九
咆哮が轟いた。
いや、もはや爆裂だ。
建物にはめ込まれていたガラスというガラスが、音を立てて一斉に割れた。
その傍ら、湊輔たちは両耳をふさぎ、屈み込んだ。
それをする意味はまったくないと解っていながらも。
やたら長く続く爆音の中、
「ははははッ、はァーはっはっはっはァッ!」
凄烈な音波を間近で浴びているにも関わらず、大瑚は高笑いを上げていた。
「最高だぜェ、最高だ『ぜええええええェェェッ!』」
悪魔に対抗するかのように、今度は猛嚇咆のごとく咆え猛た。
湊輔は苦しげに顔をゆがめながら、咆え合う一体と一人を見据えていた。
なんなんだよあの人。
あんな間近で咆えられたら、普通鼓膜が裂けるだろ。
まさか、鼓膜までガッチガチ……は、ないよな、さすがに。
ようやく激しい空気振動が止むと、至極の山羊は頭をもたげた。
体をのけ反らせ、大きく息を吸い込む。
また咆える気か、と湊輔は強張った体をさらに硬くした。
悪魔が頭を振り下ろした途端、口元から黒い煙が噴き出した。
濃密で膨大なそれは、瞬く間に至極の山羊自身と大瑚を飲み込んだ。
やがて湊輔たちにも押し寄せてくる。
「――ッ! 逃がすかよ……!」
湊輔は立ち上がるなり縮地を発揮して、自分から黒煙の中に突っ込んだ。
「湊輔えッ!」
「湊輔ッ」
駆け出したとき、雅久と有紗の声が聞こえた。
でも、止まってなんかいられない。
またいなくなるんじゃないか?
今回は腕と翼をもがれた。
いなくなって――いや、逃げたっておかしくない。
……そういえば、体に傷がなかった。
前に、あれだけ先輩たちに斬り刻まれたはずなのに。
煙の中はもはや闇。
自分の手元すら見えない暗黒の中に突入し、湊輔はやがて駆ける足を緩めた。
巨体に向けてまっすぐ走ったはず。
それなのに、なにかにぶつかるようなことはなかった。
止まるのが早すぎた?
それとも、脚の間を通り抜けた?
だったら、広瀬先輩にぶつかってもおかしくない。
あたりをきょろきょろ見回し、それがまちがいだと気づいた。
自分がどこを向いているのか、まるで分からなくなって。
そして音が、一つも聞こえない。
笑い声、叫び声、蹄や翼の音。
なにもかもが。
「どこだよ」
うなるように声を漏らした。
聞こえた。
自分の声がはっきりと。
月白の剣を両手で握り締め、正眼に構える。
まったく見えない。
すぐそこにあるはずの刃が、まったく。
「どこだよ! 至極の山羊!」
思わず声を荒げた。
自分ひとりだけ、まるで別の空間に迷い込んだような、空虚な孤独に駆られて。
今にも長大な刃が襲いかかってきそうな、冷たい恐怖を覚えて。
体を左に向けた瞬間、浮かび上がった。
目線よりも背丈の低い、赤い影が。
それを視認するのと、それが眼前に迫ってきたのはほぼ同時だった。
影はあっという間に、気づいたときの二倍以上の大きさに肥大した。
「あ……」
首から下の感覚が薄れ、まもなく脳天に鈍い痛みが走った。
その直前、宙を漂う感覚があった気がする。
やがてカララン、と金属がのたうつ音と、ドサッとなにかが倒れ込むような音がした。
なにが起こったか、さっぱり分からない。
一つ言えるのは、自分の体を動かしているつもりなのに、動いている感覚がしないこと。
……急に、なんだか、眠くなってきた。
気づけば、体の感覚が戻っていた。
しっかり両手で剣を握り締め、目を見開き、身構えている。
なにを思うでもなく、体ごと左を向いた。
瞬間、見覚えのある光景が目に飛び込んできた。
赤い影だ。
先見が示す予測。
不思議と、それがどこかゆっくり移ろっているように思えた。
――「セケエコトシテンジャネエッ!」
誰かの声が忌まわしげに叫ぶと同時、
――【打流】
体が瞬時に構えを改め、月白の剣を右下から跳ね上げた。
赤い影が振り払ったなにかとぶつかり、カアン! と響く軽快な金属音。
直撃のあと、赤い影は消失する直前、視界のすぐ横を通り抜けていった。
「くそ……!」
死逃視眼が発動した。
発動させてしまった。
湊輔は悔やむ気持ちを押しのけながら反転する。
いない。
いや、見えるわけがない。
赤い影は、ただの予測。
敵の攻撃が終われば、すぐに消える。
それより、至極の山羊は?
今の影は、いったい――
湊輔が反転してすぐ、周囲を覆い尽くす黒煙が異変を見せた。
まるで粒子が落下するように崩壊していく。
やがて自分の手元が、グラウンド一帯が見えた。
今湊輔がいるのは、B棟校舎、連絡通路、体育館に囲まれた袋小路の手前。
確かに至極の山羊がいた地点で足を止めていた。
しかし、悪魔と大瑚の姿がない。
「湊輔!」
切迫したような声に振り返った。
雅久と有紗が心配そうな面持ちを浮かべ、陽向はへたり込んでいる。
湊輔はすぐさま三人の下へと駆け寄った。
「おい、大丈夫かよ?」
有紗と共に、慌ただしく近づいてきた雅久が尋ねた。
「う、うん、大丈夫」
「びびらせんなよ……らしくねーぞ」
「らしくない?」
雅久のため息混じりの言葉に、湊輔は小首を傾げた。
「あー、いや」
雅久は一度俯いてから苦笑した。
「前の湊輔だったら、絶対しなさそうなことしたからよ」
「え、そうか……?」
湊輔に横目を向けられた有紗は、視線を落として頷いた。
どこか悲しげに、寂しげに。
そう見えたのは、気のせいかもしれない。
「あ、あのさ……それより至極の山羊は? 広瀬先輩は?」
「ああ、広瀬先輩なら」
湊輔は振り向き、B棟校舎の方角に向いた雅久の視線を辿った。
いた。
先ほど立っていた場所から西――袋小路の反対側にずれている。
だいたい十から十五メートルほど。
なんで気づかなかったんだろ。
「有紗、至極の山羊は?」
順風耳なら、敵の居所が分かるはず。
有紗はしかし首を横に振った。
「なにも聞こえないわ」
険しい表情をしているあたり、そんなのあり得ない、と疑っているのだろう。
「じゃあどこに――」
「ねぇ、あれあれ」
湊輔があたりを見渡そうとしたとき、陽向が体育館の屋根を指さした。
湊輔、雅久、有紗がそちらを見る。
「なんだあれ?」
雅久が顔をしかめて、怪訝に声を低くした。