奴隷的宗教観
タイトルの字面の圧が凄すぎる気が微妙にしますが、気にせずに進めていきます(笑)
始めに奴隷の実家は日蓮宗の檀家で祖父は熱心な信徒でした。
御書を熟読し、教義に精通した上で朝夕の読経を欠かさない人だったんです。
そんな中で、奴隷は同級生の勧めで小学生の時にプロテスタントへと改宗しました。
これといった反対も無かったのは、母もかつてはマリアを聖母として信仰するカトリック系の宗派に信奉していたことがあったからでした。
そんな奴隷は今は無宗教です。
聖書の記述の矛盾点に小学生ながらに気付いてしまい、勧めてくれた友人には申し訳ない想いもあったものの信仰を棄てました。
因みに友人も奴隷同様に気付いておりましたが、家族が信仰する宗派の教えを棄てることは出来ないためにそのまま在籍しています。
奴隷は仏教家庭に育ち、プロテスタントのキリスト教的な一神論に触れたのち、信仰を求めて様々な宗教を学び、結果として祖母の影響からか、日本的なアミニズムの考えに落ち着きつつも、無宗教となりました。
結論を言えば、奴隷は信仰を棄てきれなかった人間なんですね。
神性存在を求めてしまう人間で、神などいないと切って棄てられない。
そのくせ、ロジカルな合理主義者なために、既存の宗教の矛盾や齟齬が気にかかり、素直に信仰を捧げることの出来ない歪な人間なんです。
そんな奴隷が幼少のころに祖母が話した。
「モノには神様が宿るから、どんなモノでも粗末にしてはいけない」
「小さな虫も神使としての役目があるから、無意味にみだりに殺しちゃいけない」
こういった言葉に影響を受けるのは当然の帰結だったのかもしれません。
器物や自然に宿る神性を尊び、生かされることに感謝して、意味を問うことなく、あるがままに生きることに懸命に歩む。
特段、語る程でもありませんが、それが奴隷の思想です。