四
世界が横転していた。
いや、湊輔の体がうつ伏せに倒れて、顔だけ横を向いていた。
なにが、どうなってる?
体を起こそうと、伸びた右腕を折り畳む。
右手で床を押した瞬間、
「うぁぁぁ……!」
背中の左側、肩甲骨あたりに鋭い痛みを覚えた。
たまらず脱力し、また突っ伏す。
おそるおそる首を回すと、剣が見えた。
月白色に染まった自分の剣が。
それは背中から胸、そして床まで貫通している。
いわば磔状態。
ふと顔を前に向けた。
いた。
二人が見えた。
タダマサが泰樹に馬乗りになっている。
右手で鬼の形相を殴って、殴って、ひたすら殴り続ける。
直撃のたび、ゴッと鳴る鈍い音。
兜のせいで、表情はまったく見えない。
だからか、振り下ろされる拳がことごとく無慈悲に思える。
泰樹は最初、タダマサの拳に抵抗していた。
しかし立て続く猛攻に戦意を削がれたか、徐々に弱まっていった。
やがて、ただただ殴られるだけになる。
タダマサはそこで殴るのをやめ、立ち上がった。
すぐそばに横たわらせていた得物を持ち上げて。
「せ、先輩……」
湊輔はかすれた声を漏らし、右手を伸ばす。
「柴山先輩……」
いつも険しい表情をしている、頼もしく感じていた存在の名を呼ぶ。
「やめろ……」
振り上げられた刃に懇願する。
「やめろおおおおおおおおおッ!」
仁王立ちする白騎士に、悲愴な絶叫を吐きつけた。
「悪いな、シバ。これが一番、手っ取り早えんだ」
「ゴチャゴチャ……言ってねえで……とっとと、終わらせろ……御堂ッ……」
泰樹が息も絶え絶えにうなった直後、反りのある刃が断頭台と化した。
冷酷に微笑み、無情に首筋へと降りかかる。
「うあああああああああッ!」
湊輔の叫喚が、聞くも無惨な音をかき消した。
途端に揺らめく視界。
現実へ、日常へと引き戻される。
その最中に見た。
忽然と現れ、白騎士に歩み寄る、あどけない少年の姿を。
* * *
「お兄ちゃんっ?」
「おい湊輔っ」
不思議そうな面持ちの理桜が泰樹を、不穏な面持ちの雅久が湊輔を覗き込むように見つめた。
「ん……」
泰樹は一瞬戸惑った様子を見せて、
「ああ、どうした、理桜?」
平然を繕ったように表情をほころばせ、理桜を見下ろした。
首筋に右手を当てながら。
「どうしたって、それお兄ちゃんのほうだよ?」
理桜は面持ちをより険しくして、首を傾げた。
「急にボーっとしちゃってさ」
「いや……なんでもねえよ」
泰樹はわずかに視線をそらしながら、理桜の頭を撫でた。
「湊輔、お前まさか――」
「我妻」
怪訝に声を落とした雅久を、泰樹が呼んだ。
雅久が顔を向けるなり続ける。
「もう一回、投げていいか?」
「え……?」
雅久は目を丸くした。
「あ、ああ、いいッスよ、全然。あ、先輩あれッスか? 高校生活最後の学校祭だから、二連続パーフェクトなんて伝説作っちゃおうってやつッスか?」
泰樹は表情が見えなくなるくらい俯き、小さく息を吐いた。
「ああ、せっかくの高校生活最後の学校祭だからな――」
泰樹が顔を上げた途端、湊輔は唖然と固まった。
「遠慮なくやらせてもらうぜ」
泰樹が自然と、にこやかに笑ったから。
それから泰樹はまたも豪速球を放ち、九枚のパネルを精密に撃ち抜いていった。
二連続パーフェクト、なんてものではない。
さらに三度パーフェクトを重ねて、五連続という伝説を築き上げた。
いつの間にか分厚い壁となった人だかり。
泰樹がパーフェクトを成すたびに、これでもかとばかりに歓声を湧き上がらせる。
そんな中、湊輔は淡々と仕事をこなしながら、投球する先輩の背を寂しげに見つめていた。
やがて泰樹と理桜は、ストラックアウトの出店をあとにした。
湊輔は担当の時間を終えると、泰樹を探そうと思った。
しかし、雅久と有紗の三人で校内を回る先約があったために断念。
泰樹のクラスに赴く機会があったものの、姿はなかった。
そしてそのまま、学校祭を終えて休日を迎えることになる。
* * *
