2話
――俺はお前に、恋をした。
そのぞっとするようなセリフを聞いてから、私は結局奴らの言っていた朝食とやらの席にはいかなかった。当り前だ。ここは敵地なのだ。そして私は勇者――父さんの意志を継いだ勇者なんだ。
諦めたくなんて、ない。
だからといって、私一人で戦える相手じゃない。それはもう、嫌というほどわかっている。一人で勝つことに固執しても、無駄死にするだけだ。それでは父さんの仇を取ることも出来ない。ならば、ここは逃げる屈辱を我慢して脱出し、国王へ増援を頼むべきだろう。もし王国まで戻れずとも、一番近い村から早馬を出してもらって、援軍までの時間を野宿で稼ぐという方法もある。
とにもかくにも、一人ではどうしようもない。
そう考え、私はすぐに行動に移した。いったん自分が寝かされていた部屋まで戻る。
部屋の中を見回せば、私が着ている鎧以外にも、妙にフリルの付いたワンピースやシンプルな女物の服が畳まれておいてあった。その他にも、私がここに来た時に持っていた細かな荷物はそのままだった。
その荷物をまとめて、丈夫な皮でできた旅人用の鞄に雑に入れ、部屋の窓へと近づいた。
見たこともないほど透明な硝子がはめ込まれた窓から外を除くと、屋敷の中庭らしきものが広がっていた。中央に東屋が建つ中庭には、様々な植物が花を咲かせている。
屋敷は中庭を囲むように建っており、ちょうど四角をつくるようになっていた。丁度向かいにある棟を見る限り、自分はどうやら3階にいるようだ。
「……こっちは無理か」
私はそのまま部屋を出ると、廊下にあるこれまた透明な硝子がはめ込まれた窓を静かに開けた。こちらは遠くに森が見え、外に向いているのが分かった。
細身の私であれば十分通れる。左右を確認し、付近い誰の気配もないことを確認した私は、開け放った窓に体を滑り込ませた。
そのまま当然、私の体は外へと飛び出す。大きな屋敷の3階から――常人であれば運が良くても大怪我は免れない高さだが、何のことはない。父さんに追いつくためにいろいろ鍛えたのだ。私は地面に落ちる少し前に屋敷の壁を蹴り、落下の勢いを前方に移して地面を転がるようにして着地した。
上手く受け身を取り、そのまま私は屋敷の敷地外へと走る。生垣や花壇を飛び越えながら走れば、すぐに私は高い鉄柵へとたどり着いた。
花や草花がかたどられたお洒落な鉄柵は私の身長の2倍ほどはあるが、これも私にとっては問題ない高さだ。見たところ何かの罠が仕掛けられているわけでもない。迷わず手をかけてそのまま駆け上がるようにして鉄柵を越えた。
越えた、はずだった。
「…………へ?」
私の体が鉄柵を越え切った瞬間、なぜか私は寝かされていた部屋に立っていた。
「……なっ! どうして!」
あたりを見渡すが、間違いなく私が寝かされていた部屋だ。フリルの付いたワンピース、無造作に振り払われた毛布、薄青のカーテンの付いた天蓋付きのベッド。
どれも確かに私がいた部屋の物だ。
思わず、自分の手を見る。そこには確かに鉄柵を握った感触がある。足にも、高い場所から着地した独特のしびれのような物が残っていた。しかし私がいるのは確かに部屋だ。捉えられていた部屋で間違いない。
「…………」
理解ができず、口を開けてしまう。奴らの術か? いやそれなら術を受けたという感覚があるはずだ。私は魔族の持つ邪悪な魔力を感じ取ることも出来る。奴らが魔法を使ったのなら、それが視界に入っていなくてもなんとなくわかるほどに、私は鋭敏に魔力を感じ取れる。なのにそんな気配はなかった。誰にも気づかれず、私は鉄柵を越えたはずだ。鉄柵にも、そういった細工はなかった。
そもそも、こんな術は聞いたことがない。瞬き程の一瞬で移動する術など、いままで戦ってきたどんな魔族もしなかった。
「無駄だよ、御嬢さん。君はこの屋敷から出ることは、できない」
「――――っ!」
不意に後ろから発せられた甘い声に、私は驚き腰の剣を抜き払った。振り向きざまの一撃は、声の主に容易に止められていた。
「くっくっく。相変わらず元気な御嬢さんだ」
美しい顔に三日月を浮かべながら、吸血鬼がそこにいた。
「――――」
息が荒くなる。恐怖。久しく感じなかったその感情が心を満たしていった。
「いやなに、すまないな。レディの部屋に許可なく入るのはどうかとも思ったのだが、ずいぶん大きな”着地した音”がしたものでね。気になって入ってしまった」
