1話
目を覚ます。
すると、見慣れない天井――いや、ベットの白樺の天蓋が視界に入った。
寝起きでうすぼんやりとした頭でも、それが精緻な細工を施されているのが見て取れる。何かの植物や花が彫り込まれた木製の天蓋の縁には、薄く青みがかったカーテンで覆われている。微かに揺れるカーテンと頬をなでる風で、今私がいる部屋の窓が開いているのが分かった。
体を起こすが、痛みはない。体に全くと言っていいほど異常はなく、むしろここで眠る前よりも――奴に挑んだ前よりも調子がいいとさえ思えた。
「――――っ」
負けた。そんな言葉が私の頭の中を支配する。
そう。私は負けた。剣を振るい、魔術を行使し、私が持ちうるすべての力を出し切っても、奴には勝てなかった。傷一つ、埃一つかぶせることも出来なかった。
それなのに。そう、それなのにだ。私はこうして妙に高価なベットに寝かされている。殺されるわけでもなく、傷ついた体はむしろ癒されている。
それが、たまらなく頭に来た。
覆いかぶさる上等な毛布を乱暴に振り払い、ベットから起き上がる。改めて部屋を見渡せば、ご丁寧に私の剣が立て掛けられていた。
「――――!」
金と銀で装飾された細身の長剣を手に取り、同じく綺麗に置かれていた私の装備一式を身に着ける。体の動きを阻害することのない軽鎧と鞘から引き抜いた剣を手に、私は見知らぬ部屋を飛び出した。
廊下に出ると、窓から朝日が差し込んでいた。まだ日が昇り切っておらず、薄暗い。
隅々まで手入れの行き届いた赤絨毯の廊下には、高価そうな調度品が大理石の台の上に並べられている。窓は一点の曇りもなく拭かれ、遠く朝焼けに照らされた森が見えた。華やかすぎず、気品さを感じさせる壁の模様は、誰が見てもこの屋敷の主がどんな紳士なのかと想像するだろう。
しかし、この屋敷の主は紳士などとは程遠い、私たちが憎むべき存在だ。私たち人間を脅かす穢れたもの、魔族。その中でも、たった一人で一国を滅ぼせると言われるほどの力を持つ”吸血鬼”。ここはそいつの根城なのだ。
大陸の中央王国から東へ遠く離れた森の中、人間の目を欺くように結界の中に存在していた。この屋敷を見つけた王国は幾度もの侵攻を行ったが、帰還した少ない騎士たちは残らず恐怖を訴え、勇者と呼ばれた私の父も、ここから帰ってくることはなかった。だからこそ私は、強くなろうとした。父の敵を討つと、立ち向かっていった多くの勇気ある者たちのためにも、私が吸血鬼を討つと誓った。
幸い、勇者である父の娘だった私は遺伝的に魔族に対して有効な”聖王術”を扱うことができた。扱えるものが極わずかゆえに、ほとんどの解明や術式が確立されていない聖王術の研究と、父の残してくれた剣術を死に物狂いで修練し、いつしか私が勇者と呼ばれるようになるまで力を付けた。
私はアイツを斬らなければならない。たとえこの命と引き換えになろうとも、私はアイツを殺さなければならない。
なぜかこうして生かされている。それがどんな目的でなのかは分からないし理解などできるはずもない。奴ら魔族と私たち人間は決して相容れないのだから。
理由などどうでもいい。こうして生きているのだから、私は奴らを殺さなくてはならない。そして何よりも、ただ舐められているというのが、子供のようにあしらわれているというのが我慢ならなかった。
廊下を進む。自然と足は速くなる。窓から差し込む朝日が、私の進む廊下を照らしていく。そのままいくつか角を曲がり、吸血鬼の部屋の前まで来た。屋敷の一番奥の、細かな彫金のなされた扉で塞がれた部屋。ここにアイツがいる。確かな気配がある。
「すぅー……はぁー……」
大きく深呼吸をする。今度こそ、私はアイツを殺す。名誉も、富も、命もいらない。アイツを殺して、父の敵を討ち、人々の平和が守れればそれでいい。それが人間の、神に与えられた試練であり氏名なのだ。
ゆっくりと、ドアノブに手をかける。しかしその瞬間、部屋の中から男の声がした。
「どうした? ずいぶんと朝が早いのだな御嬢さん。まぁ入れ。アルメはまだ起きていないから、もてなしはできないが」
「――ッ!」
まだドアノブをひねったわけでもないのに、気付かれていた。まるで来ることでも知っていたかのようだ。それでも、できるだけ動揺せず、私は落ち着いて扉を開いた。
「吸血鬼のくせに早起きとは、感心するわね」
「お早う、御嬢さん。昨晩は良く寝られたかな?」
部屋の奥、窓際に位置する安楽椅子に腰かけ、軽く揺られながら外の景色を見やる細身の男。十八の自分とさほど変わらない年頃に見えるその男は、挨拶と同時に、視線を私に向けた。
