七
やや遅れて湊輔、有紗、陽向が駆け出した。
雅久が中ほどを過ぎたところで、悪魔の鼻先が下向いた。
左半身を前にし、右腕を後ろに引く。
馬脚が地面を蹴った直後、巨体に見合わない俊敏さと共に、大きく踏み込んだ。
――【絶壁】
右の凶刃による左薙ぎが大盾を捉え、バアン! と鋼板を打ち据えるような音が凄烈に響いた。
「ぐぅぅ……!」
雅久はすかさず構え、悪魔の斬撃を見事受け切った。
右後ろに大きく押しのけられながらも。
矢継ぎ早に左の鉈が躍りかかった。
地面を重々しく踏み鳴らす蹄の音。
鋭い風切り音。
野太い痛烈な金属音。
「ぐうぅぅぅッ……!」
雅久が漏らしたうなり声。
刹那の四重奏が戦場に消え入ったころ、雅久は湊輔たちと並ぶ位置まで押し下げられていた。
「雅久、替わるぞッ」
「待てよ!」
飛び出そうとする湊輔を、雅久は短剣を真横に伸ばして制した。
「守護神様舐めんじゃねえッ」
明らかに強がってる。
だって、剣先が、大盾が、全身が小さく震えてるから。
なのに、ホント、よくそんな状態で、笑えるよな。
「とにかく下がってろ!」
雅久が叫んだ直後、至極の山羊が右の鉈を掲げた。
巨体が反り返り、刀身がその背後に隠れるほど、大振りに。
湊輔は直感し、戦慄した。
さすがにこの一撃は、まずい……!
――【長遠射】
湊輔が口を薄く開くのと同時、頭上でヒュン、と風切り音が吹いた。
至極の山羊の右脚がわずかに下がり、「フゥゥゥ……」とうなるような吐息が聞こえた。
きっと有紗も察したのだろう。
だからこそ、この瞬間に矢を放った。
馬の頭めがけて。
しかし弓弦の音を聴き取っていたか、弓を引く姿が見えていたか。
悪魔は直撃よりわずかばかり早く、射線から頭をそらした。
至極の山羊が左の蹄で地面を蹴り、大きく引き下がった。
右半身を後ろにした巨体の、両腕と胸筋が大きく開くように引き伸ばされる。
やがて右腕が振り抜かれた途端、鉈が消えた。
正確には、湊輔たちを通り越し、後ろで弓を引く有紗に飛びかかった。
コイツ、鉈をぶん投げやがった。
湊輔は振り返らずにはいられなかった。
もう、声を出す余裕すらない。
「っはぁ……」
目を見張りながら、のど元に詰まった息を吐いた。
有紗は無事だった。
突き立った鉈の横に、中腰で立っている。
肩を上下させ、弓矢を持つ両手を震わせながら。
至極の山羊が狙いをはずしたわけではない。
有紗が間一髪のところで横に跳び、からくも直撃を免れたのだ。
もし、ほんのわずかに反応が遅れていたら……。
「有紗、逃げろおッ!」
雅久が声を荒げた。
激しい焦りを帯びたそれ。
湊輔が振り向いたすぐあと、分厚い羽音がした。
見上げようとするより早く、有紗に至極色の巨影が躍りかかった。
左の馬脚を、無慈悲な鉄槌のごとく叩きつける。
――【跳脚】
踏みつぶされる前に、有紗は右に二度、大きく跳んだ。
一度目の着地の瞬間、蹄の着弾地点から広がった揺れに足を取られたらしい。
二度目の跳躍は、あまりにも短くなってしまった。
「アイツ……!」
湊輔は歯噛みしながら、ふらつく体を無理やり持ち直した。
また有紗を狙った。
雅久が猛嚇咆を使ったのに。
さっきまで雅久を狙ってたのに。
まさか、効いてない……?
