六
やがてせり上がってくる。
舞台に登場する演者のように地面の下――まさに奈落から。
これまで三度見てきた。
たった三度。
されど三度。
この体を締め上げるような不快感、そしてその巨大で異様な姿を忘れることは、決してないだろう。
馬脚を有した、屈強な巨体。
あまりに広大な、一対の翼。
象牙色のねじり曲がった角を生やした、馬の頭。
長大な鉈を両手に一振りずつ握る、至極色の悪魔。
「――至極の山羊……!」
『ブゥアアアァアァアァアァァァアアア!』
牛のごとく低く野太い咆哮が轟いた。
体育館や校舎にはめ込まれているガラス窓が一斉に、ガタガタと激しく音を鳴らす。
立っているのがままならないくらい、地面が大きく震動する。
何十メートルと離れているのに、鼓膜が破れそう。
それ以上に、全身が潰される――ような気がした。
湊輔は耳をふさぐことなく、ただ立ち尽くしていた。
耳鳴りはやがて頭痛に派生する。
身体が自分でも分かるくらい、震えている。
はっきり言って、怖い。
でも、今度は逃がさない。
倒す。
有紗を手にかけた分を、絶対に返す。
湊輔は月白の剣を強く握り締め、一歩踏み出した――
瞬間、対刃種が走り出した。
二振りの舶刀をぎらつかせ、悠然と佇む至極の山羊へと猛進する。
至極の山羊が鉈を持った両腕を、外から内に、なにかを抱きしめるように動かした。
野太い風切り音が大気を吹き抜ける。
悪魔の眼前に迫った対刃種は、胸部、腹部、下半身の三つに分断された。
冷淡で呆気ない斬撃は、あたかも鎌鼬。
『ブゥアアアァアァアァアァァァアアア!』
至極の山羊がまたも轟然たるいななきを発した。
対刃種を斬り捨てて勝ち誇っているのか、湊輔たちを挑発しているのか。
悪魔が咆哮をやめたあと、湊輔は背中越しにズン、ズンと重厚な足音を聞いた。
走るというより、足早に歩いて踏み鳴らしている音。
至極の山羊から目を離したくはない。
それでも、背後に迫るものを確かめずにはいられなかった。
肩越しに振り向くと、鋼甲種がいた。
肩を怒らせ、視線をまっすぐ西に向けて突き進んでいる。
コイツもまた、至極の山羊を狙っているらしい。
湊輔はふと思った。
悪魔は巨影たちを呼び寄せた。
あの二度の咆哮は、ある意味猛嚇咆と同等――いや、それ以上なのかもしれない、と。
固唾を呑み、通り過ぎていった鋼甲種の背中を凝視する。
生半可な戦技では砕けない外骨格が、鉈によってどうなるのか気になって。
「湊輔」
有紗が駆け寄ってきた。
色白な顔は青ざめている。
しかし、切れ長の目は決意を宿しているように凄んでいた。
「戦える?」
湊輔は目を伏せた。
大丈夫? じゃないんだ。
そりゃそうか。
大丈夫でも、大丈夫じゃなくても、戦わなきゃ、アイツを倒さなきゃ、戻れないんだし。
「戦える。戦わないと」
自分に言い聞かせるつもりで、声を張って答えた。
顔を上げ、有紗と共に悪魔と巨影の成り行きを見守る。
至極の山羊が左の鉈を地面に突き立てた。
あの動作は、地面に黒い沼を作り出し、仲間を呼び寄せるもの。
だが、違った。
悪魔は一瞬身を低くすると、巨翼を羽ばたかせ、空高く舞い上がった。
吹き荒れた突風に、鋼甲種はその堅牢な見た目通り動じることはない。
灰色の空で、至極色の影が広がった。
飛翔の際にすぼめた巨翼を開いたから。
その正中線の上方に、鋭い刃が掲げられた。
右手で握る鉈の柄に、左手が添えられる。
やがて滞空を終え、悪魔は落下し始めた。
滝水のごとく、真下で空を仰いでいる鋼甲種へと降り注いだ。
「なッ――」
湊輔は絶句した。
閃いた一撃が、怖気がするほど滑らかで。
岩石を削るような荒々しい音を立てることなく、鎧をまとった巨影は真っ二つに割れた。
至極の山羊は血振りをするように鉈を払い、突き立てていた鉈をつかみ上げた。
そして、ねじれた角を生やした馬の頭が、こちらを向いた。
途端に全身が――凍てついた。
極寒の大気にさらされ、全身の肌がひび割れるような感覚。
血の巡りが止まり、しかし腐ることなく死を迎えそう。
分かる。
アイツが、今まさに、確実に、殺しに来ていると。
「湊輔えッ!」
聞き慣れた声の絶叫が背中を打った。
振り返るより早く、声の主は隣に並び立った。
「やっぱりアイツだったんだな」
雅久の声は震えている。
そのくせ、どこか大胆不敵な様相。
こいつもこいつで、やる気なんだな、と思いつつ湊輔は頷いた。
「ちょいちょいちょいちょい……あんなのとやり合うの……?」
背後で陽向が声を上ずらせた。
振り返って見るつもりはないけど、たぶん及び腰になってると思う。
それよりアイツ、こっち見たまま動かない。
殺しに来てるはずなのに、いや、だからこそこっちの出方をうかがってるのか。
だとしたら、今誰かが武器を差し向けた瞬間、飛びかかってくるんじゃないか。
「陽向、逃げんなよ? どーせ逃げてもこっから戻れねえけどな」
雅久が笑っているように、しかし低く凄ませた声音で言った。
「は……はは……」
陽向は引きつった笑い声を漏らした。
「いやぁーもぉー逃げたいなー、帰りたいなぁー……。せっかくこれから夏休みエンジョイしよーってのに、こんなところで死にたくないなー……」
「はっ」
雅久が鼻を鳴らすように笑った。
「じゃあここでアイツぶっ倒して、気持ちよく夏休みエンジョイしよーぜ」
「あぁーもうっ……」
陽向は大きくため息をついた。
「やるよ。やればいいんでしょ、やれば」
「うっし、全員覚悟決まったな。――湊輔、俺が一番槍でいいだろ?」
雅久は大盾と短剣を構えた。
湊輔は息を呑んだ。
今、アイツが動き出しそうな気がして。
でも、まったく動き出さない。
上半身を浅く屈めただけ。
悪魔って、こんな正々堂々と構えるものなのか?
「うん、頼む」
「うっしゃあッ!」
雅久が威勢よく飛び出したのは、湊輔が「うん」と言った瞬間。
――【猛嚇咆】
『ウゥオオオアアアアアアッ!』
きっと二度に渡る悪魔の咆哮が聞こえていたのだろう。
いや、聞こえていないほうがおかしい。
放たれた咆哮は至極の山羊のそれに対抗するように、これまで以上に激しく轟いた。