五
――魔郷の眷属。
また、アイツが出てきたってことか。
湊輔は左手で右手を押さえた。
至極色の姿を思い出した途端、震え出して。
いつの間にかひざも震えていた。
いや、至極の山羊の名前は聞こえなかった。
アイツと戦うわけじゃない。
それでも、それなのに――
「くそっ……」
湊輔は勢いよく立ち上がった。
身体の震えを払いのけようと。
倒れた椅子の、床でのたうつ音がこだまする。
教室が静寂を取り戻すと、「はぁー、はぁー」と自分の浅い息遣いがやけに大きく聞こえてきた。
「大丈夫……至極の山羊じゃ、ない……」
自分に言い聞かせるように、消え入りそうな声をこぼした。
それにさっきの戦いで、よく分かった。
あれなら行ける。
やれる。
自分の身くらいなら、どうにか守れる。
おもむろに教室の扉へと歩み寄る。
逃げるなら、せめて役に立つ逃げ方をしないと。
役立たずじゃない。
戦える。
ちゃんと、戦える。
湊輔は扉を開き、敷居をまたいだ。
図書館に踏み入り、目に映った人影は一つだけ。
「遠山くん」
有紗が物々しい面持ちで、足早に近づいてきた。
「急いで」
緊急事態という放送のせいか、声音も低く凄んでいる。
「他の人たちは?」
湊輔はロッカーに向かいながら問いかけた。
「もう出ていったわ。寺沢先輩が先走って、丸山先輩と深井先輩が追いかけたの」
ロッカーの戸を開き、月白の剣を握り締める。
瞬間、右肩あたりに気配を感じた。
おそるおそる横目を向けると、視界に映ったのは有紗。
しかし違う。有紗とは一人分の距離がある。
今感じた気配は、もっと間近。
とはいえ、今は気にしている場合ではない。
「い、行こう。場所は?」
「グラウンドよ」
「そっか」
先に歩き出した有紗の背中を追う。
湊輔はふと疑問に思った。
そういえば放送で、敵がどこに出たか、なんて言ってたっけ?
尋ねようかと迷っているうちに、グラウンドに辿り着いた。
戦いはもう始まっている。
二体の巨大な敵を、海都がグラウンドの西で、明咲が北東で一体ずつ受け持っている。
海都の相手は三メートル超の体高を誇るトナカイ。
鳩羽色――灰味がかった薄い青紫色――の全身。
樹木のように何本も枝分かれした、荘厳を思わせる額角を生やした頭。
たおやかな後ろ脚。
そして異様な前半身。
まるでゴリラのようにたくましい。
後ろ脚が二本収まるほどに太い腕でナックルウォークをして、時折振り下ろしながら海都を追いかけ回している。
――鳩羽の腕鹿。
明咲の相手は、全身が藤色――淡い青みのある紫色――の巨大な雄鶏。
足下から鶏冠のてっぺんまで四メートル弱はある。
色や大きさはとにかく、手羽が異様。
以前戦った翼人型のような、羽毛に包まれる翼の形をした腕。
その右手には、先端に突起のついたT字型の棍棒のようなものが握られている。
――藤色の雄鶏。
「深井先輩ッ」
湊輔は連絡通路から出てまっすぐ、B棟校舎沿いに西へと走り、その先にいた二菜の下に向かった。
二菜は旗を両手で握り締めながら、近づいてくる二人に顔を向ける。
そして数歩慌ただしく歩み寄ってきた。
「湊くんッ、すぐに明ちゃんに加勢してもらっていい? 有ちゃんも一緒に」
「寺沢先輩は?」
湊輔は、トナカイの猛襲を霞脚で躱し続ける海都を見ながら尋ねた。
「それが……」
二菜は合流した時点でひそめていた眉を、さらに険しくひそめた。
