八
『ぴんぽんぱんぽんぴんッ。緊急事態ッ、魔郷の眷属の至極の山羊が侵入ッ。魔郷の眷属の至極の山羊が侵入ッ。即刻処理してくださぁーいッ。ぴんぽんぱんぽんぴんッ』
「バフォ、メット……?」
湊輔は苦しげに顔をしかめながらつぶやいた。
激しい動悸を押さえるように呼吸を荒げながら、ふと体育館の屋根を見上げる。
途端、全身の血という血が凍りついた。
牛頭型と同じく、四メートルもある巨体。
全身を包み込むほど広大な、皮膜のついた一対の翼。
太くたくましい馬脚。
あらゆる筋肉が発達した、人間男性のような上半身。
首に据わる馬の頭。
象牙色の、弧を描くようにねじり曲がった二本一対の角。
至極色――極めて黒に近い赤紫色――の全身。
右手には長大な鉈。
――至極の山羊。
「アレは……!」
脳髄を激しく打ち据える、強烈な既視感。
そうだ、あの日夢で見た、アイツだ……!
「――悪魔」
思わず逃げ出そうとして、しかし体はぴくりとも動かない。
先ほどから続く吐き気に合わせて――いや、放送が流れる直前から全身を襲う、締め上げるような感覚。
臓物とその中身が絞り出される異様なそれに、吐き気が引き起こされているのだ。
悪魔は馬よろしく耳を不規則に動かしながら、五人を見下ろす。
品定めをするように、黒翡翠のような瞳をぎらつかせ、鼻先をおもむろに小さく振る。
「――ッ!」
湊輔は顔を引きつらせた。
馬面と目が合った瞬間、全身に戦慄が走って。
脳を踏み潰されたように、思考が完全に停止する。
肉体と精神が分離した、そんな浮遊感も襲ってきた。
「おめえらッ、逃げろッ! 校舎ん中に逃げろおッ!」
泰樹の怒号がこだました。
「有紗、来なッ」と巧聖が有紗に手招きしながら、湊輔と雅久の下に駆け寄る。
物腰柔らかなたれ目は、これ以上ないほど緊張に張り詰めていた。
「ほら二人とも、立って立って!」
慌ただしく促され、ようやく身体の硬直がほどけた。
湊輔は雅久と共に、急いで立ち上がる。
四人と至極の山羊を結ぶ直線状に、泰樹が勇ましく立ちはだかる。
鬼の形相が極まっているのが想像できるほど、背中から殺意のような気迫を醸して。
白銅の剣の柄を握り潰すくらい強く、右手に力を込めて。
「校舎ん中に行くよッ」
巧聖を先頭に、雅久、湊輔、有紗がB棟校舎を目指して走り出した。
「荒井いッ! 上だあッ!」
泰樹の吠え声に、四人が一斉に空を仰いだ。
灰色の空を覆う、広大な至極色の翼。
長大な鉈を振りかざした悪魔が、ほぼ垂直に落下してくる。
「湊輔ッ!」
雅久が叫んだ。
空を仰いだ瞬間、湊輔は足を止めた。
いや、再び全身が硬直した。
足下から全身を縛り上げた恐怖によって、悪魔へと差し出されているように。
同時、視界に映った。
真上から縦断する、赤い光跡が。
まただ。
また、不意に直感した。
斬られる。
死ぬ――
「させるかよッ」
目の前に長方形の影が飛び込んできた。
雅久だ。
大盾を持ち上げ、鉈の太刀筋へとかざした。
「ぅぐぁあああッ……!」
ギイィン! と金属質な衝撃音と、苦痛を帯びたうめき声が重なった。
振り下ろされた鉈の威力、加えて悪魔自体の質量のせいか。
雅久の体は一瞬崩れかけ、しかしからくも持ちこたえてみせた。
「逃げ、逃げろぉ……湊輔ぇ……」
――【槍高跳】
「おい馬面あッ!」
巧聖が悪魔の眼前めがけて跳び上がった。
跳躍中に引き絞った長槍の穂先は、完全に馬面の正中線を捉えている。
「がっ……」
しかし、至極の山羊が左腕を薙ぎ払うのが先だった。
蝿叩きよろしく、巧聖は呆気なく吹き飛ばされた。
悪魔が鉈を、今度は左肩越しに振りかぶった。
そしてすかさず右に払い、凶刃が離れた直後よろめいた雅久を、巧聖同様に吹き飛ばした。
雅久……!
湊輔はその場にへたり込み、青ざめた顔で遠のく幼馴染を見つめた。
今になって分かる。
全身が熱い。
熱波を浴びたような灼熱感に、意識が飛んでしまいそうだ。
――【霞脚】【疾破撃】
泰樹が悪魔の右脚めがけ、超速の勢いに乗せた上段斬りを叩き込む。
「ちいっ」
寸前、巨体は翼を羽ばたかせて浮き上がり、斬撃を免れた。
雅久が薙ぎ払われたとき、泰樹の接近はすでに気づかれていた。
「あ……」
湊輔の全身が激しく震える。
確定した。
もう、助からない。
本当に死ぬ。
視界に走る赤い光跡の向こうで、悪魔の右腕が振り上がった。
時が、ひどく緩やかに流れ始める。
「遠山あッ!」
泰樹の絶叫も、落下してくる巨大な腕も、なにもかもが、あまりに緩慢。
――「クソッタレエッ!」
その誰かの声は、まるであがき。
こんなところで死ぬつもりはないとでも言いたげに、全身を奮わせた。
頭から叩き斬られる光景が、視認するのが間に合わないほど素早く流れる。
直後、死の光景が巻き戻り、死から逃れる光景を見せつけられた。
それに倣うように、体が弾かれたように動き出す。
左に身をひねっては中途半端に起き上がり、身を投げるように跳び込んで、転がった。
直後、時の流れが平常を取り戻す。
鉈の切っ先が直撃した瞬間、地面が割れるようにくぼみ、土くれが飛び散った。
至極の山羊は引き戻した鉈を素早く払い、肉迫してきた泰樹を遠ざける。
そして突風を起こして舞い上がり、グラウンドの西端へと離れていく。
直前、「フゥゥゥ……」という息遣いが、どこか満足げな様子を思わせた。
やがて着地するなり、鉈を地面に突き立てた。
するとそれは柄頭から溶けるように崩れ出し、足下に沼のような歪な円を生み出した。
混沌を模したようなその中に、悪魔の巨体が沈み込んでいく。
完全に全身が見えなくなると、沼は急速に狭まり、消え去った。
『ぴーんぽーんぱーんぽーん。えー、至極の山羊の撤退を確認しましたぁ。繰り返しまぁす。至極の山羊の撤退を確認しましたぁ。いやー、危なかったねぇ。みんなが無事に生き残れたのはもう奇跡としか言いようがないよ? お疲れ様ぁ。以上ッ。……ぴーんぽーんぱーんぽーん』
間延びした純情無垢な子どものような声が、敵が消失してもなお殺伐とした戦場に響き渡った。
湊輔が両手両ひざをつきながら肩で息をしていると、いきなり視界が揺らいだ。
風景がうねり、静止画が切り替わるように移りゆく。
まるで、この異空間に来てから辿った経路を逆流するように。
気づけば、四限目の授業中。
自分の席に着いていた。




