六
湊輔は雅久に遅れて足を止めた。
「バカ、やめろ……!」
あいつ、ホントにVRゲームの感覚でやってるだろ。
戸惑い、ひざが震える。
逃げないと。
でも、雅久をどうにかしないと。
そう思う傍ら、野太い風音は目と鼻の先まで迫っている。
もう、どうしようもできないって……!
膨れ上がった緊張と困惑に目を見張った瞬間――
「ぁあっ!?」
雅久が仰天したような上ずった声を発した。
大盾を打ち据えるかと思った牛頭型は、突如として巨体を浮き上がらせた。
両の蹄を並べて深く腰を落とし、雅久と湊輔を跳び越えた。
背中まで振りかぶった斧が、大きく円弧を描く。
刃は――有紗の真後ろに降り注いだ。
ズドォン! と凄烈な炸裂音と土塊、土ぼこりを巻き上げ、巨影は硬直した。
やっぱり……やっぱりそうだ。
目に矢をくらって、狙いを変えたんだ。
泉さんを、殺る気だ。
途端に込み上げてくる、後悔と焦りと自責の念。
敵の注意を引きつける仲間以上にヘイトを稼ぐ攻撃を繰り出せば、当然敵の狙いは切り替わる。
これもそうだ。
泰樹よりも危険だと認識したから、巨影は有紗に襲いかかった。
ヘイト稼ぎ、なんて言っておいて、なんで気づかないんだよ。
「あまりやりすぎるとこっち向くかもしれないから」って言えてもよかっただろ。
それより、今は――
――「嫌、ダ……」
嫌だ。
せっかく同じ高校に入って、また会えたのに。
これから、なんでもいいから話して、仲よくなって、それから、それから――
――「死ナ、ナイデ……」
そうだ。
死んでほしくない。
せっかくこうやって、話ができるきっかけができたのに。
もしかしたらここから、仲よくなれるかもしれないのに。
――「助ケ、ナイト……」
そうだ。
助けないと。
泉さんを、助けないと。
おれのせいで狙われ始めたんだろ?
だったら――
――「ダッタラ、助ケロヨ」
行け。
走れ。
剣を持ってるんだろ。
だったら剣を振れ。
泉さんを助けろ。
おれの責任なら、おれが……おれがなんとかしろッ!
決意に息を吸い込むより半瞬早く、体が走り出した。
再び一陣の風と化す巧聖よりも先に、牛頭型の左脚へと急迫する。
月白の剣を、地面と水平に構えて。
灰黒色の脚はあたかも大木。
その強靭そうな幹に、はたしてこの刃は通用するのだろうか。
「うああああああッ!」
のどが一瞬で灼けつくような絶叫と共に突き出した一撃。
右手から全身に迸る、やたら硬く、鋭い感触。
突き刺さったのが不思議なほど、あまりに浅い、浅すぎる一撃。
しかし、切っ先は確かに食らいついている。
あらん限りに目を見開き、歯を食いしばり、「くうぅぅ……」とうめき声を上げながらさらに突き込み、得物を一気に引き抜いた。
そのまま勢いあまってよろめき、
「いだっ……」
数歩後ずさって尻餅をついた。
「いいよ湊輔! 雅久もよく振り返ったよ!」
巧聖が瞬く間に追いついた。
巨影の脚が沈んでいる。
今度こそ、穂先は標的を狙い澄ました。
「そこぉッ!」
大きく、強く踏み込み、長槍をまっすぐ突き出す。
「えぇッ……!」
再び巨影が浮き上がり、巧聖の一撃は虚空をかすめた。
垂直に跳び、空中で翻る牛頭型の体。
斧はまた背中まで振りかぶられている。
瞬間、呆然とする湊輔の視界に、一筋の赤い光跡が縦断した。
巨影の蹄が地面を打ち鳴らした途端、わずかに生じた縦揺れ。
そして重大な円弧の辿り着く先は――
「湊輔えええッ!」
「うぁぁぁあああッ……!」
雅久の悲痛に割れた絶叫と、瞬時に膨張した恐怖が爆ぜるような、湊輔の叫喚が重なった。
同時、湊輔の全身を再び、燃え上がるような感覚が包み込む。
重大な刃が。
前からも後ろからも聞こえてくる声が。
体の感覚が。
周囲のことごとくがひどく、緩やかに流れ始めた。
湊輔は確かに実感した。
おれ、死ぬんだ、と。
いつだったか、似たようなことを思った気がする。
目の前の景色が、徐々に白く染まっていく。
――これは、死の間際に見る走馬灯か。
