一
遠山湊輔が尾仁角高校に入学して、ひと月も経たない日のこと。
「なあ、あの女子だろ?」
三限目の美術を終え、一年B組の教室に入るなり、我妻雅久が唐突に切り出した。
「入試んときにロミオチックな出会いをしたのって」
「なっ――」
湊輔はうろたえて絶句した。
「ははっ」
雅久はおかしそうに笑った。
「そーかそーか。今度はあーゆー系の女子に目をつけたか」
「いや、別にそんなわけじゃ」
「んなわけあるかよ。見かけたら目で追っかけてるくせに」
「それは……」
湊輔は雅久から目を背けた。
弁解しようにも、それらしい言葉が見つからなくて。
喜ばしいことに、入試の日に出会った乙女と同じ高校に入学できた。
しかし残念なことに、彼女はA組。
クラスは違う。
それでも、名前だけは知っていた。
有紗――泉有紗だ。
「とりあえず告っちまえよ」
雅久は耳打ちしたあと、にかっと悪戯っぽい笑みを見せた。
「いきなりそんなことしたって……」
断られるだけだろ、と言いかけてやめた。
それを口にしたら、なにもかもが終わってしまいそうで。
はあ、と雅久はため息をついた。
「中学んときの三年なんてあっという間だったろ? 高校の三年だってすぐだぜ? 卒業してまた会えると思うか? もう今しかねえんだよ。結果がどうなるとか気にしねーで、とっとと告っちまったほうがいいっての」
「お前なあ……」
湊輔は眉をひそめて肩を落とした。
他人事だからそう言えるんだよ。
だいたい、違うクラスの、全然接点のない女子とどうやって仲よくなれっていうんだよ。
やがて四限目の国語に入り、いつものように教師の話を聞きながら、黒板に並べられる単語や文章をノートに板書していく。
授業が中ほどに差しかかったとき――
何気ない日常が、まばたき程度の速さで灰色に変わった。
すっと消える、右手に持っていたシャープペンシル。
机の上に広げていた教科書やノート、筆入れも同様に。
さらには教師やクラスメートまでもが一瞬にして姿を消した。
そして、彩りも。
教室だけではない。
窓の外を見れば、向こうに広がる景色までもが色という色を失くしていた。
「なんだこりゃ……」
しかし一人だけ消失を免れた人物がいた。
窓際最前列の雅久だ。
左に右にと顔を振り、背後を向くなり、「おっ」と安堵したように笑みをこぼした。
「湊輔、これどーなってんだ?」
「さあ……」
湊輔は教室を見渡した。
残っているものといえば、机や椅子、ロッカーという備品のみ。
あたかもモノクロ写真に入り込んだように、一面モノトーンに染まる殺風景な空間だ。
「おれに訊かれても」
「ま、そーだよな」
雅久は肩をすくめて苦笑した。
「にしても――全然向こう見えねーぞ」
湊輔は窓際に歩み寄る。
普通教室が入っているA棟校舎の南側には駐車場があり、敷地の境界に沿って桜の木が立ち並んでいる。
そのすぐ後ろに、濃煙のような灰色の壁がそびえていた。
視線を右から左へと動かしてみれば、壁は敷地を取り囲んでいるように見える。
「なんかよく分かんねーけど、行こうぜ。他に誰かいねえか、探しによ」
「え、ああ、うん」
湊輔は渋々頷き、先を行く雅久の背中を追った。
はっきりとはしないけど、なんか、嫌な感じがする。
「なんだこりゃ……」
雅久は教室奥側の扉を開くなり、ついさっき言ったばかりの言葉を口にした。
ただ、今度はより強く驚愕の色を帯びて。
「なんで?」
湊輔もまた、扉の向こうを見るなり声を震わせた。
教室の扉の先にあるものといえば廊下。
しかし違う。
図書館だ。
教室と同じく、モノトーンに染まったそれが広がっていた。
尾仁角高校の図書館は、別棟としてA棟校舎の東側にある。
五十万を優に超す蔵書を抱えているだけに、三階まであるほどやたら大きい。
「とっとと入んな」
