五
人狼型の、必殺とも思える凶刃の一撃をからくも躱し、湊輔はすかさずあたりをうかがう。
どこだ?
どこにいる?
今、確かに感じた。
あの締めつけるような気持ち悪さを。
駐車場にいるのは、狂暴化した人狼型と、弓を引く有紗。
A棟校舎前の道路には、もう一体の人狼型と悠奈。
そして、先ほどとは打って変わり、しなやかに激しく動き回り、流麗で鋭い軌跡を描く美結。
泰樹の姿は見えない。
現れた人狼型は四体。
そのうち二体が北東と南東にいると有紗が言っていた。
ということは、合流を避けるために南東の敵を引き連れ、北東にあるテニスコートあたりにでも行っているのかもしれない。
狂暴化した人狼型はなおも苛烈に大剣を振り回す。
左手だけで得物を握り、切っ先が地面を引っかこうとも気にする素振りはない。
湊輔が躱せば躱すほど、アスファルトに何本もの爪痕が刻み込まれる。
ただ、攻撃の動作が明らかに遅くなっている。
気のせいか、無駄な動きも見せるようになった。
無駄というよりも大げさ。
そうしなければ振れないように、ぎこちなくなっている。
少しずつ回避に余裕ができて、湊輔はふと気づいた。
「泉さん! 矢は!?」
有紗はつがえている矢を放つと、横目で矢筒を確認した。
「もう十本もないわ!」
「まずい……」
湊輔は眉をひそめた。
「泉さんッ、頭狙って!」
アイツがいるかもしれないのに矢の残りが少なすぎる。
いや、今回アイツと戦うことになるなんて、誰も思わないだろ。
有紗は人狼型の斜め後ろから、右半身側に移動して弓弦を引き絞った。
矢じりが見据えるのは、獰猛な面持ちを浮かべた狼の頭。
――【渾撃】【流転避】
人狼型が大剣を叩きつけた瞬間。
湊輔はそこを狙って肉迫した。
「らあッ!」
振り下ろした月白の剣は、巨影の左前腕を斬りつける。
浅い。
浅すぎる。
まるで筋肉自体が鎧にでもなっているよう。
手首なら、関節ならどうだろうか。
あわよくば斬り落とせたかもしれない。
拳で反撃されるより早く、後転して離脱する。
先見が示した通り、人狼型は左腕を払った。
痛烈な一撃と叩き込むというより、鬱陶しい羽虫を追い払うように。
「逃げて!」
「――え?」
有紗の甲高い絶叫に湊輔が振り向くよりずっと早く、重厚な風音が目の前を薙いだ。
左上腕から右上腕にかけて真一文字に分断された、巨影の体。
肩と頭、胸から下と分かれた肉塊は、むなしく地面に転がった。
のたうつ大剣は、主を失って泣き喚いているよう。
「早く逃げて……!」
耳をつんざいた悲鳴は、明らかに震えていた。
分かってる。
解ってるから。
逃げないといけないって。
真後ろにいるのは、紛れもないアイツだから。
でも、それなのに、体が動かない――
時が、ひどく緩やかに流れる。
そして瞬く間に、視界から光が消え失せた。
目蓋を開いた感覚がした。
しかし、見えたのは闇。
本当に目蓋を開いたのか疑いたくなるほど、そこには闇があった。
ふと手を伸ばしてみる。
見えた。
自分の手が、はっきり見えた。
どうやら、しっかり目を開いているらしい。
足下に視線を落とした。
学校指定の内履き、それに制服のスラックス、上着までちゃんと見える。
しかし右手には月白の剣が握られていない。
どこだ、と探すように周りを見渡してみるものの、あるのはやはり、闇だけ。
一歩、おそるおそる踏み出してみる。
歩ける。
地面がある。
墨で塗りつぶしたような、いや、墨よりずっと深い黒――漆黒の地面が。
あたり一面、同じ色に包まれている。
ここがどれだけの広さなのか、方角がどうなっているか、まるで分らない。
ただただ、ゆっくりと進んでみる。
何歩進んだのだろうか。
伸ばした手の指先に、なにかが当たった。
冷たく、つるつると滑らかな手触り。
手を上に動かすと、それはずっと続いている。
まるで金属の壁。
――「ウアアアアアアァァァッ……!」
突然、絶叫がこだました。
泣き叫ぶように上ずっている。
振り返ってみても、誰の姿も見えない。
――「有紗アアアァァァ……!」
……有紗?
なんで、その名前を?
――「テメエエエェェェ……!」
大口を開き、大粒の涙をこぼしている――そんな表情が思い浮かんだ。
それよりも、この声、聞き覚えがある。
「おいッ……」
思わず踏み出した瞬間、視界が真っ白く爆ぜた。
目の前に、極めて黒に近い赤紫――至極色の巨体がそびえ立っていた。
下半身が馬脚の、筋骨隆々たる人間の体。
広大なコウモリの翼。
ねじ曲がった角を生やした馬の頭。
二本一対の長大な鉈。
――至極の山羊。
これほど間近で見たのは、初めて異空間に招かれたとき以来だ。
頭上から襲いかかってきた悪魔の姿が鮮明に再燃する。
同時、視界の上端が赤く染まる。
湊輔が咄嗟に流転避で避けると、半瞬前の位置に大木のような馬脚が降ってきた。
ドゴォン! と蹄が重々しい音を鳴らし、アスファルトの地面を浅く陥没させる。
「――ッ!」
反射的に体が動き、後ろに転がった。
ほんの寸刻の差で、長大な鉈の切っ先が地面に突き刺さる。
背筋に冷たいものが走り、耳まで伝わるほど鼓動が激しく荒ぶり出した。
「なんで……」
もう一本の鉈が振りかぶられるのを見て、すかさず右に跳ぶ。
「先見に……」
今度は鉈が二本同時に、左右の斜め上から迫りくる。
前に跳び、転がり、巨体の股下をくぐり抜けた。
「追いついてんだよ……」
そう投げかけずにはいられなかった。
至極の山羊は翼を羽ばたかせ、小さく飛び上がって翻った。
また鉈が二本同時に、今度は真上から降り注いだ。
湊輔は左に跳ぶように転がり、すんでのところで直撃を免れた。
はずだった――
声を上げることもなく、湊輔の体が吹き飛んだ。
垂直に振り下ろされた鉈が、間髪入れず薙ぎ払われたから。
わずかばかり勢いよく浮遊したあと、地面と衝突し、水切りする石のように何度か跳ねながら転がる。
その間、視界と意識が激しく揺さぶられた。
「あ……ぁぁ……」
声にならない、かすれた音がのどの奥から漏れ出た。
ほんの少しでも動けば意識が飛びそうなほど、全身が痛い。
いや、こうして意識があるのが不思議なんだけど。
「く……うぅ……」
湊輔はおもむろに頭を上向けた。
ない。
いつも手元に収まっている得物がない。
痛みにうめく体を押して、それを探し求めた。
横倒しになった視界が移ろった先。
あった。
剣があった。
拾わないと。
つかまないと。
でも、届かない。
いや、手を伸ばしたくても、痛い。
体、痛くて、伸ばせない。
無理だ。
ズンッ、ズンッと少しずつ蹄の音が近づいてくる。
死がじわじわと迫っているような、重々しくて冷酷な音色。
それが鳴るたび、心臓が下から突き上げられる。
「い、や……だ……」
死にたくない。
死にたくないっ……。
死にたくないッ……!




