十二
湊輔は目を丸くした。
「陽向……」
割り込んできた陽向は、両手剣を、腕を、ひざを震わせ、どうにか大瑚の斧を受け止めている。
「は、ははは……い、いつまでもなにもしないで――」
押し込まれ、頭の位置が低くなった。
「かっこ悪く終わるのって、嫌だからねぇってひいぃッ!」
さらに押し込まれたのと、大瑚の恐ろしい形相に怖気づいてか、声を上ずらせた。
「あんな化け物相手にするよりっ」
ちょっと押し返した。
「先輩の相手してるほうが、ずっとマシってだけだからあッ!」
またちょっと押し返して、
「やっぱ無理! 無理ぃ!」
しかしせっかく押し返した分がなくなった。
「雑ァ魚がァ!」
大瑚は陽向を沈めようとして、
「あぁッ?」
目の前、ほんのわずかな隙間を縫った矢に頭をのけ反らせた。
左を一瞥すると、陽向を押しのけて後ずさった。
その足下に矢が立て続けに襲いかかり、さらに大きく遠のく。
「有紗ッ」
やめろ、と湊輔が言いかけたものの、有紗はすでに狙い澄ましている。
大瑚は有紗に体を向け、大きく息を吸い込んだ。
「こんの、『クソ女があああああああああッ!』」
放たれた咆哮は、螺旋を描く突風となって有紗に襲いかかる。
それは至極の山羊が見せた鉈の投擲よりずっと速い。
有紗は跳び退こうとしたものの、一瞬遅かった。
そしてそれに突き飛ばされたように、二、三歩後ずさってへたり込んだ。
顔面蒼白。
全身が震えている。
「もうやめろ――」
湊輔が踏み出そうとしたとき、背後から人影が飛び出した。
――【噴犀角】
「ふぅっかぁーつ!!」
雅久が大瑚に詰め寄り、大盾を突き出した。
「てめえェッ」
大瑚のうなり声が、甲高い衝撃音と重なった。
「湊輔今だ! 至極の山羊をやれ! 陽向! 早く来い!」
「はいはい、分かってるって……!」
陽向は覚束ない足取りで走り出した。
湊輔は、大瑚を足止めしている二人から顔をそらした。
右――体育館のある東を向き、悠然と佇む至極の山羊を見据えた。
細い馬脚を揃える立ち姿は、禍々しい見た目に反してどこか神々しい。
身じろぎ一つせず、湊輔を一心に見つめている。
そして視線を有紗に移した。
戸惑っている。
怖がっている。
そんな複雑な心境が目に見える。
至極の山羊の一撃を受け、鉈を投げつけられ、踏みつけられそうになった。
大瑚の咆哮を浴びて体を震わせた。
どちらの相手をするか選んだところで、危険なことには変わりない。
でも――
「有紗! 雅久を援護して!」
あの咆哮だけなら、至極の山羊の相手をするよりずっと安全だ。
それに雅久と陽向がいるから、咆えるのもままならないはず。
有紗は唇を薄く開き、半歩踏み出した。
なにか言いかけた。
なんとなく想像がつく。
「だ、大丈夫」
湊輔はぎこちなく、笑顔を繕ってみせた。
「ほ、ほら、おれ、先見あるし、ぜ、絶対、か、勝つ、から」
どうにか声を振り絞り、柄にもなくかっこつけてみた。
だがちょうど、
「邪あ魔だあああッ!」
「うぅうらああああああッ!」
誰かの吠え声と、誰かの相手をしている誰かの咆哮が被さった。
有紗は肩を落として俯く。
顔を上げると、切れ長の目が凛々しく凄んでいた。
なにも言わずに、ただ頷き、走り出す。
もしかすると、聞こえていたのかもしれない。
遠のく有紗の背中を見送る――暇などない。
湊輔は改めて悪魔を見据えた。
至極の山羊は折り畳んでいた翼を広げる。
小さく屈み、瞬く間に砂ぼこりを巻き上げて飛翔した。
それから、右の得物を放り投げた。
何度か回転して宙を駆けた鉈は、地面に突き刺さった。
大瑚を押さえる三人と、湊輔の中間に。
すると瞬く間に、柄頭から溶け崩れ、混沌を模した沼のようなものが広がる。
円状にではなく、大瑚と三人を取り囲むように。
「ブゥェエエエェェェエエエェェェエエエッ!」
頭同様、山羊のようないななきが響いた。
直後、沼の中から次々と影がせり上がってくる。
どれも異形。
個々の形を認識している余裕がないほど、数を増していく。
やがて中にいる四人の姿が見えなくなった。
「アイツ……!」
湊輔は地面に下り立った悪魔を睨みつけた。
邪魔者の排除か、四人を人質にしたつもりか。
少しずつ胸糞が悪くなってきた。
「だったら、最初からそうしろよ」
湊輔は駆け出した。
着地後、遅れて動き出した至極の山羊が、あっという間に迫ってくる。
あの黒煙の中で見た以上の速さで。
先見が予測を示す。
浮かび上がった赤い影が、右手に持ち直した鉈を斜めに一閃する。
――【打流】
「そこおッ!」
左脇に据えた得物を跳ね上げ、放たれた逆袈裟にぶつけた。
「――ッ! まだあ!」
直後、襲いかかってきた袈裟斬りに、思わず打流を繰り出した。
二振りの刃が奏でた二度目の金属音は、一度目よりもずっと激しかった。
至極の山羊はよろめき、湊輔は踏みとどまったまま。
やれる。
胸元ががら空きだ。
どうする?
