一
湊輔が初めて異空間で戦った日のあと。
春から夏へ移りゆく狭間の、長いようで短い連休が訪れた。
それが明けてすぐの登校日。
四限目の終了まであと少し。
湊輔は空腹に耐えかねて、教科書を立てて机に突っ伏していた。
「はあ……」
違和感を覚えて、頭をもたげるなり深いため息をついた。
いきなり、黒板前にいた教師の声が途絶えて。
教師だけではない。
教室のあらゆるものが消えている。
クラスメートも、カバンも教科書もノートも。
もちろん、ポケットの中のスマートフォンも。
とはいえ、前回と同じように机や椅子、ロッカーといった備品は残っている。
昼休みを目前にして、日常は瞬く間に、モノトーンに染まった殺風景な戦場と化した。
おれだけ?
……おれだけかよ。
教室にいるのは自分だけだと知って、湊輔はうな垂れた。
もしこの前雅久が一緒じゃなかったら、ここから出てなかったかもな。
……また戦わなきゃ、いけないのか。
正直、嫌だ。
また死ぬかもしれないし。
いや、また死ぬっていうか、また死ぬって言い方も変だけど。
あのとき、確かに死んだ。
死んでた。
でも生きてる。
生き延びてた。
だからって、また生きて戻れる保証なんて――
急に動悸が激しくなった。
ふと、あの瞬間を思い出した途端に。
――そういえば、あの悪魔。
なんだよ、あれ。
近くにいられるだけで、めちゃくちゃ気持ち悪くなるアイツ。
なにしたかったんだ?
いきなり出てきて、暴れ回って、すぐにいなくなって。
『みんなが無事に生き残れたのはもう奇跡としか言いようがないよ?』
ホント、あんなヤツ相手に生きて戻れたのは、奇跡だ。
前回戦った日の夜、リレイトのグループで泰樹が注意喚起のメッセージを送ってきた。
『いつも戦ってるやつらとはまったく違う敵が出てきた 気をつけろ』
という一文のあと、悪魔の特徴が箇条書きで列挙されていた。
気をつけろって言われてもな。
勝てなきゃ、倒せなきゃ、戻れないのに。
湊輔は机に両ひじをつき、組んだ両手の上に額を乗せた。
眉間にしわを寄せるほど、目蓋を力強く閉じる。
そうでもしないと、嫌な光景が浮かんできそうで。
なんとなく、黒板を見つめておもむろに立ち上がった。
その向こうにある一年A組の教室――有紗のクラスが気になって。
もしかしたら、有紗も来ているかもしれない。
そんな淡い期待に、体がいつの間にか動き出していた。
黒板に近づき、三度ノックしてみる。
軽く小突いたはずなのに、音がやけに大きく反響した。
そしてかあっと熱を帯びる体。
我ながらバカなことをした、と後悔しながら、教室手前の扉に向かう。
「……えっ」
踏み出した瞬間、黒板の向こうから似たような音が聞こえてきた――気がした。
別の意味で、胸の鼓動が早鐘を打ち始める。
湊輔は束の間、呆然と黒板を見つめたあと、いそいそと扉を開け放った。
その先にあるのは、やはり図書館。
数歩先に後ろ姿があった。
濡烏の栄える長い髪がふわりと揺らめき、露わになる端麗な横顔。
切れ長の目と交わる視線。
途端に照れくさくなり、思わず俯いてしまった。
「お、さっそく来たな」
棘のある朗々としたアルト。
すかさず顔を上げた途端、湊輔は身を固くした。
奥に並び立つ本棚。
ロッカーのある場所よりも右手側の通路から姿を現した女子生徒。
まっすぐ伸びた赤茶色の長い髪が、奇抜で印象的。
顔の右半分、七割ほどが前髪で隠れ、残る左は編み込まれている。
不良。
この前見た、リレイトのグループメンバーで目を引いた一人とさっそく当たってしまったらしい。
名前は確か――『さつきさま』。
アイコン同様剥いた犬歯と強い目力が相まった笑みは、見るからにどこか獰猛な気を醸している。
