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『ぴんぽんぱんぽんぴんッ。緊急事態ッ、魔郷の眷属(ドォンケルハイト)至極の山羊(バフォメット)が侵入ッ。魔郷の眷属の至極の山羊が侵入ッ。即刻処理してくださぁーいッ。ぴんぽんぱんぽんぴんッ』


「バフォ、メット……?」

 湊輔は苦しげに顔をしかめながらつぶやいた。

 激しい動悸(どうき)を押さえるように呼吸を荒げながら、ふと体育館の屋根を見上げる。

 途端、全身の血という血が凍りついた。


 牛頭型(バイコーン)と同じく、四メートルもある巨体。

 全身を包み込むほど広大な、皮膜のついた一対の翼。

 太くたくましい馬脚。

 あらゆる筋肉が発達した、人間男性のような上半身。

 首に据わる馬の頭。

 象牙色の、弧を描くようにねじり曲がった二本一対の角。

 至極(しごく)色――極めて黒に近い赤紫色――の全身。

 右手には長大な(なた)

 ――至極の山羊(バフォメット)


「アレは……!」


 脳髄を激しく打ち据える、強烈な既視感。

 そうだ、あの日夢で見た、アイツだ……!


「――悪魔」


 思わず逃げ出そうとして、しかし体はぴくりとも動かない。

 先ほどから続く吐き気に合わせて――いや、放送が流れる直前から全身を襲う、締め上げるような感覚。

 臓物とその中身が絞り出される異様なそれに、吐き気が引き起こされているのだ。


 悪魔は馬よろしく耳を不規則に動かしながら、五人を見下ろす。

 品定めをするように、黒翡翠(ひすい)のような瞳をぎらつかせ、鼻先をおもむろに小さく振る。


「――ッ!」

 湊輔は顔を引きつらせた。

 馬面と目が合った瞬間、全身に戦慄が走って。

 脳を踏み潰されたように、思考が完全に停止する。

 肉体と精神が分離した、そんな浮遊感も襲ってきた。


「おめえらッ、逃げろッ! 校舎ん中に逃げろおッ!」

 泰樹の怒号がこだました。


「有紗、来なッ」と巧聖が有紗に手招きしながら、湊輔と雅久の下に駆け寄る。

 物腰柔らかなたれ目は、これ以上ないほど緊張に張り詰めていた。


「ほら二人とも、立って立って!」


 慌ただしく促され、ようやく身体の硬直がほどけた。

 湊輔は雅久と共に、急いで立ち上がる。


 四人と至極の山羊(バフォメット)を結ぶ直線状に、泰樹が勇ましく立ちはだかる。

 鬼の形相が極まっているのが想像できるほど、背中から殺意のような気迫を醸して。

 白銅の剣の柄を握り潰すくらい強く、右手に力を込めて。


「校舎ん中に行くよッ」


 巧聖を先頭に、雅久、湊輔、有紗がB棟校舎を目指して走り出した。


「荒井いッ! 上だあッ!」


 泰樹の()え声に、四人が一斉に空を仰いだ。

 灰色の空を覆う、広大な至極色の翼。

 長大な鉈を振りかざした悪魔が、ほぼ垂直に落下してくる。


「湊輔ッ!」

 雅久が叫んだ。


 空を仰いだ瞬間、湊輔は足を止めた。

 いや、再び全身が硬直した。

 足下から全身を縛り上げた恐怖によって、悪魔へと差し出されているように。


 同時、視界に映った。

 真上から縦断する、赤い光跡が。


 まただ。

 また、不意に直感した。

 斬られる。

 死ぬ――


「させるかよッ」


 目の前に長方形の影が飛び込んできた。

 雅久だ。

 大盾を持ち上げ、鉈の太刀筋へとかざした。


「ぅぐぁあああッ……!」


 ギイィン! と金属質な衝撃音と、苦痛を帯びたうめき声が重なった。


 振り下ろされた鉈の威力、加えて悪魔自体の質量のせいか。

 雅久の体は一瞬崩れかけ、しかしからくも持ちこたえてみせた。


「逃げ、逃げろぉ……湊輔ぇ……」


――【槍高跳(ハイジャンプ)