渾撃は、きっと威力が足りない。
終一閃につなげようとしても、その間に立て直される。
だったら――
――【流脚】【烈破突】
湊輔は手を伸ばさなくても触れられるほど近くまで、悪魔の懐に踏み込んだ。
月白の剣を引き絞って。
「らあああッ!」
踏み込みの勢いに乗せて突き出す。
刀身は、至極の山羊の胸元から背中まで貫いた。
至極の山羊は目を見開き、歯を剥き、怯んだ。
行ける!
あと一撃!
――【抉牙】
得物を揺さぶり、ねじ込み、
「こんのッ……!」
振り払うように引き抜いた。
「ブェアッ……」
山羊の頭が鳴いた。
口元まで込み上がったものを噴き出すように。
悪魔の体は、二つの膨らみの中心から左肩までざっくりと斬り開かれた。
至極の山羊はふらつきながら後ずさると、やがて背中から倒れ込んだ。
湊輔もまた、得物を引き抜いた勢いで尻餅をついた。
「はっ……はあ……はぁ……」
荒い息遣い。
震える全身。
たった一瞬で限界まで張り詰めた緊張が解け、体が喚き出した。
「まだ、まだだ……」
これで終わりじゃ、ない。
湊輔はすかさず、ふらつきながら立ち上がる。
あと一撃。
これを叩き込まないと、この戦いは終わらない。
胸元を裂かれてもなお、至極の山羊は浅い呼吸を繰り返していた。
その頭の傍らに、足音が近づく。
やがて首筋に、月白色の刃が添えられた。
「これは……」
湊輔は右肩にかつぐように、得物を振りかぶった。
口を半開きに、見開いた目でこちらを見つめる悪魔を見下ろしながら。
――【破甲撃】
「有紗の分ッ!」
閃く月白。
断ち斬られる山羊の頭。
首を失った体から、呼吸の鳴動が途絶えた。
「はっ……はぁっ……」
湊輔は切っ先を引きずりながら数歩後ずさり、尻餅をついた。
やっと……やっと――
「終わった」
呆然と至極色の亡骸を見つめながら、消え入りそうな声でつぶやいた。
そして、不意に胸が軽くなった。
「湊輔えっ!」
同時、声がこだましてきた。
恐怖や不安、焦燥といった感情がない、陽気なそれ。
引かれたようにそちらを見ると、雅久と有紗、陽向が駆け寄ってきていた。
その向こうで、大瑚が座り込んでいる。
抱くように得物を右肩にかけて俯く姿は、ふてくされた子どもよろしく。
そして四人を取り囲んでいた無数の異形は、一つ残らず消え去っていた。
湊輔は重々しく立ち上がり、覚束ない足取りで走り出す。
「やりやがったな、このやろうっ」
合流した途端、雅久が空いた右手で湊輔の胸元を軽く小突いた。
浮かべた笑みは、どこか悔しげ。
「よかった……無事で」
有紗が肩を落とし、微笑んだ。
二人につられ、湊輔もまた、疲れ切った面持ちでぎこちなく笑った。
「これでめでたく夏休、み――」
陽向の愕然と低くなった声音。
途端、三人は素早くその視線を追った。
「今度はなんだよ……!」
雅久が大盾から短剣を引き抜き、振り返った湊輔の前へと進み出た。