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読んでいただいてありがとうございます。
「さぁ、本当にもう帰りなさい。留学生用の寮に入っているのでしょう?あなたはまだ留学して来て間もない身なのだから、あまり遅くなると心証が悪くなるわ」
「あの、また、話をしにきてもいいですか?」
「さっきも言った通り、両親に怒られるから止めておきなさい」
こんなに情けない顔をしているヴァージルを見たのは初めてかもしれない。
「この国にいる間なら、誰にもばれません。だから……」
「……ふぅ、仕方ないわね。あの国とここでは違うことも多いでしょう。分からないことを聞きに来るくらいならいいわよ」
「ありがとうございます」
今までは何だったのかと思うくらい素直だ。
これではまるで、姉を慕っている弟のようではないか。
家族からそんな風に感情を向けられたことがないので、戸惑ってしまう。
「帰ります。それと……今まで、すみませんでした」
「もういいわ。……気を付けて帰るのよ」
「はい」
アンジェラは家族相手に、気を付けて、なんて言葉を使ったことは一度もない。
一礼して遠ざかっていく弟の背中を見ながら、アンジェラは深く息を吐いた。
これでもかなり緊張していたのだ。
罵声ならいつも通り無視するだけだったが、そうじゃなければ何を言われるのか分からなかった。
まさか、謝られるとは思っていなかった。
ほんの少しだけ、弟を見直した。
とはいえ、普通の姉弟とはほど遠い関係だと思う。
「言うほど、もう恨んでもいないのよね」
祖国にいた時間の方が断然長いのだが、フレストール王国に来てから充実した日々を送っているせいか、思い出はこちらの方が多い。
「あの子が来なければ、思い出すこともあまりなかったのにね」
一度思い出すと、次々と実家でのことを思い出してしまった。
それは嫌な思い出ではあるけれど、もう過ぎ去って過去のことだ。
アンジェラは軽く頭を振ると、そろそろ帰ろうかと思って立ち上がった。
声をかけられたのは、公園を出てすぐだった。
「アンジェラ嬢?あぁ、やはりアンジェラ嬢だ」
「まぁ、スーシャ様」
アンジェラに声をかけてきたのはキリアムだった。
見慣れた騎士服ではなくて、私服姿だったのでおそらく休日だったのだろう。
「そろそろ女性が一人で歩くには危ない時間帯だ。ここで会ったのも何かの縁だし、送って行こう」
「慣れているので大丈夫ですよ。スーシャ様もそのお姿ということは、今日はお休みだったのでしょう?せっかくのお休みにお手を煩わせるわけにはいきませんわ」
「君を一人で帰して、もし何かあったら後悔してもしきれないよ。俺の今後の平穏のためにも、ぜひ送らせてくれ」
「まぁ、ふふ。では、よろしくお願いします」
にっこり微笑まれてそう言われてしまえば、アンジェラに断る選択肢はない。
二人は並んで歩き始めた。
「そうだ、アンジェラ嬢、今日は図書館に行った?」
「え?はい、調べたいことがあったので、今日はずっと図書館にいましたが、どうしてそれをご存じなんですか?」
「君、図書館でセオリツ国の本を借りていった女性に会っただろう?」
「会いました」
「その女性は、俺の妹なんだよ。さっきまで会っていたんだが、君の名前が出てきて驚いたよ」
「そうだったんですか?すごい偶然ですね」
以前、この国に嫁いで来た妹がいるといっていたが、どうやら彼女がそうだったらしい。
妹さんが嫁いだ家は確か……
「……伯爵夫人に気軽な態度で接してしまいました」
「気にするな。公の場ならともかく、図書館の中での出会いだったのだからね。それに妹もあまりかしこまった感じは好きじゃないんだ」
妹が、兄の想い人かと思ったのは秘密にしておこう。
意識して見ると、不思議な魅力のある女性だと思う。
しっかりしているようで、何処か危うさを含んでいる気がする。
「そういえば、図書館の中とはいえ、お一人でした」
お付きの侍女とかいそうなのに、彼女は一人で図書館にいた。
「一応、護衛は近くにいたそうだ。今まで妹は出歩くことが少なかったのだが、最近、ちょくちょく外出して一人で何かに挑戦することが楽しいらしい。護衛は付いているが、基本的には侍女など付けずに行動しているらしい」
例えば人気のカフェに行ってみたり、芝居を観に行ったりと、それなりに楽しんでいるらしい。
元々、明るくて散歩したりするのが好きな妹だった。
特に祖国にいた時は色々と気苦労が多く、よく一人で散歩をしながら考え事をしていた。痛ましい事件が起きたのは、その隙をつかれたからだった。
しばらくの間は外に出ることさえ怖がっていたが、最近、ようやく昔みたいに外出するようになってきた。
フレストール王国の王都は、祖国とは規模も活気も全く違う。
図書館に収蔵されている本の数も膨大だ。
当然、図書館も広いのだが、その中で知り合いの女性と妹が偶然出会ったのは、どんな確率だと言いたくなった。
「セオリツ国の本を探していて会ったと言っていたのだが、君も興味あるのかな?」
「全く違う文化の国だと聞いたので、ちょっと調べてみたくなったんです。実際に行くかどうかは別としても、興味はあります」
「あそこはこちらの国とは言葉も文字も全く違うからなぁ。何人かセオリツ国出身者を知っているが、こっちに来て、言葉と文字で最初は苦労したと言っていたからな」
「そうですね。図書館にセオリツ国の文字で書かれた本があったのですが、全く分かりませんでした」
覚えるとなると、苦労しそうだった。
「実際に会話を聞いたことがあるが、不思議な旋律を聞いた気分になった。しかも地方によって、さらに微妙に言葉が違うらしい」
「それは……すごく難しそうですね」
「俺は諦めたな」
キリアムは諦めたが、妹はセオリツ国に行くために言葉の勉強もするのだと意気込んでいた。
目標があるのはいいことだ。
妹の生き生きとした姿を思い出して、キリアムは無意識に優しく微笑んでいた。