一
ここは……?
意識が覚めるや、湊輔は湧き上がった疑念と同時に目をまばたかせた。
奇妙な世界だ。
灰色。
無彩色。
視界に映る広大な空も、大地も、まるで色という色がない。
そんなモノトーンな世界に、どうしてか佇んでいる。
まもなく卒業を迎える、中学校の制服を身につけて。
誰か――
湊輔はなんとなしに視界を動かした。
孤独。
疎外。
形容するならそういった、強烈な感覚に駆られて。
左には、見上げるほど大きな建物が。
四階建てのそれは、どうしてか学校の校舎に思えた。
後ろを振り返れば、また大きな建物が。
おそらく体育館だ。
考えるより早く、そう直感した。
そしてふと理解した。
今自分が立っている場所は、グラウンドだと。
しかしここは、湊輔にとって馴染みある中学校ではない。
だというのに不思議と、見覚えのあるような気分になる景色だ。
――夢か、これ。
今さら、はっきりそう思った。
そう、思えた。
学校の校舎も、体育館も、グラウンドも、空も、目に映るなにもかもが、無彩色。
しかしなぜか妙な気分になる景色。
夢だ。
やたら現実味のある夢。
……モノクロだけど。
「――っ!」
湊輔は思わず息を呑み、振り返った。
背後から音がした。
ドンッと全身を打ち据えるような、重厚なそれが。
同時、足下に鈍い衝撃が走った。
巨大ななにかが、大地を踏みしめたような、威圧的なそれが。
「なっ……」
引きつった声を漏らして、目を見開いた。
体育館とは反対側、ずっと向こう。
意識が覚めたとき、それはいなかった。
遠目に見ても、自分よりずっと巨大な影は、まったく。
二足歩行のそれが脚を踏み出すたびに、震える。
足下が、鼓膜が、そして身体が。
――悪魔。
ねじ曲がった角の生えた馬頭。
あらゆる筋肉が盛り上がった屈強な肉体。
全身を包み込むほどの広大さを秘めた、コウモリのような皮膜のついた翼。
威圧的な足音を発する蹄。
ゲーム、映画、アニメ、イラスト……一度くらいなにかで見た気がするシルエット。
それが視界の中で、徐々に肥大していく。
その間、湊輔は動けずにいた。
夢だ。
ただの夢だ、こんなの。
目の前の光景を必死に否定しているのに、身体は動かない。
ただただ立ちすくみ、震え上がり、ゆっくりと迫りくる巨影を凝視するだけ。
やがてそれが、重厚な足音を静めた。
「あ……あ……」
湊輔は言葉にならない声でうめいた。
四メートルはあろう巨躯を、絶望的な表情で見上げながら。
――死にたくない。
生まれて初めて、尋常ではない圧力を覚えた。
それはまさに、殺意。
フウゥ、と鳴った野太い息遣い。
それと共に振り上げられた、悪魔の右腕。
その手に握られた得物は、筋骨隆々な肉体に似つかわしい、長大な刃物。
――嫌だ。
死にたくない。
恐怖が全身を駆け巡り、生存本能が叫びを上げる。
「え……?」
ふと握り込んだ右手に、違和感を覚えた。
硬くて、滑らかな感触。
瞬間、引きつけられたように見下ろした。
剣だ。
いつの間にか剣が握られていた。
見慣れない、全身のっぺりとした、現実味のない形の片刃の剣。
うっすら青い色味が差した白色がどこかまぶしく、思わず目を細める。
「くっ――」
ありもしない勇気でも湧いたのか。
根拠のない自信に奮い立ったのか。
湊輔は逃げ出すでもなく、再び悪魔を見上げ、睨みつけた。
同時、視界に赤い光が走った。
細い筋のようなそれは、左上からまっすぐ視界を両断する。
「あ……」
斬られる。
そう考えるより半瞬早く、凶刃が降りかかってきた。
左の首筋から入り込んで、すり抜けていく感覚は呆気なく、そしてむなしい。
おれ、死ぬのか……?
半身の感覚が薄れた直後、そう思った。
視界がおもむろに、右下へとずり落ちていく。
――夢なのに?
