十
そこに佇んでいたのは、どこか華奢な印象を覚える小さな影。
細い馬脚。
丸みを帯びた二つの膨らみを持つ上半身。
皮膜のついた翼。
両手に握った一対の鉈。
象牙色に染まる、二本のねじれた角。
至極色に染まる全身。
湊輔は目を見張った。
絞り出すように小さくつぶやく。
「――至極の山羊だ」
「いや、違えだろ?」
雅久がうろたえた。
体育館の上と湊輔を交互に見る。
「至極の山羊って、ほら、もっとでかかっただろ? 俺より背ぇ低くねーか? アレ」
「てゆーかさ」
陽向が割り込んだ。
「あんなセクシーだったっけ? いや絶対あんなんじゃなかったし……?」
「それにあの頭」
有紗が切れ長の目を細めた。
「馬じゃなくて、山羊よね」
そう。
体の大きさも、体形も違う。
そしてもう一つ明らかに違うのが頭だ。
あの先細った短い形は馬ではない。
山羊だ。
「いや、至極の山羊だ」
それでも湊輔は断言した。
アイツを見た途端、あの感覚がぶり返した。
体がわずかに締め上げられる程度だけど。
それに――
「煙の中で見たんだ、先見で。おれに襲いかかってきた赤い影が、アレと同じ形をしてたんだよ」
「影……? いや、じゃあなんで腕と翼があんだよ? さっき広瀬先輩がぶった斬ってただろ?」
「それは……」
湊輔は言いよどみ、探した。
雅久の言う、大瑚が斬り落としたものを。
見当たらない。
どこにも転がっていない。
「おォいッ!」
大瑚が野太いがなり声を張り上げた。
湊輔はふとそちらを見る。
屈強な長身が大胆不敵に、両手斧の先端を体育館の屋根――至極の山羊へと差し向けている。
そのまま足早に、体育館に向かって歩み寄った。
「下りてきやがれェッ、山羊面ァッ!」
至極の山羊は虫けらを眺めるように大瑚を見下ろした。
それから鼻先を湊輔たちに――いや、湊輔へと向けた。
小柄になった悪魔が、翼を羽ばたかせる。
屋根から飛び降り、地面が近づくとまた翼を羽ばたかせた。
やがて音を立てることなく、淑やかに着地した。
「くはは……あァーッはッはッはッはァッ!」
大瑚が艶笑を極め、至極の山羊へと躍りかかった。
「うらあァ! おらあァ! らああァッ!」
狂喜乱舞する刃のことごとくを躱し切る至極の山羊。
その動きは軽やかでしなやか。
まるで舞踏。
「どォしたァ? どォしたどォーしたァ? さっきの威勢はァ! どこにやっちまったんだよォ!? そんなんじゃ全然ッ! 全ッ然気持ちよくなんねェぞォッ!」
湊輔は息を呑んだ。
至極の山羊の目が、どこか人間染みた、理性的な眼差しを帯びていて。
それは眼前で暴れ狂う獣を、冷ややかに見据えている。
もし、言葉を理解できるほどの知能があるなら、きっと蔑んでいるに違いない。
至極の山羊は大きく跳びのくと、蹄の先をそらして飛び上がった。
「後ろ!」
湊輔は叫びながら振り返った。
悪魔は四人の後方へと舞い下りた。
「ちょ、そーゆーの勘弁してっ」
陽向がびびりながら素早く退いた。
「おめえら、下がれ!」
雅久が先頭に出た。
有紗は矢をつがえながら、湊輔の左後ろに移動した。
至極の山羊は翼を折り畳みながら前傾して、走り出した。
「はッ、今度は押されねーぞ!」
雅久が重心を落とし、身構えた。
「えっ、ちょっ、うそでしょッ……!」
陽向がいきなりその場から離れた。
なにやってんだ、と湊輔が顔を横向けた途端、
「どきやがれ雑魚があァッ!」
視界の右端に、怒号を放って猛進してくる大瑚が見えた。
前からは至極の山羊が、後ろからはあからさまに敵意を振り乱した大瑚が迫ってくる。
「雅久、逃げろ! 後ろ!」
「は? ……あ?」
雅久は肩越しに背後を一瞥し、
「うそだろおいッ」
体を左に向け、大盾を引きずるように後退した。
「ふぅんぬあああッ!」
四人が散開してまもなく、悪魔だけとなった空間を薙ぎ払う両手斧。
至極の山羊は大瑚の一撃を悠々と躱し、また飛び上がる。
そして翼で大気を打ち、大きく後退した。
「おい! 俺たちを殺す気かよ!」
雅久が大瑚へと声を荒げた。
