今川義元
神州には特異で巨大な生物がいる。
数mを越える虎、狼等の野獣。人を簡単に食いちぎる牙と爪を持つ巨大な虫。鋼のように固い皮膚を持つイモリにトカゲ。そういった徒人には決して太刀打ちできない生き物たちがいるのだ。不思議なことにその生物は己の生きる場所を定め、その縄張りを出ることが無い。人々はそこを禁域や聖域と呼ぶ。
まれに禁域からはみ出す巨大な生物から、武器を手にとって徒人を守る者を、人々は武士と呼んだ。
巨大な生物と戦うために己を鍛え続けた武士は、やがて自ら禁域に踏み込み、巨大な生物を狩るようになった。中には巨大な生物を捕らえ、己が馬とする猛者まで現れ始めた。
そうして、その極めつけとも言える者は、巨大な生物の力を己の一部とするために禁断の秘術に手を出す。禁域の生物の血肉を集め、練り、固め、契り、命を注ぎ込んで巨大な鎧を生み出した。そうして生み出された鎧の上に纏う巨大な鎧は「外甲冑」または「強甲冑」と呼ばれるが、やがて「強(京)」を上回る「垓」の文字を当てて、「垓甲冑」と呼ばれるようになった。
全高が5mを越える「垓甲冑」は、その製造、維持、運用には莫大な金と人手を必要する。すなわち、今の戦国の世において、これを持つ者こそが実力と権力を兼ね備えた「戦国武将」と呼ばれるのだ。
今川義元は輿の上で身を起こした。
彼は神州に己の威を示すために、持ち出せるすべての戦力を自ら率いて西進する途上にあった。
だが、その侵攻ははやくもつまずいている。織田の抵抗と、予想外の悪天候に、進軍は遅々として進まず、加えて恭順を示したはずの徳川にも怪しい動きがあるというのだ。今も霧に阻まれて、本陣は桶狭間で足を止めたままだ。
今川義元は手に持った扇子をもう一方の手のひらにパシンパシンと打ち付けながら、この凶兆の原因を求めて、今朝から立ちこめている霧の向こう側をにらみつけている。どれほどの間そうしていただろうか、ひときわ大きく扇子を打ち鳴らすとようやく手を止めた。そして、おもむろに彼の後ろに続く十台の荷車に顔を向け、側近の小姓を呼びつけた。
「垓甲冑・赤鳥を動かす。用意せよ」
「大殿様、次の砦まではまだ距離がありますが良いのですか?」
「儂が動かすと言うたが聞こえぬか。用意せよ」
「はっ」
命を受けた小姓が走り、にわかに今川の本陣が騒がしくなった。
「垓甲冑」はその大きさゆえに乗り手を抜きに運ぶのは大変難しい。そのため、戦場へ持ち出す際には、運びやすいようにいくつもの部品へと分解しておき、現地まで運んで組み立てるのだ。当然ながら、その組み立てから起動までには相応の時間を要する。今川義元が用意を命じたのは、織田信長が奇襲をしかけるおよそ二時間前。実にギリギリのタイミングであった。
命令を下してからしばらく後、小姓が今川義元の側に寄り、声をかけた。
「大殿様、赤鳥の用意が整いましてございます」
うむと返事を返し、輿より降り立つ。
その時、一陣の風が吹き、朝より立ちこめていた霧がふき流されていった。
そして今川義元の目の前であらわになるは、陣幕の内側に横たわる巨大な獣。異形の人型。いにしえに伝わる八龍をモチーフとした垓甲冑であった。
そは大元は人型なれど、首から龍が生え、両の腕はそれぞれ二本の龍となり、両の足先にも龍の頭が付いており、おまけに尻尾のような竜の首が尻から生えていて、すべて合わせて八匹の龍となる。今川義元の覇を体現した垓甲冑であった。
赤鳥の頼もしき姿に満足した今川義元は、小姓が恭しく差し出した兜――戦国武将は垓甲冑と対で作られる兜を身につけることで、垓甲冑を意のままに操るのだ――を受け取る。義元が兜をかぶり、緒を締めると、にわかに空が曇り激しい雨が降り出した。
予期せぬ大雨に陣中が騒ぎ出し、雨を避けようとする大勢の者達が激しく動き出した。小姓も主君を雨に打たれたままにしてはならぬと駆け寄って、輿へと戻るように促す。
そんな雑音の中で、今川義元は人馬がかける音と、人が吠えるような声を聞いた。雨で煙る景色をすかして山を見上げれば、そこにあるのは不自然なざわめきと、何かが動く気配。奇襲に気づかぬとはなんたる不覚!!
一番外側にいた部隊が攻撃を受け、瞬く間に蹴散らされて悲鳴と怒号を上げる。それを聞いて始めて、今川本陣は織田信長の襲撃を知った。
突然の現れた織田軍に慌てふためく小姓を今川義元は扇子ではたき飛ばし檄を飛ばす。
「あわてるでない馬鹿者ども。相手の数は少ない、すみやかに防御陣形をとるのだ!!」
続けて、赤鳥へと進み、その上に立つ。
「呪術師達よ、赤鳥を起動せよ。儂自ら不埒者を蹴散らしてくれるわ」
無茶な命令に呪術師達が顔色を変える。垓甲冑を動かすには生け贄が必要だ。用意が無いわけでは無いが、それが十分でない場合、あるいは手順を簡略化した場合、その不足分は呪術師と乗り手にのし掛かってくるのだ。
死ねと言われたも同然ながら、奇襲を退けられなければ同じこと。そこまで割り切れるものでは無いが、大殿の命令に逆らうことも出来ず。呪術師達は戦場の怒号を背に聞きながら、赤鳥の起動を始めた。
兜を身につけた今川義元が、垓甲冑の中へと潜り込み、一体化する。
御側付きの武士達が命がけで稼いだ時間を持って、起動は成った。
雄叫びを上げながら飛び込んできた哀れな犠牲者の血をまき散らしながら、陣幕の向こう側にいる敵兵を威嚇するように龍の鎌首をもたげる。
そして、今川義元はゆっくりと「垓甲冑・赤鳥」の巨体を立ち上がらせた。