「おい馬面あッ!」

 巧聖が悪魔の眼前めがけて跳び上がった。

 跳躍中に引き絞った長槍の穂先は、完全に馬面の正中線を捉えている。

「がっ……」


 しかし、至極の山羊(バフォメット)が左腕を()ぎ払うのが先だった。

 (はえ)叩きよろしく、巧聖は呆気なく吹き飛ばされた。


 悪魔が鉈を、今度は左肩越しに振りかぶった。

 そしてすかさず右に払い、凶刃が離れた直後よろめいた雅久を、巧聖同様に吹き飛ばした。


 雅久……!

 湊輔はその場にへたり込み、青ざめた顔で遠のく幼馴染を見つめた。

 今になって分かる。

 全身が熱い。

 熱波を浴びたような灼熱(しゃくねつ)感に、意識が飛んでしまいそうだ。


――【霞脚(ヘイズステップ)】【疾破撃(アサルトクラッシュ)


 泰樹が悪魔の右脚めがけ、超速の勢いに乗せた上段斬りを叩き込む。

「ちいっ」


 寸前、巨体は翼を羽ばたかせて浮き上がり、斬撃を免れた。

 雅久が薙ぎ払われたとき、泰樹の接近はすでに気づかれていた。


「あ……」

 湊輔の全身が激しく震える。

 確定した。

 もう、助からない。

 本当に死ぬ。

 視界に走る赤い光跡の向こうで、悪魔の右腕が振り上がった。


 時が、ひどく緩やかに流れ始める。


「遠山あッ!」


 泰樹の絶叫も、落下してくる巨大な腕も、なにもかもが、あまりに緩慢。


 ――「クソッタレエッ!」


 その誰かの声は、まるであがき。

 こんなところで死ぬつもりはないとでも言いたげに、全身を奮わせた。


 頭から叩き斬られる光景が、視認するのが間に合わないほど素早く流れる。

 直後、死の光景が巻き戻り、死から逃れる光景を見せつけられた。


 それに(なら)うように、体が弾かれたように動き出す。

 左に身をひねっては中途半端に起き上がり、身を投げるように跳び込んで、転がった。


 直後、時の流れが平常を取り戻す。


 鉈の切っ先が直撃した瞬間、地面が割れるようにくぼみ、土くれが飛び散った。


 至極の山羊(バフォメット)は引き戻した鉈を素早く払い、肉迫してきた泰樹を遠ざける。

 そして突風を起こして舞い上がり、グラウンドの西端へと離れていく。

 直前、「フゥゥゥ……」という息遣いが、どこか満足げな様子を思わせた。


 やがて着地するなり、鉈を地面に突き立てた。

 するとそれは柄頭から溶けるように崩れ出し、足下に沼のような歪な円を生み出した。

 混沌(こんとん)を模したようなその中に、悪魔の巨体が沈み込んでいく。

 完全に全身が見えなくなると、沼は急速に狭まり、消え去った。


『ぴーんぽーんぱーんぽーん。えー、至極の山羊(バフォメット)の撤退を確認しましたぁ。繰り返しまぁす。至極の山羊の撤退を確認しましたぁ。いやー、危なかったねぇ。みんなが無事に生き残れたのはもう奇跡としか言いようがないよ? お疲れ様ぁ。以上ッ。……ぴーんぽーんぱーんぽーん』


 間延びした純情無垢な子どものような声が、敵が消失してもなお殺伐とした戦場に響き渡った。


 湊輔が両手両ひざをつきながら肩で息をしていると、いきなり視界が揺らいだ。

 風景がうねり、静止画が切り替わるように移りゆく。

 まるで、この異空間に来てから辿った経路を逆流するように。


 気づけば、四限目の授業中。

 自分の席に着いていた。

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