4話
またも、部屋の枕にうずもれる。執事の紅茶をごちそうになった後、執事は長話に着き合わせて申し訳ないと、謝って部屋を出た。
時間はどれくらい過ぎただろうか。ただ、顔をうずめた枕の隙間から見える窓は、とっくに闇を纏っていた。
「わかんないわよ……」
ここにいる者たちの、〈こころ〉とはなんなのか。私が間違っているのだろうか。私の復讐心は、正義は、的外れのものなのだろうか。魔族を悪だと決めつけるのは、淘汰するべきもの
と思うのは間違っているのだろうか。
ふと、部屋の柱時計が八時を告げる鐘を鳴らした。低い音が、耳に響く。すると同時に、またもノックが響いた。
「ただいま、御嬢さん。ところで夕食の時間だ。寝ているのでなければ来給え。今夜は魚を使った料理だそうだ」
吸血鬼の声。こいつはどうなのだろう。こいつも、使用人たちのような〈こころ〉を持っているのだろうか。父は一方的にこいつに勝負を挑み、こいつは死なないために父を殺したのだろうか。
「……だとしても、こいつだけは許せない」
ぼそっとつぶやき、剣を腰に下げて扉へと向かう。扉を開けると、相変わらず薄く笑みをたたえた顔がそこにはあった。
「まだ剣が必要か? 御嬢さん」
そういってまた哂う。
「……放っておいて」
勝てないのは知っている。それでも、負けだけは認めたくなかった。吸血鬼はすたすたと先に行く私を見た後、肩をすくめてついてくる。
「日中に何かあったのかな」
隣に並ぶと、そういって私の顔を覗き込んでくる。
「……黙れ」
「……そうか」
また何か言ってくるかもと思ったが、すんなりと下がった。ちらと横目で見てみても、別段変わった様子はなかった。
夕食は執事と少女が作ったらしい。特に新鮮な魚と牛肉をマリネしたサラダはおいしかった。
食事も終え、皆それぞれ紅茶をすすり、談笑している。このテーブルを囲んでいる四人は、本当に幸せそうだ。家族のようだ。でも私は違う。なぜだか、最初よりも、もっともっと、私は違うのだと思えた。
なんとなく居づらくなり、部屋に戻ると言い残して立ち上がった。するとその時、聞いたこともないような声が背中にかけられた。
「――待て」
その声の主は吸血鬼。振り向かなくても分かる。この透き通るくせに妙に耳に残る声は吸血鬼のものだ。それでも、いつもの声とは全くの異質だった。驚いて振り向く。しかしそこに
あったのはいつもの哂い顔だった
「明日、完全に日が昇るまで、できれば屋敷の外には出ないでくれ。ちょっとした余興の準備をしなくてはならないからな」
そういって、吸血鬼は紅茶をすすった。
余興とはなんなのか、気になってしまっている。何かをたくらんでいるのだろうか。油断しきったところを仕留めに来るのか? しかしそれでは手間がかかるだけだ。すぐにでも殺せるものにそんなことをする意味はない。それとも絶望をさせたいだけなのか? 本当にただの余興なのだろうか。
いろんなことがありすぎて、疲れてしまった体をベッドで休ませる。聞いた話は、どれも嘘とは思えなかったし、彼らの言葉は私の中でぐるぐるとまわっている。初めて魔族と会話し、それに感情があるということを知った。理性があることを知った。本能の塊であると思っていた、獣のようなものだと思っていたモノとは全く異なる彼ら。私はどうしたらいいのだろうか。教えてくれる人はいない。
「わかんない……」
そうやっていろんなことを考えていくうちに、疲れていた私はゆっくりと眠りに入っていった。
外が騒がしい。なんだというのだろう。
眠っていた体を起こすように伸びをした後、部屋の扉を開けた。すると遠く外から何やら怒号のようなものが飛び交っている。そしてその中に、自分たちの王国の名を叫ぶ声が聞こえた。