「あのくらい俺一人で倒せるから、手ぇ出すんじゃねえぞって……」
「そんな……」
湊輔は顔をしかめた。
あんなのどう見たって、一人で倒せそうな状況じゃないだろ。
「行きましょう」
有紗がため息混じりにつぶやいた。
海都と異様なトナカイに向けていた視線を湊輔に移す。
「どのみち加勢することになりそうだし」
「う、うん」
有紗の声音がどこか刺々しく聞こえて、湊輔はおずおず頷いた。
そして有紗と共に、明咲がいるグラウンド北東へと駆け出す。
直後、左手の親指から薬指がほのかな熱を帯びた。
二菜の旗による攻勢、守勢、防護、強壮の効果だ。
近づくなり徐々に大きくなっていく、雄鶏の巨体。
「コァーカッカッカッカッ!」
巨体のせいか野太い鳴き声。
そのくせ頭痛を覚えるほど甲高い。
小さく跳びはねながら全身を激しく揺さぶり、右手に持った棍棒をやたらめったら振り回している。
そのたびにガァン、ガァンと金属質な音が弾けた。
湊輔は雄鶏の右半身側から迂回し、明咲の姿を視界に収める。
しつこく降りかかる棍棒を、円盾で防ぎ、弾き、時折躱して耐えしのいでいる。
有紗は雄鶏の真後ろで足を止めて矢をつがえるものの、すぐに弓弦を緩めた。
頭部の後ろを狙おうにも、尾羽が邪魔になる。
より遠くから射るにしても、落ち着きなく動く巨体に狙い通り中てるのは難しくなるだろう。
脚のももは不規則に上下して、とても狙いが定まらない。
すぐさま右半身側に立ち位置をずらし、改めて弓弦を引き絞った。
「クァーッ!」
雄鶏が声高にいななき、翼のような腕を羽ばたかせた。
明咲の頭上を跳び越えて翻るや、再び棍棒を振り回し始めた。
湊輔はその動きが奇妙に思えて、周囲を見回した。
コイツ、後ろの泉さんが見えてたのか?
だったら相当視野が広いぞ。
それからまっすぐ駆け出し、今度は雄鶏の左半身側を目指した。
「――ッ!」
思わず流転避で右に転がる。
雄鶏がいきなり横に跳び、湊輔めがけて棍棒を振り払った。
空振りしたことなど気にかけることもせず、
「コォァーッ!」
またいななきと共に明咲へと殴りかかる。
明咲は棍棒を弾くものの、両刃槍で反撃しない。
いや、する暇がない。
雄鶏の得物を構え直す動きがずっと速いから。
「だったら……」
少しでもアイツの気をそらせばいい。
「コイツ……!」
湊輔が一歩踏み込んだ途端、視界に赤い光跡が走り、後ずさったすぐあと、棍棒が虚空を薙いだ。
「クァッ!」と雄鶏が鳴きながら横に跳ねてまもなく、有紗の放った矢が飛び抜けていった。
湊輔はふと雄鶏を見上げた。
踏み込めば棍棒を払って牽制して。
矢が飛んでくるより早くその場から離れて。
先ほどからやけに都合よく動いている気がした。
――目だ。
鶏よろしく、ただ視野が広いだけではない。
瞳をせわしなく、気持ち悪いくらいぎょろぎょろ動かしている。
明咲をひたすら殴りながら、常に周囲を警戒していたらしい。
「これなら……」
湊輔は巨体の背後に回り込もうと走り出す。
すると雄鶏は明咲を軸にして、湊輔から遠ざかるように跳んだ。
有紗が矢を放てば後ろに跳んで躱し、また明咲に躍りかかる。
なんなんだよ、コイツ。
でかいくせにちょこまかと、いつまでも動き回って。
これじゃ全然攻められない、勝てない……戻れない……!
「くそがぁぁぁッ……!」
湊輔がたまらず歯噛みして、得物を強く握り締めたとき。
遠くから怒声がこだましてきた。




