六
湊輔は顔をさらに上向けた。
「……あ……」
死はすでに間近に迫っている。
ただ、それ以上に残酷な光景が目に飛び込んできて、唖然とした。
「……り……」
ついに至極色の馬脚が並び立つように止まった。
その間。
その向こう。
横たわる人影。
地面に広がる長い黒髪が、艶をなくしてすすけている――ように見えた。
「……さ……」
動かない。
まったく、ぴくりとも動かない。
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
湊輔は不意に右手を伸ばす。
肩が、胸が、腹が、背中が、一斉に痛烈な叫びを上げた。
くそ……くそっ……くそおッ……!
視界の外、斜め上、金属同士が触れ合うような音がした。
「な……に……」
すんだよ。
やめろ……。
人間の頭をたやすく握り潰せるほど巨大な手が、ゆっくりと下りてきた。
その指先が向かう先には、月白の剣。
それが悪魔の指先につままれる瞬間は、まるで死刑執行を待つような、あまりに永い時間に感じられた。
やがて月白色の切っ先が、地面から離れた。
――【刹開刃】
瞬間、黒い風が剛腕に飛びかかり、牙を突き立てた。
ブシュウッと小さくこだまする、肉を食い破るような音。
巨大な手が剣を放して引っ込んだ。
馬脚が後ずさって遠ざかる。
それを逃がさないように、黒い風が静かに、しかし猛然と躍りかかった。
――【急迫拳】
「やぁッ!」
小柄な人影が、馬脚へと勢いよく詰め寄り、拳打を叩き込んだ。
さらに二度三度殴りつけ、跳びのく。
「佐伯ッ、無茶すんな!」
低いハスキーな声が吠えた。
「大丈夫です! 美結さんが牽制してくれてますから!」
「それより泉をこっちまで持ってこい!」
二振りの鉈をかいくぐり、美結が黒髪をなびかせながら短剣を振るう。
すばしっこく動き回り、跳びはね、二本の刃で流麗な軌跡を描く。
至極の山羊は翼を羽ばたかせて空に逃げようとする。
しかしそれより早く、美結が飛びかかって食らいつく。
悪魔はすぐに着地して振りほどき、また鉈を振るの繰り返し。
四つの刃が乱舞する傍ら。
悠奈が有紗を背負い、弓矢を拾って下がってきた。
駆け寄った泰樹が、悠奈と一緒に有紗を地面に下ろす。
「先輩、泉さん――」
「るせえ」
悠奈の怯えたような声を、泰樹の凄んだ声が制した。
「佐伯、遠山と泉を……頼む」
湊輔は見た。
泰樹が背中を向けて言い終えると同時、白銅色の切っ先が震えるのを。
恐怖や絶望といったものは、まるでなかった。
柄を握る右手に力が入り、手首がひねられ、だから震えたように見えた。
「はいっ……」
悠奈が頷くより早く、泰樹は駆け出した。
飛びかかる美結に応戦する悪魔に迫るや、その身を霞に変えた。
――【霞流星】
超速は神速と化した。
白銅色の刃が尾を引き、まるで流星のように飛びかかる。
六つに割れた腹部に柄頭が直撃し、ドオン! と砲撃のような轟音が響き渡る。
至極の山羊はのけ反り、右脚を半歩引いた。
直後、霞は飛び上がる直前の位置に戻っていた。
瞬時に再び飛びかかる。
今度は右切り上げの太刀筋が、巨体の腹部に裂傷を刻み込んだ。
後退、飛翔、斬撃が矢継ぎ早に繰り返される。
あたかも地上から飛び立つ流星群。
怒涛の連撃は、敵の反撃をまったく許さない。
左切り上げ、右薙ぎ、左薙ぎ、逆袈裟、袈裟斬り、切り上げ、上段、突き。
二度目の一撃から数えて、九つの太刀筋が至極色の腹部に描き込まれた。
重厚な音を立てて倒れ込む巨体。
この好機を逃さないとばかりに、美結が巨体に跳び乗る。
――【刹開刃】
二本の刃をのど元に突き入れ、斬り開くように引き抜く。
「終いだ……!」
泰樹が馬頭へと回り込む。
すかさず霞脚で詰め寄った。
『ブゥアアアァァァアアアァァァアアア!』
瞬間、大気を、大地を、身体を震わせるいななきが轟いた。
「ちいッ……」
泰樹は白銅の剣を振り下ろしたものの、強烈な音波に動きが鈍った。
直後、馬の口から噴き出る黒煙。
膨大で濃厚なそれは、たちまちに巨体自身を、さらに泰樹、美結を包み込む。
やがて離れた位置にいる湊輔、有紗、悠奈へと押し寄せた。
湊輔は放心しながら、視界が煙に覆われていくさまを眺めていた。
目に映っていた悠奈も、有紗も、あっという間に飲み込まれていく。
また、目の前が真っ暗になった。
しかし今度は違う。
なにも見えない。
自分の手も、仲間の姿も。
こんなとき、起き上がったアイツが襲いかかってきたら……?
いや無理だって。
体、動かないし。
なにも、見えないし。
そういえば、泉さんは?
佐伯さんがなにか言いかけてた。
でも、柴山先輩が遮った。
それって、つまり……うそだろ?
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
確かめないと。
確かめさせろよ。
動けよ。
……頼むから。
「うぅぅ……ぐぅぅぅ……」
湊輔は体の痛みにうめきながら、有紗がいるはずの方向に右手を伸ばした。
だが、なにもつかめない。
指先がなにかに触れる感覚もない。
「……あ……り……さ……」
あまりに長い刹那のあと、あたりに充満していた黒煙が異変を見せた。
粒子という粒子が落下し、上方から崩壊し始める。
やがてアスファルトの地面に染み込むように、跡形もなく消え去った。
目の前が晴れ渡り、横たわるブレザー姿が見えた。
それなのに、遠い。
手の平分しかない距離が、あまりに遠く感じる。
「消えた……」
悠奈がつぶやいた。
全身で空を仰いでいた至極の山羊は、黒煙と共にいなくなっていた。
巨体がいたはずの場所を、泰樹が肩を上下させながら眺めていた。
そして、歩み寄ってきた美結と共に、三人の下に戻った。
「無事か」
泰樹が悠奈に問いかけた。
幼顔が無言で頷くと、小さく息を吐いた。
「泰樹くん……」
美結が不安げな声を漏らした。
悲しげな瞳の先には、横たわる二人の後輩の姿。
泰樹が口を薄く開いた。
瞬間、戦いの終わりも告げられず、冷淡に日常へと引き戻された。
* * *
「有紗……」
湊輔は自分の机に座っていることに気づくと、慌ただしく立ち上がった。
これから授業が始まることなど関係なく、脇目も振らずに教室を飛び出す。
そのあとを追うように、悠奈も立ち上がって駆け出した。
一年A組の教室の扉を勢いよく開け放つと、湊輔は呆然と立ち尽くし、ひざから崩れ落ちた。