「まさか……応援が来たの!?」
急いで剣と装備を付けて、玄関へと走り出す。階段を飛び下り、全速力で玄関ホールへと向かった。しかし、玄関には少年と少女が立ちふさがっていた。
「……行かせません」
少年は少女と玄関を守るように、立ちふさがっている。
「どきなさい。吸血鬼の言っていたことはこれだったのね」
外では明らかな戦闘が行われている。飛び交う怒号と、大きな爆音。大砲までも持ち込んだのだろうか。まだ遠いが、とにかく今は吸血鬼が相対しているはずだ。今王国軍に加われば、もしかしたらいけるかもしれない。音から察するにかなりの大規模な部隊だ。物量で押せるか
もしれない。
「どきなさいと言っているの」
剣を抜き放ち、少年へと構える。少年は一歩後ずさりはしたが、それでもまっすぐに私を睨
む。
「行かせません。行かせるわけにはいかないんです」
「死にたいのね?」
「騎士様と、ご主人様のためです」
こちらをにらむ少年の目には一切の脅えもなく、ただ、青い薔薇のような色をした瞳をこちらに向けるだけだった。
「……」
たった半日で、情が移ったわけではない。それでも、なぜか私は彼を、彼女を切るのをためらった。それなりの戦闘能力はあるのだろうが、私の敵ではないはず。なのに、なぜ――。
「――ッ! 邪魔よ!」
一瞬で間合いを詰め、少年を少女ごと切り裂く、切り裂こうとした。でも私は彼らの横をすり抜け、そのまま玄関を体当たりと共にこじ開けた。
「騎士様ッ!」
少女の悲鳴のような声が聞こえたが、それも構わずに走り抜ける。辺りは朝焼けによって白く、淡く輝いていた。手入れの行き届いた美しい庭を走り抜け、敷地の外へと通じる石畳を駆ける。するとほどなくして、悠然と立つ吸血鬼の背中が見えた。
「……出てくるなと言ったろう」
こちらに一切振り向かず、目の前を見据えている。吸血鬼は外出用だろう、銀刺繍の鮮やかな深い紺色の外套を身に纏い、中には同じく薔薇の刺繍の美しいサーコートをかけていた。そして、ただただ前を見据えていた。
「あんたを殺すチャンスじゃない。来てるんでしょ? 私の国の軍が」
「ああ」
吸血鬼はそっけなく答えた。そして答えると同時に、初めてこちらを向いた。
「――!」
すべてを飲み込むかのような、暗い血のような色をした瞳が、顔の影から光っている。私と闘っていた時ですら見せなかった表情だった。ただの無表情なのに、いやだからこそ得体のしれない恐怖を感じる。
足が思わず震え上がった。脛当てがカチャカチャと音を立てる。視界は吸血鬼のほかには、真っ黒な丘と白い空のみが見えるような錯覚さえ覚えるほどの存在感。
「屋敷に戻れ。それがお前のためだ、御嬢さん」
声色だけは、今までの吸血鬼と変わらない。だがそれが逆に異様さを感じさせる。それでも。
「それでも……私はここに、お前を倒しにここに来たッ!」
叫び、一閃。斬り付けると同時に奴の反対側、自軍側へと走り抜ける。
「……」
やはり無傷、か。それでも、これだけの物量だ。どんな力かは分からないが、いつか限界が来るはずだ。
睨み合う。今私たちの軍はきっと道中の魔族に足止めを喰らっているのだろう。軍が到着するまで、私ここで持ちこたえれば――。
「御嬢さん。君は敵を作ったことはあるか?」
吸血鬼が、唐突に訊いてきた。
「……どういうこと?」
意味は分からないが、奴から話しかけてくれるならいい時間稼ぎになる。私は話を続けるようにした。
「そのままだよ。敵を作ったことはあるか。故意だろうと過失だろうと」
「……」
答えに詰まった。なぜ詰まる。敵なんてこいつや襲い掛かる魔族だけだ。作るも何もない。なのに、私は言葉に詰まった。
「なら、質問を変えよう。君は何か疎まれたことはないか?」
