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 湊輔は顔をさらに上向けた。


「……あ……」


 死はすでに間近に迫っている。

 ただ、それ以上に残酷な光景が目に飛び込んできて、唖然(あぜん)とした。


「……り……」


 ついに至極色の馬脚が並び立つように止まった。

 その間。

 その向こう。

 横たわる人影。

 地面に広がる長い黒髪が、艶をなくしてすすけている――ように見えた。


「……さ……」


 動かない。

 まったく、ぴくりとも動かない。

 嫌だ。

 そんなの、嫌だ。


 湊輔は不意に右手を伸ばす。

 肩が、胸が、腹が、背中が、一斉に痛烈な叫びを上げた。

 くそ……くそっ……くそおッ……!


 視界の外、斜め上、金属同士が触れ合うような音がした。


「な……に……」

 すんだよ。

 やめろ……。


 人間の頭をたやすく握り潰せるほど巨大な手が、ゆっくりと下りてきた。

 その指先が向かう先には、月白の剣。

 それが悪魔の指先につままれる瞬間は、まるで死刑執行を待つような、あまりに永い時間に感じられた。


 やがて月白色の切っ先が、地面から離れた。


――【刹開刃(グリムグロウン)


 瞬間、黒い風が剛腕に飛びかかり、牙を突き立てた。

 ブシュウッと小さくこだまする、肉を食い破るような音。

 巨大な手が剣を放して引っ込んだ。


 馬脚が後ずさって遠ざかる。

 それを逃がさないように、黒い風が静かに、しかし猛然と躍りかかった。


――【急迫拳(バレットレイド)


「やぁッ!」

 小柄な人影が、馬脚へと勢いよく詰め寄り、拳打を叩き込んだ。

 さらに二度三度殴りつけ、跳びのく。


「佐伯ッ、無茶すんな!」

 低いハスキーな声が吠えた。


「大丈夫です! 美結さんが牽制(けんせい)してくれてますから!」


「それより泉をこっちまで持ってこい!」


 二振りの鉈をかいくぐり、美結が黒髪をなびかせながら短剣(グルカナイフ)を振るう。

 すばしっこく動き回り、跳びはね、二本の刃で流麗な軌跡を描く。


 至極の山羊(バフォメット)は翼を羽ばたかせて空に逃げようとする。

 しかしそれより早く、美結が飛びかかって食らいつく。

 悪魔はすぐに着地して振りほどき、また鉈を振るの繰り返し。


 四つの刃が乱舞する傍ら。

 悠奈が有紗を背負い、弓矢を拾って下がってきた。

 駆け寄った泰樹が、悠奈と一緒に有紗を地面に下ろす。


「先輩、泉さん――」


「るせえ」

 悠奈の(おび)えたような声を、泰樹の凄んだ声が制した。

「佐伯、遠山と泉を……頼む」


 湊輔は見た。

 泰樹が背中を向けて言い終えると同時、白銅色の切っ先が震えるのを。

 恐怖や絶望といったものは、まるでなかった。

 柄を握る右手に力が入り、手首がひねられ、だから震えたように見えた。


「はいっ……」


 悠奈が頷くより早く、泰樹は駆け出した。

 飛びかかる美結に応戦する悪魔に迫るや、その身を霞に変えた。


――【霞流星(ヘイズ・メテオラ)