「……どういう、事」
やっとのことで絞り出した声はかすれており、情けないことに少しばかり震えていた。
私の問いに、男はまたくつくつと嗤うと、なんてことはないような調子で続ける。
「まあ、俺の力の一端……のようなものだ。深く考えても理解はできんよ」
剣から手を放し、吸血鬼はそのまま部屋の外へと歩いていった。
「とにかく、君がこの屋敷を出ることは叶わない。申し訳ないが、もう少しこの屋敷で大人しくしていてくれ」
そう言って彼はそのまま部屋を後にした。
結局あの後、再び朝日が昇るまで私は部屋で動けずにいた。時間がたつにつれてパニックになっていた頭は落ち着き、何があったのかを整理しようとしたが、それでもあの、鉄柵から部屋まで一瞬で移動してしまった不可思議な現象の理由は分からなかった。
……さすがに、二日も飲まず食わずだと少々体がだるい。
頭もだいぶ回らなくなってきている。当然ながら寝ることも出来ていない。敵地のど真ん中で寝れるほど愚かではないつもりだが、それでもぼうっとしてきてしまっている。
そんなことを考えていると、部屋の扉がノックされる。そしてあの、忌々しい甘い声が聞こえてきた。
「御嬢さん。朝食ができたそうだ。もう二日だろう? そろそろ意地を張らずに食べたらどうだ」
その声に、剣を手に取るが一瞬、頭の中で”そしてどうする?”という問いが浮かび上がる。今確かに奴は扉の外にいるが、体調万全でない今の状況と奴の正体不明の力の前にどうするのか。
「…………」
かすかに、扉を開ける。細く開いたその隙間からは、奴の服の一部が見えた。
「くっくっく……さあ、朝食はこっちだ」
吸血鬼は扉がかすかにあいたことを見やると、そのまま廊下をゆっくりと歩きだした。
装備は決して外さないまま、私は奴の後ろをついていった。今は、勝てない。それはもう十二分にわかった。そしてここから出れないことも。だからこそ、今は機会をうかがうことに専念しよう。
震える手を強く握りながら、私は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。
「そら、早く席に着くといい。冷めてしまうぞ?」
連れられ食堂の扉を開けると、さわやかな香りが鼻をくすぐった。立派な大きな丸テーブルの上にはこんがりと焼かれたパンに、部屋に入った時の香りはハーブを練りこんだバターだろうか。他にもみずみずしいサラダに厚切りのベーコン、野菜と白身魚を煮込んだスープが並べられていた。昨日から何も食べていないお腹は、本能的に目の前のおいしそうな食事に早くも反応を示しそうになってしまった。
「…………」
思わず、唾をのむ。でも、これは敵が作った食事だ。口になんて入れられない。いくら空腹であろうと、そんなことはしたくない。しかし、口の中は唾液を出し続けている。それでも、毒が入っているかもしれないし、訳の分からない材料が使われているかもしれない。でもお腹はなりそうだ。
一人本能と闘い続けていると、控えめなノックがした後、扉が開いた。
「おはようございます、ご主人様。今日は一段と早いんですね」
「おはようございます。今日も良い朝ですね、ご主人様」
入ってきたのは私より少し下ぐらいに見える男女だった。額に黒い角をはやし、中性的な顔の銀色の髪を持つ少年と、薄い赤色の鳥のような翼を背中から生やした、綺麗な赤毛の少女。この魔族の二人は、昨日の戦いで傷を負った私を部屋まで運び、あまつさえ手当まで施していった二人だった。
「あ、昨日の騎士さん。もう平気なんですね」
角の少年の方が、人懐っこい笑顔を私に向ける。
「無理はなさらないでくださいね? いくらご主人様が加減をしたと言っても、けがをしたことに変わりはないのですから」
少し背が小さめの翼の少女は、本当に心配そうな様子でこちらを見つめてくる。
なぜ、この屋敷の化け物は私という人間に対して攻撃をしてこないのか。それどころか部屋も食事も用意してくる。この屋敷のに来るまでの魔族は、理性のない獣のように襲い掛かってきたというのに。
「……おや、起きられたのですねお客人。お気分はいかがですかな?」
今度は、奥の方から執事服を着た姿勢の良い老人が、紅茶を載せた銀色の盆を持って現れた。