それでいて携えているのは、鉛色の弓と矢筒。
不良という他、狩人や女戦士みたいな呼び方も似合いそうだ。
「よっ、有紗」
不良そうな女子生徒――さつきさまが、ロッカーに向かう有紗に笑いかけた。
もしかして、あの真面目で清純そうな泉さんでも、ああいうタイプの人と仲よかったりして……と湊輔は静かにうろたえた。
「お疲れ様です……長岡先輩」
有紗は素っ気なく、軽く会釈して通り過ぎていった。
その振る舞いを見るなり、湊輔はどうしてか内心ほっと胸を撫で下ろした。
「おめぇ湊輔だろ? 早く入れよ」
さつきさま――長岡颯希に呼ばれ、湊輔は小さくびくついた。
おずおずと敷居を踏み越え、完全に図書館へと入る。
直後、背後で扉が勢いよく閉まったように聞こえて、また小さくびくついた。
それから重々しい足取りで奥に進む。
「そんなびびんなって」
颯希がやんちゃそうな笑みを浮かべながら近づいてきた。
思わず足を止めた湊輔の斜め前に立つと、屈んで覗き込むように上目を向けてきた。
この人、身長高い。
百七十はありそう。
「――あ、なんだその傷?」
赤茶けた暖簾の横で、鋭い眼光を放つ目が丸くなった。
「え……」
湊輔は不意に右の頬、下あごあたりに触れた。
そこには指二本分の長さの鋭い傷跡が走っている。
「これ……かなり昔、転んだときに――」
「颯希さん、あんまり詰め寄ると怖がらせるだけじゃぞぉ」
年寄りくさい渋くおっとりした、陽気な声がこだました。
それは奥の本棚の間から出てきた、柔道部を思わせる体格のよい男子生徒のもの。
声と、若干老け気味もとい大人びた見た目が相まって、制服を着ていなければとても高校生とは思わないだろう。
手には鉛色に染まる、大盾と片手鎚、そして薄い紙束が。
「ぁあ?」
颯希は肩越しにその男子生徒――福岡耀大を睨んだ。
「おい耀大、あたしを不良みてぇに言うんじゃねーよ」
「いやいや……颯希さんは立派に不良じゃないですか」
耀大に続き、日に焼けた色黒の、暑苦しそうな顔立ちの男子生徒――日下剣佑が割って入ってきた。
「三年になってもなお髪は赤いまま、遅刻常習犯、保健室の不法占拠、授業中に早べぃったッ」
不良たる素行を丁寧に指折りしているところで、颯希にグーで殴られた。
「るせぇ、あたしの勝手だろっ。――湊輔、ロッカー分かるよな? とりあえずそっち行きな」
湊輔は言われるがまま、本棚の間を抜けてロッカーに向かう。
すると、ちょうど戻ろうとしている有紗と鉢合わせた。
「あ……」と口を開きかけ、しかしなにを言えばいいか思い浮かばず、目を泳がせた。
「大丈夫……?」
「え、あ、うん……大、丈夫……」
どこか心配そうな艶やかなソプラノに、湊輔はどぎまぎしながら答えた。
束の間の静寂を置き、有紗は「そう……」とだけ残して、反転しては隣の通路から戻っていった。
さっきのこと、訊けなかったな……と悔やみながら、湊輔はロッカーに歩み寄って戸を開いた。
中には前回見た月白色に染まった剣が。
そういえば、これつかんだ瞬間、胸と頭が痛くなったんだっけ、とおそるおそる手を伸ばす。
指先で触れ、ゆっくりと手の内に収めていく。
そして、ぐっと握り締めた。
……なにも起きない。
なんだったんだ、あれ?
安堵のため息をついて持ち上げると、B5サイズの薄い紙束があることに気づいた。
――成績表。
以前巧聖がステータスやスキルが書いてあると言っていたものだ。それを左手で拾い上げ、ロッカーを閉めた。
踵を返し、集まっている四人の下に着くと、
「うっし。とりあえず自己紹介だな」
と颯希が胸元で腕を組み、ガキ大将みたいな笑みを浮かべた。
それから颯希、耀大、剣佑、有紗、湊輔の順番で、名前とあいさつだけの簡単な自己紹介を終える。