* * *
目の前に広がったのは、いくつもの雑貨が並ぶ商品棚。
物珍しく眺めるように、視界はそれをなぞりながら、ゆっくり横歩きしている。
「え、どこ……」
向こう側から、慌てふためくようなか細い声が聞こえてきた。
途端、足早に棚を回り込み、そちらに向かう視界。
小さな女の子がいた。
商品棚よりずっと低い背。
小学校中学年くらい。
そういえば、視界もまたその少女と同じくらいの高さにある。
「どうしたの?」
声をかけると、女の子は小さなバッグの中をあさるのをやめて振り向いた。
子どもながらに整った顔立ち。
前髪も、肩のあたりまで伸びた横や後ろの髪も、毛先がきれいに切り揃えられている。
その黒い髪は、店内の白い明かりに照らされ、艶やかに煌めいている。
「え、その……」
女の子は一瞬びくついて、口ごもり、眉をひそめた顔を背けた。
「……もしかして、財布、なくしたとか?」
正解だったらしい。
女の子はバッグを強く握り締め、俯いた。
「どれ買おうとしてたの?」
女の子は少しばかり黙りこくったあと、渋々と目の前にある商品を指した。
視界は一歩踏み出したように女の子に近づき、示された値札に移ろった。
「そっか。……じゃあ」
彼女の小さな手を取ると、なにかを握らせた。
女の子は不思議そうに手の中にあるものを見て、愕然とした表情を向けてきた。
「え、でも、これ……!」
「いいからいいから。おれ、もうすぐ小遣いもらえるし」
「兄さーん」
背後から聞こえてきた、どこか耳慣れたような声。
「じゃあねっ」
女の子に手を振り、呼び声に向かって駆け出した。
* * *
こんなこと、あったっけ?
全然憶えがない。
ずっと昔の記憶か?
なんでそんなものが、今になって――
朧気な過去が、火に炙られた紙のように燃え尽きる。
やがて、現実――という名の夢幻に意識が引き戻された。
眼前に迫る、死。
間近で見るとより巨大で、重厚で、無骨な刃。
それが発する野太いうなりと、
「うぁぁぁあああッ……!」
間延びした叫喚が重なった。
絶命の瞬間は、あまりにも緩慢で、冷酷で、拷問のよう。
右の首筋から、死が体を蝕み始めた。
鎖骨、肩甲骨、肋骨、腸骨、骨盤がへし折られ、砕かれる。
僧帽筋、広背筋、大胸筋、腹筋と共に、肺、心臓、肝臓、胃、腸が緩やかに、滑らかに斬り裂かれる。
切断部から、鮮やかな紅い潮が、じっくりと噴き上がる。
首から力が抜けた。
頭が左に傾き、上向いていた視線が下がる。
そのとき、見えた。
巨影の背後で、顔を青ざめて唖然と立ち尽くす人影が。
嬉しかった。
志望校に入学が決まって。
あの乙女も同じ学校になって。
……一緒のクラスにはなれなかったけど。
とにかく、これで中学のころより、少しはマシになる――と思った。
それなのに、このザマだ。
異空間とか、武器とか、化け物とか、なにもかも、よく分からないまま……。
体に食い込んだ重大な刃が、ずるりと持ち上がっていく。
途端に意識が暗み始め、モノトーンに染まった世界が、ゆっくりと閉ざされていく。
――遠山湊輔は、死を迎えた。
まもなく、おもむろに開き始める目蓋。
あの世か。
どんなところだろう?
湊輔は死後の世界をなんとなしに思い描く。
しかし、目に映った光景には見覚えがあった。
つい先ほどまで見ていた、モノトーンに染まった戦場。
なんで?
こんな無惨に斬られて、なんでまだここに?
一度は持ち上がった斧が、また体に食い込んできた。
卑劣だ。
コイツには、死体を斬り刻む趣味でもあるのか。
そう恨みがましく思ったとき、斧がまたせり上がった。
――いや、なにかが違う。
巨影の動きが不自然だ。
得物を持ち上げるというよりも、全身まるごと、振り下ろした動作が巻き戻っているよう。
重大な刃がせり上がると同時、体に飛び込んでくる噴き出した潮。
傷跡なく接合されていく切断面。
やがて、体が斬り裂かれる瞬間の手前、牛頭型が跳んで翻る直前まで巻き戻った。