――【縮地】
吹き荒ぶような勢いで疾駆する。
月白の刀身を右肩にかけて。
四メートルの巨体に対して、得物の届く範囲は脚まで。
突き刺そうと、斬ろうと、どのみち浅く、大したダメージも与えられないだろう。
――それでも、もしかしたら。
一縷の望みをかけて、悪魔へと突進する。
至極の山羊は放り投げた鉈をつかみ上げ、馬の頭を横向けた。
左腕が、切り上げの予備動作を見せる。
右脚を軸にして、左脚を低く浮かばせた。
蹄の先が有紗に向けて伸びる。
――かと思えば、急に真後ろに移った。
左半身が、急速に迫る人影に向く。
しまった、と思いながら、湊輔は構えていた得物をかざした。
鉈がこれから描く軌跡に向け、折り曲げた左腕に添えて盾とするように。
「ぐあっ――」
瞬間、全身が消し飛ぶような衝撃が走った。
円弧を描いて振り払われた鉈が、湊輔の体を吹き飛ばした。
見えていた。
先見の示した予測が。
ただ、それは光跡ではなく――影。
赤い影が、至極の山羊の体から浮かび上がり、本体より先に左の鉈を振り払っていた。
これまでと異なる事態に、湊輔は一瞬戸惑った。
だから、すんでのところで避けられたかもしれない一撃を受け、宙を漂った。
今まで味わったことのない長い浮遊感。
直後、背中に鋭い痛みが走り、全身が小さく跳ねながら転がる。
ようやく体が止まったところで、湊輔は息を浅く繰り返しながら、頭を持ち上げた。
目を離すな。
絶対、アイツから目を離すな。
とにかく、起きないと。
……あれ?
右手から硬質な感触が消えている。
剣が、ない。
「うおおおおおおおおおッ!」
苦し紛れにも聞こえる雅久の咆哮。
しかし、周囲のなにもかもを震わせるほどの重みはない。
ただの叫び声。
視界に赤い影が浮かび上がった。
上空から降りかかってくる。
高々と掲げられた一対の刃が、一斉に振り下ろされる。
「うあああぁぁぁッ……!」
湊輔は悲鳴を上げる全身に鞭打って、起き上がる。
左に跳び込み、赤い刃の着地点から逃れる。
そのとき、見えた。
視界の左端、やや遠く。
つかんでくれと言わんばかりに、月白の剣が柄を向けて横たわっている。
――【縮地】
背中越しに、ズダアン! と地面が爆ぜるような音を聞き流しながら駆ける。
得物までもう少し。
跳ぶように大きく踏み込み、月白の剣をつかみ取った。
瞬間――
時が、ひどく緩やかに流れ始める。
間に合った。
月白の剣をつかむのには。
間に合わなかった。
至極の山羊の動きに応じるのには。
巨体が開脚して踏み込む幅と、長大な凶刃の太刀筋。
二つが相まった間合いは、湊輔を捉えるには十分すぎる。
――「チンタラシテンジャネエッ」
頭の後ろで声が響いた。
ただ気配だけで存在する、誰かの声が。
途端に体が引っ張られたように、左に倒れて、転がった。
時が平常に流れ始めるのと、鉈がすぐ真上を薙いだのは同時だった。
湊輔はすかさず立ち上がり、振り返る。
至極の山羊はもう、次の手を下そうと構えていた。
いや、もう振り下ろされている。
「――ッ」
流脚で右に跳んで避けた。
地面から土くれが飛び散り、ほこりが舞い上がる。
三撃目が来る。
そんな直感に、湊輔は月白の剣を両手で握り締めた。
……しかし動かない。
悪魔はいきなり動きを止めた。
そして馬頭の鼻先が小さく持ち上がり、B棟校舎と体育館をつなぐ連絡通路へと向いた。
湊輔も振り向いた。
まさか。
やっぱり。
そんな相反する思いが入り混じる。
視界にそれが映り込んだとき、言い知れない不安にかき立てられた。