十三
四人の視線が注がれる先から、膨大な量の黒煙が押し寄せてきた。
その方向は、斬首された悪魔の亡骸があった場所。
湊輔は困惑した。
確かに倒した。
首を斬り落としたんだぞ?
なのになんで?
なんでまた煙が?
濃密な煙はやがて四人を、そして大瑚をも飲み込む。
自身の手も足も見えない闇に捕らわれる中、湊輔は月白の剣を両手で握り締めた。
「雅久! 有紗!」
しきりに周囲をうかがいながら叫ぶ。
だが、答える声はおろか、得物を構える音や、足裏の鳴る音さえ聞こえてこない。
急激に体温が下がった気がした。
極寒の大気にさらされたように、体の表面から冷え込むのではない。
まるで身体が内側から凍てついていく、そんな感覚。
「やめろ! みんなに手を出すな!」
思わず暗黒に怒鳴りつけた。
――死に駆られて。
雅久が、有紗が、陽向が、冷酷な鉈に斬首される――そんな光景が脳裏をよぎって。
やがて闇がうごめき出した。
目の前を覆い尽くしていた煙が動き、流れ始めた。
粒子という粒子が、一斉に前方へと向かっていく。
湊輔は身構える体をより強く緊張させた。
薄れゆく黒煙の中、目の前にいた雅久が、左にいた有紗が、背後にいた陽向が、どうか無事であることを願って。
まもなく、大盾を構える背中が見えた。
咄嗟に左に、背後にと視線を巡らせる。
いた。
無事だった。
誰一人として欠けていない。
「おい、無事か!」
湊輔に一瞬遅れて、雅久が肩越しに振り返った。
三人が静かに頷くのを見て、
「うっし、問題ねえな……!」
と引きつった笑みを浮かべて前に向き直った。
流れる黒煙は一点に凝縮していた。
中空にできあがった球体はまるで深淵。
それは煙を吸い込みながら、徐々に膨張していく。
やがてすべての煙が深淵の中に収束すると、球体は楕円となった。
変形を終えた瞬間、その上端から突き出る手。
「は、はは……うそ、でしょ……?」
陽向が震えた声でつぶやいた。
至極色に染まる巨大なそれは、球体を縦一文字に切り開いた。
湊輔は雅久の隣に――いや、さらに一歩前に踏み出した。
全身を締め上げるような圧迫感と、先ほど黒煙の中で感じたものとは違う、身を貫くような冷たさに見舞われながら。
深淵から出てきたのは――至極の山羊。
先ほどの、山羊の頭を持つ華奢な体に変貌する前の、四メートルもある筋骨隆々とした巨体。
「まただわ」
有紗が押し殺したような声で言った。
「また傷が、なくなってる」
胸元から左肩にかけて斬り裂かれた傷も、大瑚に両断された腕も、翼も、なにもかもが元に戻っている。
ただ、鉈は右手に握られた一振りのみ。
至極の山羊は浅く身を屈ませ、広大な翼を羽ばたかせた。
突風が吹き荒れ、巨体は空高く、まっすぐ飛翔する。
「た、倒しても復活するんなら、戦うだけ無駄じゃん!」
「るせえッ! 逃げても戻れねえんだから、戦うしかねえだろ!」
雅久が喚く陽向を一喝した。
その間、至極の山羊は束の間滞空し、一度ふわりと宙で浮き上がった。
そして落下を始める。
鉈を両手で握り締め、大上段に構えて。
凶刃の太刀筋の終着点は――湊輔。
悪魔が浮き上がる直前、巨体から赤い影が浮かび上がった。
そしてまるで同じ動作で、本体より半瞬早く落下を始めていた。
全身が震えると同時に、奮えた。
どうしてか、この一撃に食いかかれと、まるで本能が叫んでいるよう。
「湊輔、俺が――」
「来るなあッ!」
前に出ようとする雅久を強く制した。
誰も邪魔するな。
不思議と、そんな想いに駆り立てられて。
アイツは、おれが倒さないと……!