「昨日は何も口になさらなかったので、心配しましたよ」
柔和な笑みをたたえながら、テーブルに五人分の紅茶をのせていく。
「皆もそろったし、紹介しよう。黒い角がクシェル、庭師だ。翼の少女がユリカ、メイドをしている。そして執事のアルメだ」
そういって一人ずつ手を向けて挨拶を促す。
「クシェルです。よろしくお願いしますね、騎士さん」
さわやか、と言った表現がしっくりとくる笑顔で、丁寧にお辞儀をする。ともすれば女の子と言われても仕方がない華奢な体つきだ。
「メイドをしております、ユリカです。未熟な点は多々ありますが、どうぞよろしくお願いします」
少々間延びしたような、ゆったりとしたしゃべりの少女。背格好は私よりも少し低いくらいで、きらきらと輝く長い赤毛は椿の花のようだ。
「アルメと申します。ご不明な点があれば、何なりとおっしゃって下され」
見た目は五十か六〇か、その見た目に反して姿勢の良い立ち姿は見た目よりも若々しい印象を受ける。
「これが俺の使用人たちだ。よろしくしてやってくれ」
そういうと吸血鬼は軽く手をたたいて言った。
「紹介も済んだし、朝食にしよう。今朝も張り切っていたからな。もう空腹が限界じゃないか?」
吸血鬼は、からかうような目を私に向ける。
「……昨日も言った。貴様らが作ったものなど食えるか」
「そう邪険にしてくれるな。毒など入っていないし、食材も全て人間の食べ物だよ」
また、くつくつと哂う。
「そんなことよりも……さぁ。食事にしよう」
吸血鬼が皆に座るように促す。
「人間たちの貴族では珍しいだろうが、ここでは使用人たちと共に食事をとるルールだ。慣れなくても従ってくれ」
そういい、吸血鬼は自分の隣にある椅子を引き、どうぞというしぐさをする。
「だから! 私は食べないと言って――ッ!」
言った瞬間、こらえていた腹の虫がきゅるるっと微かな音を立てた。その音でも、この部屋にいる者たちに聞かれてしまったようで、吸血鬼は笑いを堪え、他のものはにこやかに笑っている。何とも言えない恥ずかしさで顔が熱くなってくるのが分かった。
「くすくす。ほら、無理しないでください。ちゃんと食べましょう? 本当においしいんですから」
にっこりと笑いながら、少女が私の腕をつかみ、席へと誘導していく。
「そうです。一日の活力がみなぎってきますよ」
少年の方も、さわやかな笑顔をたたえる。
「おかわりもありますので、好きなだけ召し上がって下され」
綺麗な動作で、皆のサラダを老執事が取り分けていく。そして私たちを見ながら、吸血鬼はまたいつものように哂っていた。
†
「……さて、どうかな? アルメの料理は。デザートまで綺麗にたいらげた御嬢さん」
おいしかった。これまで食べたどの料理よりも美味だと、確信をもって言えるほどのおいしさだった。王国での食事なんかよりもよほど完成されていたと思う。
「……」
でも、それを素直には言えるわけがない。このにやにやとした顔をしている吸血鬼には。だから私は、とにかく話を逸らすことにした。
「結局、お前たちは私をどうしたいんだ。殺すこともせず、武器を取り上げるわけでもなく……あげく私を閉じ込めて、どうしたいの」
「閉じ込めているわけではないさ。ただ、今君に王国に帰られると厄介なのでね」
そういって吸血鬼は窓の外、王国のある方角へとその紅い目を向けた。
「近く、その理由も分かるさ」
不可解なことを言ったと思ったら、吸血鬼はそのまま立ち上がると、扉の方へと向かっていった。
「さて、俺はこれからやらなくてはならないことがあってね。暇なら屋敷内を探索しているといい。屋敷の外にも、庭までなら出られる。皆、今日もよろしく頼むよ」
「お任せください」
皆に声をかけると、吸血鬼は扉を開けて出ていこうとしてしまう。その姿を見て、さっきからつっかかっていた疑問をぶつけた。
「最後に応えなさい! なんで人間の真似事をしてるの。どうして、貴様たちはまるで人間のようにふるまう!」
食事の時も、それ以外でも、彼らの行動はまるで敵意がない。同じ人間を迎え入れるような態度。分からない。どうしてこいつらはこんなにも人間のようにふるまうのか。
「真似をしているわけではないよ。ただ、お前たち人間の言う、俺たち“魔族”と“人間”が、良く似ているだけさ」
そう言って哂い、吸血鬼は部屋を出ていってしまった。