十
至極の山羊の三度目の襲来から、二日の休日と一日の登校日をまたいだ日。
定期試験のために学校は午前中で終わった。
尾仁角高校から尾仁坂駅の途中にある尾仁坂商店街。
その脇道沿いにひっそり佇む『喫茶イチゴ』に、湊輔は雅久と一緒に訪れた。
「なあ、時間まちがえてたりしねえよな?」
雅久がスマートフォンの画面を覗きながら、どこか不安げに尋ねた。
湊輔もスマートフォンを取り出し、リレイトのグループトーク画面を開いた。
「午後一時に『喫茶イチゴ』に集合……」
先日泰樹が送ったメッセージを読み上げた。
「まちがってないな」
「なのにだーれも来てねーじゃねーか」
雅久の言う通り、店の前にいるのは二人だけ。
「まだ十分前だし、おれたちが早いんだろ?」
「集合時間って五分前か十分前には来るもんじゃね?」
なんでかそういうところ、細かいというか律儀だよな、と思いながら湊輔は苦笑した。
雅久のぼやきに応じたように、店の扉が、キイィ……と年季の入ったような音を立ててゆっくりと開いた。
「誰かと思えば我妻と遠山か」
顔を出したのは泰樹だ。以前訪れたときと同じように、薄いストライプの入った白いワイシャツに黒いジーンズ、そして灰色のエプロン姿。
とはいえ、一つ、前回とは違うものがあった。
「……なんだ?」
泰樹はしかめ面をさらにしかめた。
「あー、いや……」
雅久が声を震わせた。泰樹を怖がっているわけではなく、笑いをこらえているように。
「それ、可愛いッスね」
視線の先はエプロンの胸元。
そこにはデフォルメされた、えらくご機嫌な猫の顔がプリントされている。
「るせえ。理桜が渡してきたのがこれだったんだよ」
泰樹はため息混じりにぼやいて振り返った。
「早く入んな」
店内に踏み入るとまた、時代を遡ったようなレトロな雰囲気に包まれた。
「今日は人数が多いからな。好きなとこに座んな」
泰樹に言われると、雅久はまっすぐカウンター席に向かった。
「へへっ、こーゆー席、一回座ってみたかったんだよな」
「あ、いらっしゃいませー」
店の奥から顔を覗かせたのは、泰樹の妹の理桜だ。
泰樹からおしぼりを乗せたトレーを奪うと、二人に歩み寄り、
「どうぞ、おしぼりです」
とそれを差し出した。
「ありがとっ。もしかして理桜ちゃんも早上がり?」
雅久がおしぼりを取り上げながら訊いた。
傍ら、湊輔は雅久が差し出したおしぼりを受け取った。
「はいっ、尾仁中も今テスト期間です」
理桜はにこにこ笑って答えたあと、空になったトレーを持って下がっていった。
おしぼりで手を拭いていると、扉の開く音が鳴った。
「よお、泉」
三人目は有紗だ。
「好きなとこに座んな」と泰樹に言われ、カウンターの奥側の席、湊輔の右隣に立った。
「湊輔、隣、いい?」
「あ、うん、どうぞ」
湊輔はぎこちなく笑って答えた。
有紗は腰かけ、理桜が差し出したおしぼりを受け取った。
「なあ」
雅久が頬杖をつきながら、湊輔の脇腹をつついた。
にやーっと意地悪そうな笑みを浮かべながら、小声で訊いてきた。
「いつから名前で呼ぶようになったんだよ?」
「まあ……この前」
湊輔も小声で返した。
有紗がいるすぐそばでそれを訊かれたのと、答えるのが気恥ずかしいというのが相まって。
「へえー……そうか……」
雅久は含みのある相槌を打つと、
「なあ泉さんっ」
と湊輔を押しのける勢いで身を乗り出して、
「俺も名前で呼んでいいッ? つか俺も名前で呼んでほしんだけどッ!」
吠えながらはしゃぐ子犬のように声を張り上げた。
こいつ直球だなー、と湊輔は眉をひそめた。
横目で有紗を見ると、え、急になに? みたいな感じで、体を少し引いていた。
「我妻」
ハスキーな声が低くこだました。
「うッス」
雅久が顔を向けたところで、背中を向けていた泰樹は肩越しに振り向いた。
「るせえぞ」
その横顔は、いつも異空間で見せている鬼の形相に近かった。
「サーセェン……」
雅久は苦笑いを浮かべて、蚊の鳴くような声を漏らしながら縮こまった。
「ドンマイ、雅久」湊輔はやや呆れ気味につぶやいた。
「はっ……」
雅久は半笑いを浮かべた。
うるせー、と言いたげな顔をしているものの、顔だけだ。
さすがに今、それを口に出す気にはならないらしい。
「ドンマイ、雅久」
「「え……」」
湊輔と雅久は目を丸くして、同時に右を向いた。
そちらから聞こえた、静かなつぶやきが意外で。
「……なに?」
「「いや、なんでもないです」」
有紗の細めた切れ長の目と冷たい声音に、湊輔とは雅久は一緒に、すっと背筋を伸ばして前を向いた。
「お兄ちゃん」
理桜が低い尖ったような声音で泰樹を呼んだ。
「ん?」と泰樹が向くなり強く言う。
「そこいるときに、そんな顔しちゃダメ」
「ああ……すまねえ」
泰樹は呆気なく丸くなり、雅久へと振り返る。
「我妻、悪かったな」
「え、あっ、いやっ」
雅久は笑顔を浮かべたままうろたえた。
まさか泰樹に謝られるとは思ってもいなかったのだろう。
「俺っ、全然気にしてないッスよ!」
「そうか」
泰樹は相変わらずしかめ面のまま、しかし穏やかに答えてまた背中を向けた。
湊輔は不思議そうに泰樹と理桜を見た。
立ち位置からすると、理桜から泰樹の浮かべた表情は見えなかったはず。
きっと声の調子からどんな顔をしているか想像がついたのだろう。
ホント、妙なところで勘が働くんだよな、妹って。
ほどなくして残りのメンバーがやってきた。
まず悠奈ともう一人、先月の半ばあたりから異空間に招かれた塩谷陽向。
湊輔が陽向と一緒に戦ったのはまだ数回。
それから颯希、美結、剣佑、巧聖、二菜、耀大、海都、明咲が。
カウンターにつく一年生の五人は持ち寄った弁当、それと注文した飲み物を。
テーブル席の二年生と三年生は注文した料理と飲み物を味わった。
すべて泰樹の奢りらしい。
前もって泰樹からリレイトで知らされたのは、この日に『喫茶イチゴ』に集合することだけだった。
まさかこうなるとは思わず、湊輔はいつも通り弁当を持ってきたわけだが、先輩たちは最初から奢ってもらう気満々だったようだ。
「理桜、要件が済んだあとまた呼ぶから、それまで下がっててくれねえか?」
「えー」
理桜は不満げに唇を尖らせた。
「すまねえ。今から関係者以外対入り禁止だ。盗み聞きもな」
理桜は申し訳なさそうにする泰樹を睨むように見つめてから、
「仕方ないなー。じゃあ、終わったら呼んでね」
と笑いながら手を振り、奥に引っ込んでいった。
「ああ、ありがとよ」
泰樹は普段は見せない、ほころんだ表情を浮かべた。
理桜を見送ると、客席に向き直った。
「さて……本題だ」
凄みを帯びた低いハスキーな声に、店内に緊張が張り詰める。