「……!」
その問いには、思い当たることがあった。疎まれる、それはきっと同じ人間からだった。
「もう一つ訊こう。君にとっての敵とはなんだ?」
「……そんなもの、お前以外に何がいる」
決まっている。どれだけ決心が鈍ろうと、どれだけ居心地がよかろうと、どれだけ言葉巧みに惑わされようと、私の敵はこいつだ。
「……そうか」
そう言ってから吸血鬼は、一歩も動かずに私を見る。
「お前にとってはもう、俺”が”敵なんだな?」
その問いの意味するところは、なんとなく分かった。使用人たちは敵ではないのだろうと、そう言いたいのだ。この吸血鬼は。
「なら、それでいい」
そういう吸血鬼の顔は、なぜかほころんでいた。
「いったい何を考え――」
「勇者だっ!」
言いかけたとき、後ろで誰かが叫んだ。いつの間にか視界にはっきりと見えるところまで軍が近づいていた。その中の兵が私を見つけたのだ。それを期に軍はさらに怒号を上げる。私の
名前を叫ぶ者もいれば、勇者がいたぞと雄たけびをあげる者もいる。
士気は、十分に上がっているように見えた、が。
「――勇者だっ! まとめて殺ってしまえぇっ!」
その一言が、私の耳に届いた。幻聴でもなんでもない。確かに、「私も殺せ」と言ったのだ。あの兵士達は。
「裏切り者だっ! 堕ちた魔女だっ!」
「見ろっ! 魔族と並んでやがる!」
「殺せぇぇぇぇ!」
のどの奥がひりつくように熱い。呼吸がうまくできない。どうして? なんで私を殺そうとする? 私はあなたたちの味方だ。なんで、なんでなのよ――。
なおも怒号は続き、彼らは徐々にこちらに近づいている。
手から力が抜けていき、剣を落す。膝に力が入らずに、立っていることもできなかった。
「……そら、言っただろうに。屋敷の外へ出てくるなと」
見上げた吸血鬼は、さみしそうな顔をしていた。
「……俺と似たようなものだ。国を揺るがすほどの力を持つものは、それが〈こころ〉を持つ個人であればなおさら……他の者からしたら脅威でしかない」
私に触れることはせずに、頭を撫でるように、吸血鬼は私に手をかざす。
「感情とは移りゆくものだ。いつ裏切るかもわからず、自分の味方にいてくれるかわからない。どれだけ巨大な力であろうと、それが完全に自分の意思のもとにおけないのであれば、手放した方が安心できる。恐れている方も、〈こころ〉があるのだから」
私から手を放すと、吸血鬼はいつもよりも強く歩みを進めていった。
「大方、お前の国王はお前を飼い慣らしておけるかが心配になったのだろう。ただの町娘ならいざ知らず、勇者とまで呼ばれるほどの力をつけた少女を。だからこそ、お前を先駆けとして奴らの道を切り開かせ、後を追わせた。反逆者として」
怒号は鳴りやまず、ひたすらに殺意を向けられる。
「お前の父も……美しい目をしていた。そして優しい笑顔をしていた……。共にワインを楽しんだ友は、今も……」
「ッ! それって……」
父さんはこいつが殺したんじゃなかった? こいつと友達になって、そして、反逆者として、国に殺された?
何も、何もする気力が起きない。嘘だと否定する気力も、泣き叫ぶ気力も、立ち上がる気力も。ただ、抜け殻のように、何も考えられなかった。
「……どうする? お前はこれから、どうしたい」
吸血鬼が問う。私はこれからどうするのかを。復讐する? でも誰に、どこに、復讐すれば
いい。私の信じてきた道はもう崩れている。どこにも歩いていけない。
「――もう、私ひとりじゃ……なにもわかんないよ――!」
涙があふれてくる。泣きたくもない、泣く気力もないのに、私の〈こころ〉は涙を流させる。
「――ならば、ここで死ぬか?」
吸血鬼が問う。私は、死にたいのだろうか?
