その1
八重垣穂美香は隙が無い。
そして同時に好きも無いのではないかともっぱらの噂だった。
噂、そう噂になるほど八重垣先輩は有名人なのである。
彼女と僕とではクラスが違うどころか学年すら違うほどで、接点はまるでないのだけど、そんな僕の耳にさえ八重垣先輩の話は勝手に入って来る。
その度にそれは本当に本当の話なのか?と聞き返したくなることが良くあって、なんだか偉人の逸話でも聞いている気分にさせられた。
曰く、八重垣先輩は満点以外の点数を取ったことがないらしいとか。
曰く、八重垣先輩は100mを12秒前半で走れるだとか。
曰く、八重垣先輩は嘘を確実に見抜けるだとか。
もうなんだかどれも異常すぎてまるで信じられない話なのだけど、少なくとも最後の逸話に関して言えばこれは真実らしい。
その証明となったのが僕がこの学校に入学して、つまり新入生が入学して一か月程経ったある日のこと。
八重垣先輩が校門の前に立って持ち物検査をしていたときの話だ。
なんでも、八重垣先輩の友人に風紀委員がいて、その人が病欠となった為に代わりを務めたという彼女は、登校してくる生徒一人一人に対してこう言い続けた。
「やましいものを持ってきていますか?」
まるで尋問のような物言いに気圧されて、生徒は必ず「はい」か「いいえ」で答えるのだけど……その正誤判定が異常だった。
八重垣先輩は相手の返答を聞くと基本的に「黒ですね」か「白ですね」の二択で応える。
黒と呼ばれた生徒は必ず何か隠し持っていて、白はその後クラスで本当に白なのかよと強引に中身を漁られても、結局、何処にもやましいものはなく、やはり白だと言わざるを得なかった……一部の例外はあったけれど。
超能力染みた八重垣先輩のこの『人間嘘発見器』ぶりは入学してきたばかりの僕らを大いに驚かせ、同時に畏怖と尊敬を覚えさせた。
そして一つの逸話が証明されると、他の数々の逸話も証明された気分になるのが人間というもので、今では八重垣先輩の完璧超人ぶりを疑うものは殆どいない。
よって八重垣穂美香には隙が無いという結論になるわけだ。
では好きがないとは何なのか。
これも単なる言葉遊びではなくて、本当に八重垣先輩には好きなものがないらしい。
曰く、興味がない。
「食べ物も人間も好き嫌いはありません」と言うのが彼女の残した名言として知られている程で、それが本当だとすれば非人間的過ぎてやや気持ち悪いくらいなのだけど、話してみるとなかなか面白い人のようで、別に避けられてもいないし、嫌われてもいない。
いや、むしろ好かれている。
八重垣穂美香は人気者だった。
たまに廊下をすれ違うことがあるけれど、八重垣先輩はいつも周りに多くの人を連れ立って歩いている。
いわゆる取り巻きというやつなのかもしれないけれど、それにしては規模が大きい。
まるで病院の院長がやる総回診のようなその姿を僕が初めて見たときはかなり面食らった……と同時に八重垣先輩の無表情さが目に付いた。
ただ、これもいつものことのようで、八重垣先輩は滅多なことでは笑わないらしい。
表情筋が死に絶えたのではないかと一部で噂される程のその鉄面皮は、しかし美しく、他者を魅了するに事欠かない。
ああそうだ、当たり前すぎてもはや言うのを忘れていたのだけど、八重垣先輩は超美人だ。
彼女の透き通った鼻筋と切れ長い瞳はやや冷たい印象を他者に与えるけれど、頬の赤みとやや低い背丈はそれと相反する愛らしさを感じさせて、冷たさと暖かさを高いレベルで美しく維持している。
そして、腰を超えるほどの長い髪は、二つに結ばれて、ハーフツインテールでかわいらしく整えられていた。
この髪型は八重垣スタイルとして学校で大流行していて、うちのクラスなどはその半分がハーフツインテールという有様だ。
猫も杓子も八重垣先輩を真似る時代がこの学校にはやってきている。
まるで往年のアイドルのような有様だけれど、彼女にはそれくらいの魅力があるので仕方ない。
まあ、僕はこの髪型好きだから、増えてくれて嬉しいのだけど。
そんな八重垣先輩と僕との関わりは前述したとおりゼロで、今後も僕は彼女の背景のように生きていくのだろうと思っていた。
そう、あの日までは。
より言葉を選ぶとあの日ではなくあの朝となるのだけれど、あの朝、僕がいつも通りに悪友、吉野翼美と一緒に登校し下駄箱を開けると、それは入っていた。
真っ白な封筒に、ハートのシール。
あまりにも古典的なその姿は、誰がどう見てもラブレターだった。
──ラブレター!? 令和の時代に!?
驚愕のあまりガタガタと震える指先を必死に抑えながら、僕はそれを摘まもうとするが、勢い余って簀の子の上に落してしまう。
慌てて拾い上げようとするが、そんな僕よりも早く、地面にひらひらと舞い降りたラブレター(疑惑)を抜け目なく翼美が拾い上げる。
いつもなら気が利く友人に感謝したいところだけれど、今日だけは見逃して欲してくれと叫びたい気分だ。
しかも裏側に名前が書かれていたようで、翼美はその名を読み上げる。
いつも通りのどこかとぼけた声色で。
「八雲ちゃん、これ、八重垣穂美香って書いてるよ」