表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/58

十三

 四人の視線が注がれる先から、膨大な量の黒煙が押し寄せてきた。

 その方向は、斬首された悪魔の亡骸があった場所。


 湊輔は困惑した。

 確かに倒した。

 首を斬り落としたんだぞ?

 なのになんで?

 なんでまた煙が?


 濃密な煙はやがて四人を、そして大瑚をも飲み込む。

 自身の手も足も見えない闇に捕らわれる中、湊輔は月白の剣を両手で握り締めた。


「雅久! 有紗!」


 しきりに周囲をうかがいながら叫ぶ。

 だが、答える声はおろか、得物を構える音や、足裏の鳴る音さえ聞こえてこない。


 急激に体温が下がった気がした。

 極寒の大気にさらされたように、体の表面から冷え込むのではない。

 まるで身体が内側から凍てついていく、そんな感覚。


「やめろ! みんなに手を出すな!」


 思わず暗黒に怒鳴りつけた。


 ――死に駆られて。


 雅久が、有紗が、陽向が、冷酷な鉈に斬首される――そんな光景が脳裏をよぎって。


 やがて闇がうごめき出した。

 目の前を覆い尽くしていた煙が動き、流れ始めた。

 粒子という粒子が、一斉に前方へと向かっていく。


 湊輔は身構える体をより強く緊張させた。

 薄れゆく黒煙の中、目の前にいた雅久が、左にいた有紗が、背後にいた陽向が、どうか無事であることを願って。


 まもなく、大盾を構える背中が見えた。

 咄嗟に左に、背後にと視線を巡らせる。

 いた。

 無事だった。

 誰一人として欠けていない。


「おい、無事か!」

 湊輔に一瞬遅れて、雅久が肩越しに振り返った。

 三人が静かに頷くのを見て、

「うっし、問題ねえな……!」

 と引きつった笑みを浮かべて前に向き直った。


 流れる黒煙は一点に凝縮していた。

 中空にできあがった球体はまるで深淵(しんえん)

 それは煙を吸い込みながら、徐々に膨張していく。


 やがてすべての煙が深淵の中に収束すると、球体は楕円(だえん)となった。

 変形を終えた瞬間、その上端から突き出る手。


「は、はは……うそ、でしょ……?」

 陽向が震えた声でつぶやいた。


 至極色に染まる巨大なそれは、球体を縦一文字に切り開いた。


 湊輔は雅久の隣に――いや、さらに一歩前に踏み出した。

 全身を締め上げるような圧迫感と、先ほど黒煙の中で感じたものとは違う、身を貫くような冷たさに見舞われながら。


 深淵から出てきたのは――至極の山羊(バフォメット)

 先ほどの、山羊の頭を持つ華奢な体に変貌する前の、四メートルもある筋骨隆々とした巨体。


「まただわ」

 有紗が押し殺したような声で言った。

「また傷が、なくなってる」


 胸元から左肩にかけて斬り裂かれた傷も、大瑚に両断された腕も、翼も、なにもかもが元に戻っている。

 ただ、鉈は右手に握られた一振りのみ。


 至極の山羊(バフォメット)は浅く身を屈ませ、広大な翼を羽ばたかせた。

 突風が吹き荒れ、巨体は空高く、まっすぐ飛翔する。


「た、倒しても復活するんなら、戦うだけ無駄じゃん!」


「るせえッ! 逃げても戻れねえんだから、戦うしかねえだろ!」


 雅久が喚く陽向を一喝した。


 その間、至極の山羊(バフォメット)は束の間滞空し、一度ふわりと宙で浮き上がった。

 そして落下を始める。

 鉈を両手で握り締め、大上段に構えて。


 凶刃の太刀筋の終着点は――湊輔。

 悪魔が浮き上がる直前、巨体から赤い影が浮かび上がった。

 そしてまるで同じ動作で、本体より半瞬早く落下を始めていた。


 全身が震えると同時に、奮えた。

 どうしてか、この一撃に食いかかれと、まるで本能が叫んでいるよう。


「湊輔、俺が――」


「来るなあッ!」


 前に出ようとする雅久を強く制した。

 誰も邪魔するな。

 不思議と、そんな想いに駆り立てられて。


 アイツは、おれが倒さないと……!