一瞬、悪魔の黒翡翠、あるいは深い闇を思わせる目と視線が交差した。
人間染みた情念も、野性染みた獰猛さも感じない眼差し。
存在自体が、まもなく一閃する鉈に同化しているよう。
時が、ひどく緩やかに流れ始める。
至極の山羊の着地とほぼ同時に振り下ろされた鉈が、頭から体を食い破り始めた。
全身を拷問のように、じっくりと両断していく。
刃が股下から抜け出ると、いっそう激しく、鮮やかな紅い潮が噴き上がった。
巨大な悪魔を見据える視界は、凶刃が頭に侵入した時点で暗転した。
脳を斬られた時点で、体の機能は完全に死滅した。
そして、一度は死にまどろんだ意識が覚醒する。
明るんだ視界に映ったのは、鉈を持ち上げ、やがて飛び上がる至極色の巨体。
――違う。
これは逆行だ。
両断された体も、鉈を振り下ろした悪魔も、巻き戻っていく光景。
やがて、至極の山羊が着地する一瞬前で、時の流れが順行し始めた。
――「イイ加減」
誰かの声が低くこだました。
同時に、体が得物を両手で握り締め、右脇に据え、胴を右にひねり込んだ。
再び、本体よりやや早く赤い影が鉈を振り下ろした、そのとき。
――【打流】
――「ウザッテエッ!」
歯を剥き出し、忌まわしそうに喚いたような絶叫。
体が左にひねられ、その勢いに両腕が引っ張られる。
すると、視界の右下から得物が跳ね上がった。
月白色ではない。
鈍色――無彩色の鈍い鼠色――を帯びた刀身だ。
二つの刃がぶつかり合った瞬間響き渡る、断末魔のごとき金属音。
ガラスの破片のような鈍色の光が弾け、跳ね上がった刀身が月白色へと戻った。
長大な鉈は握られたまま宙を舞う。
まもなく、刀身にひび割れが走り、砕け散った。
至極の山羊が大きくのけ反った。
得物を弾き返された勢いに押し流されて。
同時、湊輔は得物を強く握り締めた。
一瞬体を乗っ取られたことを自覚している。
とはいえ、それを気にして戸惑ってなどいられない。
もう一撃、やれる。
でも、どうやって?
この至極の山羊を斬れるような戦技は、持ち合わせていない。
そもそもこんなでかいの、こんな剣で斬れるわけないだろ。
――「ヤレル」
誰かが言った。
自信に満ちた得意顔を浮かべているような声音で。
湊輔が目をまばたかせた途端、朧気なあの光景が脳裏をよぎった。
そうだ、と思い出した。
最後、悪魔を斬ったんだ。
忘れていた。
巨大な悪魔の印象が強すぎて、濃すぎて、最後のあの一瞬の光景を、忘れていた。
封印でも解かれたように、夢の最後の光景が鮮明になる。
合わせてそれに倣うように、自然と動き出す体。
やれる。
おれは、コイツを――
本当にやれるのか?
ふと湧き上がった疑念をねじ伏せて、両手で握り直した月白の剣を、左肩にかつぐように構える。
そして左足を大きく踏み込んだ。
「終いだッ……!」
不意にその言葉が口をついた。
月白色の刀身が瞬く間に――漆黒色に染まった。
炎、あるいは瘴気のようなどす黒い揺らめきを灯して。
――【断死戟】
「らああああああッ!」
渾身の力をもって、勢いよく右に薙ぎ払った。
悪魔の巨体を逆袈裟、漆黒の刃が閃く。
直撃する一閃。
瞬間爆裂する、敵も自分も消し飛ばすようなどす黒い衝撃波。
完全に振り抜いたあと、得物は月白の刀身に戻った。
至極の山羊の四メートルもある巨体は、右肩から斜めに両断された。
そして衝撃に押し流され、重厚な音を立てて背中から倒れ込む。
「……はは、は……?」
「……マジ、かよ」
陽向が乾いた笑い声を漏らして、雅久が感嘆に声を震わせた。
有紗は目を見張り、呆然としている。
カラン、と月白の剣が地面にのたうった。
「湊輔……?」
雅久が訝しげな声で呼びかけたと同時、湊輔はひざから崩れ落ちて、倒れ伏した。
「「湊輔ッ!」」
二人の叫び声。
すぐそばからこだましたはずなのに、ずっと遠くから聞こえてくる。
できた。
ホントに、できた。
あの日、あの夢で見た、最後のあの一撃が。
揺らぎ、薄れゆく意識の中。
全身を蝕んでいた痛烈な冷気が、引いていく。
――終わった。
悪魔の最期を確かめもせず、しかし湊輔は微笑みながら、目蓋を閉じた。