十一
雅久に乱打を浴びせていた至極の山羊は、小さく浮かび上がり、両の馬脚で大盾を蹴りつけた。
いや、踏み台とするように飛び退いた。
雅久は防御体勢のまま、わずかに硬直する。
「ぅうらぁああァッ!」
「がッ……」
S字の刃がついに、その背中に襲いかかった。
雅久はうめき声と共に大きく反り返り、得物もろとも吹き飛ぶ。
二、三度地面を跳ねる持ち主と共に、大盾は重厚な、短剣は軽やかな音を立てて地面をのたうった。
「逃げんじゃねェッ、山羊面ァッ!」
大瑚は雅久に見向きもせず、遠のいた悪魔に向かっていった。
「雅久! 雅久!」
湊輔は慌てて駆け寄った。
うつ伏せになった雅久の右側にしゃがみ込み、左手で体を揺さぶる。
「おい雅久! い、嫌だ、し――」
「死ぬか、よ、バァ、カ……」
雅久は息も絶え絶えに遮ると、見るからに苦しげな横顔を向けた。
「はは……あー……かっこ、悪いとこ、見せちまった……」
「そんな場合じゃ……」
湊輔はうずくまった。
雅久が生きていると分かって。
湧き上がってくる感情に息が詰まって。
なんで。
なんでこうなった。
至極の山羊を自由に動き回らせたから。
違う。
おれがちゃんと、制服をつかんでなかったから。
……違う、違う。
悪いのは、全部――
湊輔は顔を上げた。
目を血走らせて。
噛みしめた歯を剥き出して。
月白の剣をあらん限り強く握り締めて。
「もう、いい」
声を低く震わせる。
「どっちも、ぶった斬ってやる」
立ち上がろうと左足を踏みしめた途端、ワイシャツが引きつった。
なにかと思って視線を移した先には、雅久の右手が。
「おい……バカ言ってんじゃ、ねえ、ぞ」
雅久は全身で息をしながら、かすれた声を漏らした。
「湊、輔……ここで、先輩を、斬っ、たら、下手すりゃ、人殺し、に、なっちまうだろ……」
そんなの分かってる。
でも、許せるかよ。
なにもしないで、いられるかよ。
「俺は、湊輔を、人殺しになんか、したく、ねえ……。頼むから、手ぇ、出すな。やり返すのは、俺だ……」
雅久はさらに強く引っ張った。
湊輔が頷くまで――いや、言葉にして誓うまで、離すつもりはないらしい。
湊輔は雅久から顔を背けた。
月白の刀身が目に映る。
別に、殺すつもりなんか、ない。
ただ、足か腕を斬りつけて、動けなくすれば……。
「おいっ……」
雅久が制服をつかんでいる手で小突いた。
「守護神、様、舐めんじゃ、ねーぞっ。あと、もーちょい休んだら、復活してやるからな……」
湊輔がおもむろに顔を向け直すと、雅久は笑っていた。
今にでも起き上がって、敵に飛びかかる。
そんな気炎を宿した、不敵な笑顔。
湊輔は一瞬だけ目を閉じた。
そして、気概あふれる瞳と視線を交わす。
「湊輔ッ、前!」
有紗の甲高い声に鼓膜が震えた。反射的に顔を上げる。
至極の山羊が目の前まで迫っていた。
右の鉈を振りかぶっている。
それがこれから辿るであろう軌跡の行き着く先は、雅久の頭。
湊輔はすかさず立ち上がった。
雅久をまたぐように、凶刃が描く、まもなく来たる円弧に立ちはだかった。
時が、ひどく緩やかに流れ始める。
至極の山羊の動きが、やたら緩慢になった。
鉈を振り切るまで、どれほどの時間を要するのか疑いたくなるほど。
その向こうに、大瑚の姿が見えた。
獣が牙を剥くように歯をぎらつかせている。
両手斧をかつぐように構え、こちらに向けて走っている。
言葉の認識が不可能なほど、間延びした絶叫を上げながら。
――「ブッタ斬ッチマオウゼ」
誰かの声が、低くこだました。
――「コイツモ、アイツモ」
声は背後から、右隣に回り込んできた。
――「特ニアイツハ」
誰かが手を伸ばして、悪魔の背後を指さした――気がした。
――「雅久ヲ手ニカケタンダ。ブッタ斬ッテ、苦シマセテ、ブッ殺シテヤロウゼ!」
途端に足下からせり上がってくる。
憤怒が。
憎悪が。
殺意が。
血流を伝い、頭のてっぺんから噴き出しそう。
――「デキル。オレナラデキル。アンナノロマノ攻撃、余裕デ避ケラレル。ソレカラコイツヲブッ刺シテ、ネジ込ンデヤル!」
誰かが顔を向け、狂気的な眼を突きつけてきた――そんな気がした。
誰かが、右手ごと月白の剣をつかんだ。
冷たい。
右手の感覚がなくなりそうなほどに。
湊輔は右手を振り払った。
至極の山羊を見据えたまま、静かに。
なんとなく感じる。
見えない誰かが、至極の山羊の左隣に移った気配が。
――「オレニ斬ラセロヨ! オレナラコイツモッ、アイツモッ、ブッタ斬レル! ドッチモブッ殺セル!」
「うるさい」
湊輔は月白の剣を両手で握り締めた。
「おれが倒すのは至極の山羊だけだ。おれはあの人を、いや、仲間は絶対に、斬らない。お前なんかに、好き勝手やらせるかよ。どけよッ、消えろ!」
――「チイッ」
湊輔が月白の剣を右上に跳ね上げた瞬間、誰かは気配を消した。
そして、刀身は円弧の中ほどに達していた鉈に直撃する。
時が、平常に流れ始める。
ギイィン! とこだまする、空気を切り裂くような甲高い音。
至極の山羊は弾かれた得物に引っ張られ、よろめいた。
「だあッ!」
湊輔はすかさず斬りかかるものの、すんでのところで躱された。
「ああああああァッ!」
至極の山羊が飛び退いてまもなく、大瑚が突っ込んできた。
視界に浮かび上がる赤い影。
大きく踏み込んでからの上段斬り。
その勢いに乗せて体を横に一回転。
そこからさらに上段斬りを仕掛けてくる。
こんなの、殺しにかかってきているとしか思えない。
避けられないほどでもない。
けど後ろには雅久がいる。
一撃目ははずしても、二撃目は絶対に当たる。
だったら打流で弾くか?
至極の山羊の鉈ができたなら……いや、もしこの人の腕力が至極の山羊以上だったら?
わずかばかりの迷いは、湊輔の動きを大きく遅らせた。
「くそぉ……!」
もう、受け止めるしかない。
S字の刃が笑いかけた瞬間、目の前に人影が飛び込んできた。
鋭い金属音が鳴り響き、二つの刃が軋り合う。