休み明け、一人の高校生の死が伝えられた。
尾仁角高校、三年A組、柴山泰樹。
校長、教頭、学年主任、クラス担任から追悼の辞が送られた全校集会。
最後、泰樹の死に黙祷を捧げ、解散となった。
* * *
「うっし、今日もひと暴れするぜえッ」
雅久の声がモノトーンに染まる図書館にこだました。
「湊輔、今日も見せてくれよ、あれ」
「え……? あ、ああ……うん」
湊輔は雅久を横目で見て、生返事するなり手元の成績表に目を落とした。
【筋力50、耐久力30、持久力60、精神力90、判断力60、戦闘センス35、リーダーシップ20、総合345】
【素質……前虎後狼】
【動的戦技……破甲撃、破突、抉牙、打流、終一閃、流転避、流脚、縮地】
【静的戦技……先見、死逃視眼】
【創技……断死戟】
ようやく総合が三百を超えた。
二枚目には、創技という項目が加わり、断死戟という名称が記してある。
泰樹の死のあとも、当然のごとく異空間に招かれた。
時折、あの言葉を思い出す。
『どんなことが起きても、おめえはいつも通りに日常を過ごせ』
この非現実めいた刹那を、はたして日常と呼べるかはさておき。
湊輔は泰樹に言われた通り、いつも通りの日常を過ごすように努めた。
そして、これまで通り月白の剣を振るって戦った。
泰樹の死後、初めて異空間に招かれたとき、湊輔は思った。
きっと、分かってたんだ。
だからあのとき、あんなことを言ったんだろ。
……でも、なんで、なにも言わなかったんだろ。
いや、言わないか。
言わないよな。
みんなを不安がらせたくなかった。
たぶん、そういうこと、なんだろうな。
泰樹の死への執着が薄れる時間は、人それぞれだった。
いや、内心引きずりながらも、外面に出し続ける時間が長いか短いか、そんな違いなのかもしれない。
そうしていつの間にか、一年の節目を迎えた。
『――以上ッ。……ぴーんぽーんぱーんぽーん。』
少年声の放送が、戦いの始まりを告げた。
相変わらず純情無垢そうな声音で。
「よし、では行こうか」
カウンターのそばにいた剣佑が声を上げた。
「大型一体だが、増援が来たときは湊輔、前を任せたい。行けそうか?」
暑苦しい面立ちには、明らかに信頼の色が浮かんでいる。湊輔は脇目も降らず、
「行けます」
と強く頷いた。
「ま、湊輔が斬りかかったらどのみち、俺たちなんてガン無視だからね」
巧聖が肩をすくめながら微笑んだ。
「湊くん」
二菜が湊輔を横から覗き込んだ。
「危なくなったら、無理しちゃダメだよ?」
「はい、気をつけます」
湊輔は苦笑しながら答えた。
初めて異空間に招かれたときに比べれば、それなりに戦えるようになったと思う。
それなり。
そう、それなりに。
先見や断死戟があったところで、必ずしもうまく行くわけじゃないってことを、あの日思い知った。
もしまた、あの人が出てきたら?
今度は、負けたくない。
それに、もう誰も――
――「テメエナンカガ勝テルワケネエダロ」
湊輔は思わず振り返った。
反響するような低い声が、右後ろから聞こえてきて。
「湊くん?」
「どーした?」
「え? あ、いや、なんでも……」
二菜と雅久の不思議そうな声に、すぐさま向き直る。
すると、剣佑と巧聖も同様の面持ちをしているのが目に映った。
「あ、早く、終わらせないと……」
「だねぇ。今日は特製クリームメロンパンゲットしたいし、ぱぱっと終わらせよっか」
「あと一年しかないからな。今年はがっつり取りに行くぞ」
「剣くんはいつもじゃん」
先に歩き出した巧聖に、剣佑と二菜が続く。
「ほら、俺たちも行こうぜ」
雅久に促され、湊輔もまた表口へと向かう。
一度背後を振り返ってから。
さっき確かに、はっきり聞こえた。
気のせいなんかじゃない。
死逃視眼が発動するときに出てくる誰かの声が、このなんでもないときに聞こえた。
あの声は、あいつは……誰なんだよ、いったい。
言い知れない不穏な気配を背中に感じながら、少年は今日もまた灰色の戦場へと赴く。