七
「――ッ!」
湊輔はすかさず身を翻した。
考えるより先に、まるで本能に突き動かされたように。
巨体が構えた瞬間、視界に赤い光跡は浮かび上がらなかった。
――【縮地】
体は吹き荒ぶ風のように疾駆する。
十歩そこらの短い距離を。
見開かれた切れ長の目と視線が交わった。
「逃げて……!」
声を振り絞り、左手を突き出した。
腕力などたいしてないはずなのに、有紗の体が小さく浮いて遠のいた。
「――ダメッ……!」
愕然と引きつった声、表情。
それを見て思わず、
「よかった」
と安堵したような声が漏れた。
時が、ひどく緩やかに流れ始める。
右の僧帽筋あたりに、なにかが食い込んできた。
制服と肉が裂かれ、骨の砕ける音が、じっくり、生々しく間延びする。
直後、体は宙を舞った。
自由落下ではない速度で地面に迫る。
やがて水風船が割れるような、飛沫の音が弾けた。
紅い潮が、鮮やかに舞い散る。
誰も死なせんな。
守れた。
おれ――有紗を守れた。
頬に伝うなにかを感じたのを最後に、暗く閉ざされた視界。
そして、すぐさま強制的な覚醒に襲われた。
開かれた視界に映ったのは、見開かれた切れ長の目。
伸ばした左手。
遠のく有紗の、愕然と引きつった表情と間延びした声。
最後まで見届けるより早く、体は急制動をかけるや振り返った。
視界に映った光跡めがけ、得物を振り払う。
間髪入れず巨体の足下に駆け込み、視界の右上から左下にかけて、月白の刀身を閃かせた。
立て続けに放たれた真一文字の一閃。
そこで視界が真っ白に爆ぜた。
気づけば、目に飛び込んできたのは、吹き荒んだ直後の光景。
左手が有紗を突き飛ばすより早く、体が急制動をかけた。
そして、
「――ダメッ……!」
聞き覚えのある声が耳をつんざいた。
――「有紗ヲ狙ウンジャネエヨ」
誰かの声が顔のすぐ近くでこだました。
血肉に飢えた肉食獣のように、狂暴な気を醸している。
同時、血流に乗ったように、足下からせり上がってくる。
憤怒が。
憎悪が。
殺意が。
冷たい。
灼熱感を飲み込む勢いで、足下から全身が凍結していく。
――「トットトクタバレ、畜生ガ」
冷たくなった右手に、より冷たい誰かの手が被さった――そんな感触がした。
――「斬ラセロ、オレニ。オ前ジャ、ダメダ」
なんで?
いや、それより、誰だよ、お前。
誰かが、血走った横目を向けてきた――そんな気がした。
――「ウルセエ」
――【打流】
体が勢いよく右に翻り、得物を振り払った。
カアン! と乾いた硬質な音が響き、降りかかってきた棍棒が吹き飛んだ。
――【縮地】【渾撃】
吹き荒ぶ風のごとく、体は雄鶏の左脚へと急迫する。
「コレデエッ……!」
左足を踏み込んでは、右肩にかつぐように構えた月白の剣を振り下ろした。
袈裟斬りは不快な切削音をかき鳴らし、標的に深々と爪痕を刻み込む。
――【終一閃】
「終エダアッ!」
左腰に据わった得物を、右薙ぎに抜き放つ。
飛沫のように一閃が爆ぜ、雄鶏の左脚が分断された。
直後、体はすぐさま跳ねるように後退し、崩落する巨体から免れた。
――「ザマアミヤガレ……」
誰かの声が満足げにつぶやいた。
「――また……」
湊輔は目に飛び込んできた光景に呆然とした。
倒れ伏している雄鶏。
痺れているような感覚を帯びている右腕。
「死逃視眼が……?」
「早く! とどめを!」
悲鳴のような荒々しい声が背中を打った。
そうだ、今度こそ終わらせないと。
雄鶏がぎこちなく頭をもたげ、こちらを睨んだ。
瞬間、視界の上から赤い光跡が降り注いだ。
反射的に流転避で躱す。
敵が這いつくばりながら、右腕を叩きつけてきた。
あの棍棒は……?
いや、いい。
ないならないで、それでいい。
「けど……」
どうやってとどめを刺す?
コイツはまだ動ける。
いや、生存本能と怒りと執念で動いてる、そんな感じ。
また雄鶏が右腕を振りかざした。
半瞬遅れ、支えにしていた左腕から炸裂音がこだました。
途端に巨体が崩れ落ちる。
ここだ。
ここで、今度こそ、終わらせる。
――【縮地】
踏み込んだ瞬間、湊輔が意図したわけでもなく、体が吹き荒んだ。
あっという間に雄鶏の頭に辿り着く。
――【渾撃】
「だあああッ!」
勢いに乗せ、月白の剣を上段から振り下ろした。
右腕から全身に伝播する、衝撃の反作用。
まさに渾身の一撃。
直撃の瞬間、雄鶏の巨体が痙攣するように小さく跳ねた。
「はあっ……はあ……はぁ……」
湊輔は覚束ない足取りで後ずさる。
「頼むから……もう、これで、終わってくれ……」
泣きすがるような声を、微動だにしなくなった藤色の巨体に吐きつけた。
やがて全身から力が抜け、尻餅をつく。
そして押し寄せてくる、とてつもない疲労感と虚無感。
なんとなしに西を見渡すと、横たわる鳩羽色の巨体が。
それとこちらに向かって駆けてくる人影が一つと、歩いてくる人影が一つ。
「湊くん!」
と不安げな声が背後から聞こえてきた。
『ぴーんぽーんぱーんぽーん。えー、魔郷の眷属の全滅を確認。繰り返しまぁす。魔郷の眷属の全滅、確認しましたぁ。うわー、すごいよー。三年生のみんながいなくてもちゃーんと倒せたねぇ。えらいえらいッ。お疲れ様ぁ。また今度も頑張ってねぇ。以上ッ。……ぴーんぽーんぱーんぽーん』
間延びした少年声が放送から流れた。
すぐさま視界が揺らぎ、これまで辿った経路を逆流するように、景色が移りゆく。