しかし分断された右半身が崩れ落ちる感覚は、不思議と、あまりにリアル。
意識が薄れ、目を閉じかけた矢先、視界が急に左上にせり上がった。
急激な覚醒に何事かとうろたえているうちに、体をすり抜けていった凶刃が、一度辿った軌跡を逆行する。
悪魔が再び得物を振り上げた。
そうにしか見えない。
だが、違う。
時が巻き戻った。
そう例える以外の言葉が浮かばない。
悪魔は刃を振り下ろす瞬間へ、湊輔は体を斬り裂かれる直前へと戻った。
時の逆行が止まるなり、悪魔が再び得物を振り下ろした。
また斬られる。
そう覚悟した瞬間、湊輔の意思とは関係なく体が動き出した。
右手に持った白い剣を、勢いよく跳ね上げる。
素早く構え、動き出すまでの流れは、あたかも戦い慣れているよう。
ギイィン! と鼓膜どころか、全身を引き裂くほど鋭い衝撃音が響き渡る。
白い刃が、長大な刃を弾き返した。
そして悪魔の巨体が、左半身側へとよろめく。
体がまたしても身構える。
白い剣の柄を両手で握り締め、左肩にかつぐ形で振りかぶった。
直後、右足を右手前に踏み出すや、胴を右にひねる。
その勢いで、剣を振り払った。
一瞬、湊輔は視界の端に見た。
刀身から発せられた膨大な黒いなにかが、巨大な悪魔を斬り裂く光景を。
* * *
悪魔に斬られる夢。
はたしてそれは、吉兆か凶兆か。
高校入試当日という割と大事な日に見た夢にしては、あまり気分のいいものではない。
さらに、起床から二時間近く経過しているにも関わらず、夢の記憶はいまだ鮮度を高く保ったまま。
用を足した湊輔が手洗い場に立つと、鏡には憂鬱に沈んだ顔が映っていた。
気怠そうな半眼を隠そうと、厚い前髪がのしかかっている。
「はあ……」
俯いた途端、声が漏れた。
はたしてこの高校受験に合格できるのか。
そんな不安に朝の夢が相まって、身体にかかる重圧が倍加した。
気のせいか、両手に伝い始めた水が異様に冷たい。
「う……」
思わず顔をしかめた。
蛇口をひねり、流れ出る水を止める。
ポケットからハンカチを取り出し、手に残った水気を拭き取りながら廊下に出た。
「――ご、ごめんっ」
瞬間、右肩になにかがぶつかった。
それはもちろん、入試を受けに来た同じ中学生以外ありえない。
「こちらこそ」
か細い声で答えた乙女を見た途端、湊輔は引き込まれた。
端麗な顔立ち。
それを包み込む、毛先が切り揃えられた艶やかな黒髪。
後ろ髪は、風に吹かれれば大きくなびきそう。
「ごめんなさ――」
乙女は湊輔と目を合わすなり、急に息を呑み、色白な顔に栄える切れ長の目を丸く見開いた。
しかしすぐ、そらすように視線を下向けるなり、なにかに気づいてしゃがみ込む。
立ち上がると、「これ」と手に取ったものを差し出した。
それは、ぶつかった弾みで落としたハンカチ。
「あ、ありがと……」
湊輔は、消え入りそうな声でお礼を言いながら受け取った。
「それじゃあ」
乙女は無機質な声をこぼし、足早に女子トイレへと入っていった。
「よう、湊輔」
教室に戻り、指定された席に着くと、幼馴染が左側から右肩に腕を回して組みついてきた。
「どーした、ボケっとしてよ。あ、まさか今さらんなってびびっちまったとか?」
まあ、確かにびびってる。
でも、そうじゃないんだよな。
「あのさ、雅久」
「ん、どした?」
湊輔が前を向いたまま呼びかけると、幼馴染は陽気な声音で訊いてきた。
「おれ、絶対受かってみせる」
抑揚なくさらっと、それでも決意を込めて声に出した。
すると幼馴染は、手を回していた側の肩を軽く二度叩いた。
「お? なんだ? ……あ、まさか、ロミオチックな出会いでもしたってか?」
なんか嫌な響きだな。
「ロマンチック、だろ?」
そう言い返すと頭を叩かれた。
ひどい。
でも、言いたかったことはまちがってない。
受験に合格して、ここに入学できれば……あの乙女にまた会えそう。
また会いたい。
まだ確定していない未来に、湊輔はそんな想いを馳せた。