 一瞬、悪魔の黒翡翠(ひすい)、あるいは深い闇を思わせる目と視線が交差した。

 人間染みた情念も、野性染みた獰猛(どうもう)さも感じない眼差し。

 存在自体が、まもなく一閃する鉈に同化しているよう。


 時が、ひどく緩やかに流れ始める。


 至極の山羊(バフォメット)の着地とほぼ同時に振り下ろされた鉈が、頭から体を食い破り始めた。

 全身を拷問のように、じっくりと両断していく。


 刃が股下から抜け出ると、いっそう激しく、鮮やかな紅い潮が噴き上がった。


 巨大な悪魔を見据える視界は、凶刃が頭に侵入した時点で暗転した。

 脳を斬られた時点で、体の機能は完全に死滅した。


 そして、一度は死にまどろんだ意識が覚醒する。

 明るんだ視界に映ったのは、鉈を持ち上げ、やがて飛び上がる至極色の巨体。


 ――違う。

 これは逆行だ。

 両断された体も、鉈を振り下ろした悪魔も、巻き戻っていく光景。

 やがて、至極の山羊(バフォメット)が着地する一瞬前で、時の流れが順行し始めた。


 ――「イイ加減」


 誰かの声が低くこだました。

 同時に、体が得物を両手で握り締め、右脇に据え、胴を右にひねり込んだ。


 再び、本体よりやや早く赤い影が鉈を振り下ろした、そのとき。


――【打流(パリイ)


 ――「ウザッテエッ!」


 歯を剥き出し、忌まわしそうに喚いたような絶叫。


 体が左にひねられ、その勢いに両腕が引っ張られる。

 すると、視界の右下から得物が跳ね上がった。


 月白色ではない。


 (にび)色――無彩色の鈍い(ねずみ)色――を帯びた刀身だ。


 二つの刃がぶつかり合った瞬間響き渡る、断末魔のごとき金属音。

 ガラスの破片のような鈍色の光が弾け、跳ね上がった刀身が月白色へと戻った。


 長大な鉈は握られたまま宙を舞う。

 まもなく、刀身にひび割れが走り、砕け散った。


 至極の山羊(バフォメット)が大きくのけ反った。

 得物を弾き返された勢いに押し流されて。


 同時、湊輔は得物を強く握り締めた。

 一瞬体を乗っ取られたことを自覚している。

 とはいえ、それを気にして戸惑ってなどいられない。


 もう一撃、やれる。

 でも、どうやって?

 この至極の山羊(バフォメット)を斬れるような戦技(スキル)は、持ち合わせていない。

 そもそもこんなでかいの、こんな剣で斬れるわけないだろ。


 ――「ヤレル」


 誰かが言った。

 自信に満ちた得意顔を浮かべているような声音で。


 湊輔が目をまばたかせた途端、朧気(おぼろげ)なあの光景が脳裏をよぎった。


 そうだ、と思い出した。

 最後、悪魔を斬ったんだ。


 忘れていた。

 巨大な悪魔の印象が強すぎて、濃すぎて、最後のあの一瞬の光景を、忘れていた。


 封印でも解かれたように、夢の最後の光景が鮮明になる。

 合わせてそれに(なら)うように、自然と動き出す体。

 やれる。

 おれは、コイツを――


 本当にやれるのか?

 ふと湧き上がった疑念をねじ伏せて、両手で握り直した月白の剣を、左肩にかつぐように構える。

 そして左足を大きく踏み込んだ。


「終いだッ……!」


 不意にその言葉が口をついた。


 月白色の刀身が瞬く間に――漆黒色に染まった。

 炎、あるいは瘴気(しょうき)のようなどす黒い揺らめきを灯して。


――【断死戟(デスディナイアル)


「らああああああッ!」

 渾身(こんしん)の力をもって、勢いよく右に薙ぎ払った。

 悪魔の巨体を逆袈裟、漆黒の刃が閃く。


 直撃する一閃。

 瞬間爆裂する、敵も自分も消し飛ばすようなどす黒い衝撃波。


 完全に振り抜いたあと、得物は月白の刀身に戻った。


 至極の山羊(バフォメット)の四メートルもある巨体は、右肩から斜めに両断された。

 そして衝撃に押し流され、重厚な音を立てて背中から倒れ込む。


「……はは、は……?」


「……マジ、かよ」


 陽向が乾いた笑い声を漏らして、雅久が感嘆に声を震わせた。

 有紗は目を見張り、呆然としている。


 カラン、と月白の剣が地面にのたうった。


「湊輔……?」


 雅久が訝しげな声で呼びかけたと同時、湊輔はひざから崩れ落ちて、倒れ伏した。


「「湊輔ッ!」」


 二人の叫び声。

 すぐそばからこだましたはずなのに、ずっと遠くから聞こえてくる。


 できた。

 ホントに、できた。

 あの日、あの夢で見た、最後のあの一撃が。


 揺らぎ、薄れゆく意識の中。

 全身を蝕んでいた痛烈な冷気が、引いていく。


 ――終わった。


 悪魔の最期を確かめもせず、しかし湊輔は微笑みながら、目蓋を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