうこの手を必要としていません。私が伸ばしていた手とベルナルド様の手が重なることはありませんでした」
「あの男の手に縋るというのか?」
「縋る、ですか。ふふ、違いますよ。勘違いしているようですから言っておきますが、キリアム様にはお世話になっていますが、そういう関係ではありませんよ」
ベルナルドの勘違いだとアンジェラは言ったが、そうではないとベルナルドは叫びたくなった。
今もこちらを見ている男の目にあるのは、紛れもなく恋情だ。
アンジェラを連れ去ろうとしていたベルナルドに対して、激しい怒りの感情を持っているであろうことは、容易に察せられた。
「アンジェラ、違う、その男は危険だ」
「今の私には、ベルナルド様の方が危険な方に思えますが」
「だまされているだけだ!」
「……そうですか。私をだましても何も得るものなどありませんよ。何せ、家も地位も財産もない女ですから」
ふわりと、ちょっと自虐的にアンジェラが笑ったので、ベルナルドは一瞬、息を止めた。
「アン……」
「アンジェラ嬢をだますことなんてしませんよ。そんなことをしたら、妹にも怒られますし、あなたの後見人の方に睨まれますからね」
ベルナルドがアンジェラの名前を呼ぼうするのを遮り、キリアムが苦笑した。
「キリアム様」
アンジェラがベルナルドに掴まれている腕ではない方の手を伸ばすと、キリアムは迷うことなくその手を掴んだ。
「離して」
振り返ってベルナルドの方を見てアンジェラが言ったその短い言葉を聞いて、ベルナルドの手の力が抜けた。
スルリと腕が抜けて行き、最後に触れたアンジェラの指先を再び掴むことも出来ずに、ゆっくりと離れて行くのが見えた。
失った。
もう二度と、触れることも出来ない。
あの笑顔も、あの声も、ベルナルドのものにはならない。
本来ならベルナルドがいたはずの、アンジェラを抱きしめることが出来るその立場にいる騎士が、ベルナルドを強い目で見ていた。
渡さない。
そう言われている気がした。
「アンジェラ嬢」
力の抜けたベルナルドからキリアムの方に引き寄せられたアンジェラは、そのままキリアムに身体を受け止められて馬車の外へ出ることが出来た。
「ヴァージルが知らせたのですね?お手数をおかけしました」
「これくらい、手間でも何でもありませんよ。それより、無事でよかった」
「ご心配をおかけしました」
「えぇ、本当に心配しました」
連れ去った相手が元婚約者だと聞いたので、こうして無事な姿を見るまで、アンジェラの身に何か起きていないか心配だった。
「余計なお世話、ではなかったですよね?」
「もちろんです。私はもうディウム王国に帰る気もありませんし、ベルナルド様とどうこうなるつもりもありませんから」
馬車の中をチラリと見ると、ベルナルドが力を失ったかのように呆然としていた。
せめてサマンサがベルナルドを支えてくれればいいが、あの身勝手な妹がベルナルドを支えるとはとても思えない。
正直、ベルナルドとサマンサが結婚しても、長続きはしないと思っている。
だからといって、アンジェラはこれ以上、あの二人に振り回されたくはないので関わるつもりもない。
「キリアム様、今回のことは騒ぎになっていますか?」
「いや、ヴァージル殿がすぐに俺のところに来たから俺だけが動いた。ヴァージル殿にも落ち着くように言ってあるから、おそらく大事にはなっていない」
「でしたら、このまま、何もなかったことにしてください。私は久しぶりに会った祖国の知り合いと馬車の中で少し話をしただけです」
「……君はそれでいいのか?」
「はい。大事にするのは簡単なんです。宰相閣下に言えば正式に抗議するでしょうから。そこからの交渉でもきっと宰相閣下が何とかしてくださいます」
「生き生きと相手をする様子が目に浮かぶな」
「そこまで大事にはしたくありません」
「分かった。君は祖国の知り合いと久しぶりに会って馬車の中で話をした帰りに偶然俺と会い、女性の一人歩きは危ないので安全のために俺が寮まで送って行く、それでいいんだな?」
「はい。それでお願いします」
「分かった。君が望むならそうしよう」
色々とおかしな点は出てくるだろうかもしれないが、事件はなかったのだから、そこまで追求されることもないだろう。
この後のことは、宰相閣下と要相談と言ったところだ。
「君が船に乗せられる前に会えてよかったよ」
「船に乗ってしまうと逃げ場がありませんものね。キリアム様、探していただいてありがとうございます」
「二度とこういうことはしないでほしいんだが」
「個人的には、私も二度としたくありません」
ベルナルドがアンジェラを傷つけると思ってはいなかったけれど、それでも、少しだけ怖かった。
体格差や力の強さの差などは、どうしようもない。
「……帰ろうか」
「はい」
ベルナルドの方を見ることもなく、アンジェラはキリアムに手を握られたまま、その場を去って行ったのだった。