 超速は神速と化した。

 白銅色の刃が尾を引き、まるで流星のように飛びかかる。

 六つに割れた腹部に柄頭が直撃し、ドオン! と砲撃のような轟音(ごうおん)が響き渡る。

 至極の山羊(バフォメット)はのけ反り、右脚を半歩引いた。


 直後、霞は飛び上がる直前の位置に戻っていた。

 瞬時に再び飛びかかる。

 今度は右切り上げの太刀筋が、巨体の腹部に裂傷を刻み込んだ。


 後退、飛翔(ひしょう)、斬撃が矢継ぎ早に繰り返される。

 あたかも地上から飛び立つ流星群。

 怒涛(どとう)の連撃は、敵の反撃をまったく許さない。


 左切り上げ、右薙ぎ、左薙ぎ、逆袈裟(さかげさ)、袈裟斬り、切り上げ、上段、突き。


 二度目の一撃から数えて、九つの太刀筋が至極色の腹部に描き込まれた。


 重厚な音を立てて倒れ込む巨体。

 この好機を逃さないとばかりに、美結が巨体に跳び乗る。


――【刹開刃(グリムグロウン)


 二本の刃をのど元に突き入れ、斬り開くように引き抜く。


「終いだ……!」

 泰樹が馬頭へと回り込む。

 すかさず霞脚(ヘイズステップ)で詰め寄った。


『ブゥアアアァァァアアアァァァアアア!』


 瞬間、大気を、大地を、身体を震わせるいななきが(とどろ)いた。


「ちいッ……」

 泰樹は白銅の剣を振り下ろしたものの、強烈な音波に動きが鈍った。


 直後、馬の口から噴き出る黒煙。

 膨大で濃厚なそれは、たちまちに巨体自身を、さらに泰樹、美結を包み込む。

 やがて離れた位置にいる湊輔、有紗、悠奈へと押し寄せた。


 湊輔は放心しながら、視界が煙に覆われていくさまを眺めていた。

 目に映っていた悠奈も、有紗も、あっという間に飲み込まれていく。


 また、目の前が真っ暗になった。

 しかし今度は違う。

 なにも見えない。

 自分の手も、仲間の姿も。


 こんなとき、起き上がったアイツが襲いかかってきたら……?

 いや無理だって。

 体、動かないし。

 なにも、見えないし。


 そういえば、泉さんは?

 佐伯さんがなにか言いかけてた。

 でも、柴山(しばやま)先輩が遮った。

 それって、つまり……うそだろ?

 嫌だ。

 そんなの、嫌だ。

 確かめないと。

 確かめさせろよ。

 動けよ。

 ……頼むから。


「うぅぅ……ぐぅぅぅ……」


 湊輔は体の痛みにうめきながら、有紗がいるはずの方向に右手を伸ばした。

 だが、なにもつかめない。

 指先がなにかに触れる感覚もない。


「……あ……り……さ……」


 あまりに長い刹那のあと、あたりに充満していた黒煙が異変を見せた。

 粒子という粒子が落下し、上方から崩壊し始める。

 やがてアスファルトの地面に染み込むように、跡形もなく消え去った。


 目の前が晴れ渡り、横たわるブレザー姿が見えた。

 それなのに、遠い。

 手の平分しかない距離が、あまりに遠く感じる。


「消えた……」

 悠奈がつぶやいた。


 全身で空を仰いでいた至極の山羊(バフォメット)は、黒煙と共にいなくなっていた。


 巨体がいたはずの場所を、泰樹が肩を上下させながら眺めていた。

 そして、歩み寄ってきた美結と共に、三人の下に戻った。


「無事か」

 泰樹が悠奈に問いかけた。

 幼顔が無言で頷くと、小さく息を吐いた。


「泰樹くん……」

 美結が不安げな声を漏らした。

 悲しげな瞳の先には、横たわる二人の後輩の姿。


 泰樹が口を薄く開いた。


 瞬間、戦いの終わりも告げられず、冷淡に日常へと引き戻された。


 * * *


「有紗……」


 湊輔は自分の机に座っていることに気づくと、慌ただしく立ち上がった。

 これから授業が始まることなど関係なく、脇目も振らずに教室を飛び出す。


 そのあとを追うように、悠奈も立ち上がって駆け出した。


 一年A組の教室の扉を勢いよく開け放つと、湊輔は呆然(ぼうぜん)と立ち尽くし、ひざから崩れ落ちた。

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