真紅の双眸は、相変わらずぞっとするほどの美しさを放っている。金の髪と、男にしては白い肌は朝日に照らされて一層、その存在感を強くしている。身に纏う糊のきいた白いシャツに、品のいい蒼と黒を基調とした上着は、凛とした印象を持たせる。その印象とたがわない声は、透き通るようでいて、妙に耳に残る色気を孕んでいた。
その佇まいだけでも、そこらの美術品や宝石などでは霞んで見えてしまうだろう。それなのに、いやだからこそか。私は恐ろしいとも思ってしまう。
「しかし、まだ俺を吸血鬼と呼ぶのか? それはお前たち人間が勝手にそう呼んでいるだけと言ったろう? 俺は自分を吸血鬼と名乗ったことはない。血など吸ったことはないし、太陽も十字架も杭も心臓も葫も、苦手などとは一言も言っていないよ。むしろ、朝焼けと葫は好きだ。朝焼けの眩しさと葫の旨さはいいぞ?」
そう言って、くつくつと喉の奥で哂う吸血鬼。
「吸血鬼などではなく、ヴィルヘルムと、名前で呼んでくれると嬉しいのだが?」
「ふざけないで! 誰がキサマの名など呼ぶかッ!」
剣を抜き放ち、正眼に構える。そして小さく詠唱を紡ぐ。
「――――炎剣、来たれ。我が意志は汝の篝――――!」
その言葉を紡いだ瞬間、細身の刀身全体が赤い炎を纏い、煌々と燃える。神代白金で鍛えられた剣はその熱を受け、さらに赫灼に輝きをはなった。
しかしそれを見ても、目の前の男は表情を変えずに微笑んだまま「朝から元気だな。寝起きはいい方なのか?」と言って、また喉の奥でくつくつと哂った。
「黙れッ!」
「いやなに、別に小馬鹿にしているわけではないよ。そう怒らないでくれ」
男は立ち上がると、そのまま私の方へと歩み寄ってきた。後ずさりそうになるのを堪え、男を睨み返す。剣を構えているにもかかわらず、この男は何の躊躇も無しに、散歩にでも行くかのような足取りで間合いまで入ってきた。
「――はッ!」
一閃、私は男を袈裟斬りにした。したはずなのだが、剣は男の手によって掴まれ、びくともしなくなった。
「――ッ」
「そもそも、それでは俺に傷をつけられないと、昨日で分かっただろう?」
平然と、燃え盛る剣を細い指でつまんでいた。ただの炎ではなく、聖王術によってできた灼熱が全くもって効いていない。そこらの魔族なら、触れただけで全身が炭になるほどの力のはずだ。剣そのものだって、鉄ですら切り裂けるほどの名剣だ。にもかかわらず、火傷も切り傷も、擦り傷すら付いていない。
――本当に、ふざけている。
そうだ。私は昨日の夜、こいつに負けた。手も足も出なかった。どんな術も、どんな斬撃も、すべてあしらわれるだけだった。何をしても、傷などつけられなかった。
こいつの言う通りなのだ。昨日で分かった。私はこいつに決して勝てないと、生まれ変わろうが勝てないと。自覚はしていたが、改めてその事実を突きつけられると、自然と剣から力が抜けていき、炎も消えていった。
「まぁいい。すまないがここで強力な魔術を打ち出すのは遠慮してくれ。屋敷に被害が出てしまうからな」
男は剣を取り上げると、私の腰に下げている鞘の中に器用に仕舞った。
「そろそろ朝食の時間だろう。アルメの料理は本当に美味い。君も来たまえ。昨晩も夕食を食べていないのだから」
まるで子供だ。全く歯が立たない。本気で斬りかかったというのに、大抵の化け物ならば両断できるほどのものなのに、いたずらをたしなめられる子供のようにあしらわれる。そんな私に追い打ちをかけるように、こいつはまた、私にどうでもいいことを語りかける。
「いやしかし、そのような戦いの格好では、落ち着いて朝を楽しむこともできないだろう。着替えてくるといい。待っていよう」
「……なんでよ」
分からない。どうしてこの男は、私を殺さない。殺そうと思えば、文字通りあっという間もなく消し飛ばせるだろうに。この殺人鬼は、どうして私を殺さないのか。
「どうして、私を生かしているの。余興? 気まぐれ? それとも……私の体でも欲しいの?」
どれであっても、私にとっては死よりも恐ろしいことだ。みじめな姿をさらし、負けを認めるくらいなら、さっくりと殺された方が余程ましだ。
「どれも違うな。君のその問いに対する答えは、もう伝えてあるはずだが?」
なのにこの男は、私の問いに対してニコリと笑いながら、昨日と同じことを言った。
「――俺はお前に、恋をした。それだけのことだよ」
本当に、分からない。