二人が呆けていると、低いハスキーな声が響いた。
湊輔は思わず息を呑んだ。
鬼がいたからだ。
目つきが悪い。
柄が悪い。
強面。
そんな言い回しがちゃちに思えてしまう。
尾仁角高校の学ランを着ているのに、とても同じ高校生には見えない。
殺気のような凄みを帯びたしかめ面、逆立てたショートヘア、そして逆手に握った剣がその異様さを物語っている。
白銅色――銀色に近い明るい鼠色――に染まる、幅広で反りのある片刃の剣。
やっぱりここは自分の知ってる学校じゃない、と湊輔は確信した。
思わず半歩引いてしまう。
「わけ分かんねえのは解ってるから、早く来い。他のやつが入れねえからよ」
ハスキーな声がより強く凄んだ。
「お、おい湊輔、行くぞ」
雅久に引っ張られ、湊輔は図書館へと踏み込む。
すると扉が勝手に閉じた。
後戻りをさせない、ということだろうか。
鬼のようなしかめ面をした男子生徒が歩み寄ってきた。
「おめえら、一年だな。細けえ説明はあとだ。とりあえずこっちに来な」
湊輔は雅久の背中に隠れるように男子生徒についていった。
表口からまっすぐ先、並び立つ本棚の間を抜けていく。
奥に箱があった。
平均的な体型の大人が三人ほど入れそうな、金属質の長大なそれはまるでロッカー。
しかし明らかに違う。
通気口も鍵穴もない。
あるのは、指が四本通る程度の取っ手だけ。
箱の前に着くと、男子生徒が振り返った。
「俺は柴山泰樹。おめえらは?」
「俺、我妻雅久ッス」
答えてから、雅久は左にずれた。
「と――」
湊輔は泰樹に目を向けられると、視線をそらさないまま小さく俯いた。
自然な表情をしているはずなのに、怒っているような凄みがあって。
「遠山、湊輔、です」
厚い前髪越しでも直視されるのがたまらず、目を泳がせた。
「我妻と遠山か。よろしくな」
泰樹が言い終えると同時、図書館の表口が開いた。
「おー? もしかして体験入部ってやつかなぁ?」
ちゃらい感じの柔らかい声音。
入ってきた男子生徒はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
つくったようなくせ毛のアシンメトリーの茶髪。
気さくさを覚える細いたれ目。
それらが声音と相まって、いっそうちゃらい感じが引き立っている。
「荒井、我妻雅久と遠山湊輔だ」
泰樹が二人を紹介すると、荒井と呼ばれた男子生徒はにっと笑った。
「俺、荒井巧聖。よろしくね。まぁ色々大変だけど、一緒に頑張って生き延びよっか。そうそう、体験入部なんて冗談よ? ここじゃ体験もくそもないからね」
湊輔は思わず顔を引きつらせた。
生き延びようって、なに?
「荒井、ロッカー開けな」
泰樹がロッカーの前から離れた。
「はいはーい」
巧聖はロッカーの前に進み出て、戸を開く。
中に入っていたのは、二メートルを超す鉛色――鉛のような少し青味を帯びた灰色――の長い槍と、B5サイズの薄い紙束。
それらを取り出すと戸を閉めた。
「ま、こんな感じだから開けてみなよ?」
巧聖は雅久と湊輔に流し目を向け、泰樹の後ろに回り込んだ。
「うっし、じゃあ俺から」
雅久が好奇に満ちた面持ちでロッカーを開けた。
中から取り出したのは、身の丈ほどもある長方形の大きな盾。
「はぇー」
白銅色に染まる盾の裏から取り出した同色の短剣を眺めると、湊輔に視線を移した。
「湊輔、お前も開けろよ」
こいつ、おれの武器がなにか見たいんだな、と思いつつ、湊輔は取っ手に触れた。
同時、表口の扉がガラガラと開いた。
「お、やっと五人目の登場だねぇ」
巧聖は声を弾ませてつぶやくと、隣の通路から戻っていった。
「おい湊輔、早く開けろよ」
雅久がじれったそうに急かしてきた。
「う、うん」
湊輔が取っ手を引くと、戸はすうっと滑らかに開かれた。