「――ならば、逃げおおせるか?」
私は、どこに逃げればいい?
「――ならば、すべてを殺すか?」
私は、誰を殺せばいい?
「――ならばお前は、誰といたい?」
私は、誰と――。
その時浮かんだのは、居心地のいい、あの場所だった。
「私はっ――!」
「よく言った、御嬢さん」
やっと声を上げたとき、彼は、微笑んだ。
「ならばまずはここを切り抜けねばな。何、お前はここで休んでいろ」
微笑みから一転、好戦的に牙をさらした彼は軍へと向き直り、ゆっくりと歩を進める。
「さぁ、始めるぞ、人間」
外套がはためき、彼を中心に軍の方へと影が地面を覆い尽くし、また空も同様に、軍のいる場所だけがどんどん漆黒へと染まっていく。まるで生き物のようにうごめく影は、いたるところを埋め尽くし、そして朝日の輝きまでをもかき消した。視界に広がる丘は漆黒に染まり、兵たちもその光景に驚き叫ぶ。しかしその声すらも影に取り込まれていっているかのように、徐々に小さく、ついには無音無風の空間となった。そして染まり切った空間には、地面にも空にも、いくつもの紅い幾何学模様が次々に現れていく。地面は揺れ、無音無風の空間において、突如空間の中心に現れた黒い大きな球体が、まるでこの世の獣のすべての唸りを合わせたような悲鳴を上げている。吠えるような音を出す。
「驚天動地だ――死に物狂いで耐えろよ?」
彼が哂い、目を見開いた瞬間、その目はさらに輝きを増し、空間の模様も激しく光りだした。するとすべての影がぼろぼろと崩れ始め、空が、大地が歪み始める。まるで真ん中の球体に重力があるように、崩れていった影は中心へと集まっていく。ガラスにひびを入れたように風景は歪み、断裂し、空と大地が混ざり、すさまじい轟音はやがて、この世の生物のものとは思えない金切り声をあげ、球体は真っ黒な穴へと姿を変えた。やがて黒い球体は小さくなっていき、見えなくなった。そのあとにはさっきまでと全く変わらない、ただし人っ子一人いない朝焼け
の風景だけが広がっていた。
「…………」
間抜けに口を開いて見ていることしかできなかった。目の前で起きた現象が、いまだに現実味を帯びない。
「安心したまえ。派手に見えるがただの転移術だ。今頃どこかの森で寝ているだろう」
いまだ、反応できずにいる。
「……ん? どうした御嬢さん」
吸血鬼が私の顔を覗き込んできた。目の前の真紅の瞳を見て、やっと我に返る。
「なっ! 今のは」
「転移術だと言っただろう?」
おかしなやつだと、くつくつと哂う。
「それよりも……早く屋敷に戻ろう。今頃アルメがタルトを焼いている。早くいかねばクシェルとユリカに食べられてしまうぞ」
そう言って屋敷の方へと歩き出す吸血鬼。だが私は腰が抜けてしまっているようで、情けないことに立つことができずにいた。
私は、彼に向けて手を伸ばした。
「ん?」
気付いた彼は、その手をじっと見た後、またいつものように哂った。
「どうしたのかね?」
からかわれてる。顔が真っ赤になっていくのが分かるが、このまま立てないのはもっとつらい。
「…………ん」
ぐいっと、手をさらに差し出す。それを見て吸血鬼は満足そうにうなずくと、私の手を取りこう言った。
「了解だ、御嬢さん」
その手は、私のイメージよりも、ずっと暖かい手をしていた。