織田信長
第一話「桶狭間1560」 全五回に分けて投稿します。
天運に恵まれたか、視界の利かぬほどの濃い霧が人目を避けた行軍を助けている。息を潜めて谷間を歩く彼らは極度の緊張に包まれていた。
地の利は我らにあるとは言え、周りが見えないのではいつの間にか敵方の真ん中にいることもあるかもしれない。
命がけの奇襲を成功させるため、兵達を率いる将達は時の運をがあることを必死に祈っていた。
「殿、本当にこれで良かったのですが?」
先陣を行く織田信長の背に、随行する家臣が声をかけた。
「良い」
信長は短く応えた。彼は後ろに続く三千の兵の命とその向こうにある尾張の明日を背負っている。ここで余計なことを口にして不安を煽ったり決意を乱すわけにはいかない。
そも、この奇襲は賭なのだ。昨日、ついに今川軍が清洲より一日の場所まで攻め上がってきた。それを聞いた信長が敵方に出陣を悟られぬように清洲城を飛び出したのが未明のこと。今更引き返すことも出来ない。
ただ、ここ桶狭間を目標と定めたのは、熱田神宮で会った若者の言を神よりのお告げと信じた故であった。
「しかし、」
「くどい」
信長が率いる兵はわずか三千。今川の三万とも五万とも聞き及んでいる兵と比べるとわずかでしかない。しかし、信長の兵は常備軍であり、今川が領内よりかき集めた農民兵のにわかとはまるで違う。ゆえに信長は一戦限りの奇襲ならば確実に勝つ自信があった。ならば、後はその一戦どこに持ってくるかが尾張の命運を決する。それを知る家臣からすれば、最後の決断を神頼みとしたのは「らしくない」と思うのも当然であっただろう。
しかして、信長の軍が桶狭間にたどり着いた時、天のいたずらか一陣の風が立ちこめていた霧を吹き払った。眼下の谷間には一群が固まっており、その中央には戦場に似つかわしくない豪勢な輿が鎮座していた。それを見て、一瞬信長たちがざわめく―――この場所に輿に乗るような人物は今川義元ただ一人しかいない、すなわち目前の陣こそが今川の本陣に間違いない―――と。
さらに天は信長に味方する。先ほどの風に続き、空がにわかに曇りだし、激しい雨が降り始めたのだ。
今川本陣は突然の雨に兵たちが慌て、右往左往に駆け回る。それをみた信長が「いまこそ千載一遇の好機!!」と、突撃の命を下した。
雄叫びを上げて駆け下る織田軍は、豪雨に紛れての今川本陣への急襲に成功し、痛撃を与えた。しかし、今川本陣にいるのは精鋭部隊。最初は不意打ちに混乱したものの、御側付のものたちが僅かな間で立ち直り、義元の輿を守らんと防御陣を組み上げて織田方の突撃を食い止めた。
戦場がにわかに硬直する。その様子を見た信長は義元の輿を睨みつけた。あの輿がどちらに動くかでこの戦は決する。
東―――駿河へと動き、義元が撤退すれば信長の勝利。
逆に西へと動けば無防備を晒している尾張へと攻めいられて織田の敗北となる。
だが、ここで信長はもう一つ、最悪の結末に思い至り身を震わせる。
もし、もしも、あの輿が動かなかったら?
動けないのでは無く、動く必要が無いのだったら?
そんな疑問を抱いたとき、一騎の武者が今川の守りを抜け、輿の鎮座する陣幕へと突撃した。
「織田家家臣、服部一忠。今川義元に一番槍を馳走する!!」
大音声の名乗りを上げながら突きだした槍が、義元の輿を囲う陣幕の二つ引両紋を引き裂く。
そして服部一忠は、陣幕の向こう側に赤く燃える二つの目と、牙と鱗を持つ巨大な顎門を見た。
「な、んだと」
慌てて手綱を引き絞るも勢いは止められず、あえなく彼は大きく開いた顎門に飛び込みその命を散らした。
服部一忠の断末魔が響き渡り、信長がにらみつけていた輿が横倒しに倒れ、その異変の原因がゆっくりと姿を現す。
人を丸呑みできる龍がその鎌首を持ち上げて陣幕の上に顔を覗かせた。
そして、それは一本にとどまらず、二本、三本と続き、全部で五本の首が信長達を見下ろす。
「垓甲冑……」
信長の絶望的なつぶやきが、異様な沈黙に支配された戦場に響き渡った。