一
二体の魔郷の眷属が現れた日から、ちょうど一ヶ月が経った。
多雨の時期に入り、空模様は連日のようにぐずついている。
尾仁角高校一年B組の教室にぞろぞろとなだれ込む男子生徒たち。
体育の授業を終えて戻ってきたところだ。
「湊輔、顔、まだ痛むか?」
雅久が着替えながら、申し訳なさそうに尋ねてきた。
「……あー痛い。ちょー痛い。めっちゃ痛い」
湊輔は顔に右手を当てて天井を見上げながら、わざとらしく痛がってみた。
「慰謝料として、特製クリームメロンパン、三つな」
げえっ、と雅久は顔を引きつらせた。
「悪かったって。……つか、知ってんだろ? それ欲しさに始まる食堂前の激闘をよ」
今日の体育の授業は、体育館でバレーボールだった。
雅久は湊輔の相手チーム。
試合中に現役バレーボール部の強烈なスパイクを顔面に受け、こうして腹いせに難題を突きつけてみた。
「んー……じゃあ、一つで」
「おまっ……」
雅久はうな垂れた。
「そーか……どーしても俺をあの戦場に放り込みてえのか……」
声音が少しずつ、うなるように低くなっていった。
さすがにやりすぎか、と湊輔は思い直した。
「だったら――」
「いいぜ、やってやる……!」
やっぱいいや、と湊輔が言う前に、雅久がすっと顔を上げた。
そして左手を腰に当て、右手の人差し指を湊輔に突きつけた。
「特製クリームメロンパン三つ、奢ってやるぜ!」
一つじゃなくていいのかよ、と湊輔は苦笑した。
まあ、一つも三つも変わらない、みたいな感じなんだろうな。
「あ、ああ……じゃあ、頼んだ」
慰謝料請求した側が「頼む」って、なんだこれ。
それはいいとして、なんか申し訳なくなってきた。
だって、知らないわけじゃないし。
食堂前の激闘は、入学して一ヶ月もしないうちに目の当たりにしてるから。
……まあいっか、雅久だし。
「あ、そーいや『カフェ・カムリリィ』って知ってるだろ?」
「なんか、いつだったか聞いた気がする」
「おう。たぶんだいぶ前だな」
雅久はにかっと笑った。
「夏休みにそこ行こーぜ」
湊輔は眉をひそめた。
「女子がいっぱいいそうな店に、男二人で行くのかよ」
「いやいや」
雅久は顔を寄せ、耳打ちする。
「泉さんも誘って、だ」
言い終えて離れると、悪戯っぽい笑みを見せた。
「あー……」と湊輔がうなったところで、着替えを終えた女子たちが教室に戻ってきた。
とりあえずその件はあとで話そうと、四限目の準備をすることにした。
チャイムが鳴り終えた瞬間だった。
突如彩りを失う日常。
クラスメートも小物も消え失せ、一面モノトーンに染まった殺風景な非日常と化した。
ここのところ、この異空間に招かれる頻度が多くなっている。
以前は週に一、二度だったのが、今は二、三度。多いときは四度。
もう、バイトと同じか、たまにそれ以上になってるんだけど。
「あ、遠山くんだぁ」
湊輔がため息をつきかけたとき、声が聞こえた。
「ああ……佐伯さん」
振り向くと、クラスメートの佐伯悠奈がいた。
悠奈が招かれたのは、湊輔にとって三度目のとき。
小柄で幼顔と、高校の制服がなければ中学生と思われてしまいそうな見た目。
前向きで積極的な性格で、運動神経がよく、中学時代まではキックボクシングをしていたらしい。
そんな特徴が相まってか、初陣では最初こそ戸惑いを見せていたものの、いざ戦い始めると瞬く間に勢いに乗り、キレのある動きで敵を叩きのめしていた。
ちなみに武器は、西洋甲冑の前腕当と籠手が一体化した、悠奈いわく手甲。
悠奈は席を立つと、歩み寄ってきて覗き込むように顔を近づけてきた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
湊輔は首を横に振り、
「いや、なんでもない」
と苦笑いを浮かべた。
ということは今日、泉さんはいないんだな、とふと思った。
一年が三人も一緒になる機会は、初めて戦ったとき以来まるでなかったから。
それに悠奈がいるときは、決まって有紗がいなかった。
湊輔は立ち上がり、教室の扉に歩み寄る。
それを開き、
「お先どうぞ」
と柄にもないことをしてみた。
悠奈は小さく笑って頷き、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
と敷居をまたいで向こうに踏み出した。
湊輔も続いて、やはりモノトーンに染まった図書館に入り込んだ。
鬼が――いや、そう見えるほど荒々しいしかめ面をした泰樹がいた。
どこか殺気立った雰囲気はいつも通り。
しかし薄い紙束を睨んでいる様子は一段と物々しく見える。
図書館へと入ってきた二人に気づくと、顔を上げた。
「よお」
「お、お疲れ様です……先輩……」
「ど、どうも……」
普段以上に凄んでいるように聞こえた泰樹の声音に、悠奈も湊輔も一瞬たじろいだ。
それを見るなり目を伏せる泰樹。
そしてやっちまった、と言わんばかりに、静かに嘆息して俯いた。
「泰樹くん……笑顔、笑顔、だよ?」
奥の本棚に挟まれた通路から、美結が出てきた。
二本の鉛色を帯びた短剣と成績表を持って。
「お疲れ様……悠奈ちゃん、湊輔くん」
ゆったりとした朗らかな声に、湊輔と悠奈の肩から力が抜けた。
その様子を横目で見た泰樹は、また静かに嘆息を漏らしてかぶりを振った。
「二百六十五……」
湊輔はロッカーから月白の剣と成績表を取り出すと、今や日課となっている総合の数値の確認をした。
この一ヶ月で向上したのは、持久力、精神力、判断力、戦闘センス。
筋力と耐久力が上がらないことに、少なからず不満を抱いていた。
なんでも筋力が上がると、動的戦技の渾撃が破甲撃に変わるらしい。
威力が上がり、防具や外骨格をまとう敵に有効打を与えられるようになるとか。
一枚目をめくろうとしたところで、扉の開いた音が鳴った。
「よお」
入ってきた五人目に、泰樹が先ほどよりも若干明るい声をかけた。
湊輔は目を丸くしてまばたかせた。
入ってきたのは有紗だ。
不意に胸が躍った。
有紗は泰樹と美結に会釈しながら、そのまままっすぐ進んだ。
「お、お疲れ様」
湊輔は目が合うなり、絞り出したような声音であいさつした。
有紗は注意深く見ていないと分からないくらいに顔をほころばせ、「お疲れ様」と静かに返した。
通り過ぎていった有紗の背中を追っていると、視線を感じた。
そちらを見れば、なにやら感心しているような面持ちを浮かべている悠奈が。
「え、なに?」
「ううん、遠山くんて、泉さんと仲いいよねって思っただけ」
「え……」
仲がいい、って言うのか、これ?
たまに昼休みに一緒に過ごして話したりはするけど。
でも話題なんて、その日戦ったことの情報交換みたいな感じだから、あまりそういうのを気にしたことなかったな。
湊輔がとりあえず「うん、まあ」と答えると、悠奈は「ふーん」となにか含んだような相槌を打った。
「さて……」
有紗がロッカーから戻ってきたところで、泰樹が白銅の剣を持って切り出した。
「今回は盾持ちがいねえ。だから――」
言葉を止め、ほんのわずか目を伏せ、湊輔を見た。
「遠山、前で戦ってみねえか?」