先輩相手とはいえ、殺されかけたら敬語もくそもない。
「ッせえぞ雑魚がァッ!」
大瑚は至極の山羊から視線をそらさず叫んだ。
「邪魔すんじゃねえェッ!」
雅久が「てめえっ」と憤ると同時、大瑚は得物を振り上げて走り出した。
「あのヤロウ……!」
雅久は屈強な背中を追うように駆け出した。
とはいえ、大盾が重いせいか、大瑚が速いせいか、距離はどんどん離されていく。
「雅久!」
湊輔が呼び止めようとしたものの、遅かった。
至極の山羊だけでも厄介だというのに、これでは、敵がもう一つ増えたようなものだ。
まずい。
最悪だ。
だからあの人とだけは一緒になりたくないんだよ。
「邪魔……」
有紗がうなった。ギリィ、と弓弦を引き絞り、しかし矢を放たない。
至極の山羊に向けた射線に、大瑚が重なっているから。
――【縮地】
湊輔は吹き荒ぶような勢いを発揮して駆け出す。
とりあえず雅久を止めないと。
それでいいかどうかなんて分からない。
二人を追い越して至極の山羊に斬りかかったほうがいいかもしれない。
いや、今みんながバラバラになるのは、避けないと。
湊輔が走り出してまもなく、至極の山羊が再び飛翔した。
今度は湊輔の頭上を越え、そのすぐ後ろ、数歩先へと下り立った。
「くそっ」
湊輔は咄嗟に急制動をかけ、体の勢いが完全になくなったと同時に振り返る。
瞬間、予測を示す先見。
赤い影は体を左に回転させ、凶刃を連続で振り回してくる。
右の鉈の袈裟斬り、回転して、左の鉈の左薙ぎから、右の袈裟斬り。
再び回転して、左を振ると見せかけ、右による上段斬り。
全部で四連撃。
――【流脚】【打流】
袈裟斬り、左薙ぎ、袈裟斬りを跳び退いて躱す。
最後の上段斬りは、月白の剣をぶつけてはねのける。
不思議と打流がうまくいった。
至極の山羊の体勢を崩すまでには至らなかったものの、勢いに押されて自分がよろめくことはなかった。
コイツ、体が小さくなって腕力が落ちた――のか?
「これなら――」
やれる。
また先見が予測を示す。
それに従い、流脚と打流を織り交ぜて連撃をしのいでいく。
どの一撃も速い。
それでも、追いつけないほどではない。
「湊輔ッ、逃げろッ!」
雅久の声が背中を打った。
「しまっ――」
なんで忘れてた?
至極の山羊に対抗できて、調子づいたから?
けど、やめてくれ。
今はとにかく。
同時、振り下ろされた凶刃に向けて月白を跳ね上げた。
だが、一瞬意識がそれたせいか打流は失敗し、二つの刃が噛み合ってしまう。
湊輔が至極の山羊と膠着していると、
「ぁぁぁああああああッ!」
背後から荒々しい絶叫が、急速に肥大してくる。
「ふぅん――」
至極の山羊が湊輔を押しのけて舞い上がった。
湊輔は押された勢いを利用し、流転避で後転する。
「ぬあああッ!」
ブゥン! と吹いた、野太い風切り音。
もう、ホントおかしいから、この人。
「避けて!」
有紗の叫び声に反応してか、体が勝手に右に転がった。
降り注いだ一対の刃が、半瞬前の湊輔を三つに斬り裂いた。
「うぅらあああッ!」
直後、大瑚が振り返りざまに両手斧を振るった。
その手前で湊輔は見た。
先見が示す予測を。
大瑚から浮かび上がる、赤い影を。
湊輔が咄嗟に後転するのと同時、至極の山羊も左に跳び、斧の太刀筋から離脱した。
――【猛嚇咆】
『ウオオオオオオオオオッ!』
雅久の咆哮が轟いた。
至極の山羊は鼻先を湊輔から背けると、翼を羽ばたかせて大盾を飛び越えた。
雅久は振り返るなり大盾を構える。
「くっそ……!」
着地するや飛びかかってきた悪魔に対し、絶壁は間に合わなかった。
構え直す暇を与えないように、至極の山羊は次々と斬撃を繰り出す。
「うらあ!」
その合間に雅久が大盾を突き出して反衝を狙うものの、鉈を捉えられない。
むしろ遅すぎるほど。
「やめろおッ!」
湊輔は縮地で駆けた。
雅久の背中に迫る大瑚に。
S字の刃をぎらつかせて躍りかかる背中に。
伸ばした左手が、からくもワイシャツをつかんだ。
「やめろおおおッ!」
だが、勢いを殺すには至らず、それは手元からすり抜けていった。